わたしの誠実

 派遣会社の担当者が、更新意志の確認に来た。

 ここで契約更新することで、また3ヶ月この会社で働くことになる。

 もう、そんな時期なのか。当たり前だ。和佐の誕生日もクリスマスもすぐそこに迫っている。

「業務の方は最近、いかがですか? 全体的に」

 このエリアを担当する櫻井さくらいさんは、小柄で目がくりくりとした美人だ。わたしより若いけれどしっかりしていて、スタッフへのケアも丁寧だ。いつもネイビーのスーツを素敵に着こなしている。

 20代で、正社員で、仕事ができて、美人で。会うたびに、かすかな羨望を覚える。こんな人が恋のライバルだったら、勝てない気がする。

 本当に、いったいなぜアサミだったんだろう。いくら考えても納得できない。特にあのTwitterのつぶやきを見てしまってからは、和佐の人を見る目に不信感が募る一方だ(ちなみに昨夜は「逢いたくて! 死ぬ!!!!!」とツイートしていた)。

「えっと……ですね」

 来年から、神戸に工場がひとつ増える。稼働し始めたら、その購買品のすべてがわたしを通って注文される。それらすべての起票、発注、請求書処理……。

 既に準備物の発注は始まっており、神戸の工場長やアシスタントとのやりとりも増え、忙しくなっていた。

「正直、今でも月末は定時で帰れるかどうかぎりぎりの忙しさなので、工場ひとつぶん加わるのは心配ですね。業務量だけ増えて待遇は変わらないっていうのも、なんだか……」

 直属の上司である伊佐野さんに不満はないけれど、会社の雇用体制などについて、受け入れがたい部分が生じてきていた。

「なるほど」

 櫻井さんは手元のノートにペンを走らせる。その右手の中指に、マスカットキャンディーのような石のまった指輪が光っている。

 あれはペリドットだ。8月生まれなのかな。鉱石やジュエリーが好きなわたしはひそかに見当をつけ、無遠慮にならない程度にその石を見つめた。

「外資ですと、国内企業とはまた事情が違ってくるのかもしれませんね。こちらは比較的、残業はないみたいですけど……」

「残業がないっていうか、しちゃいけないから無理やり定時に終わらせなきゃいけないって感じです。どうしても残業するときは、伊佐野さんに申請して許可をもらわなきゃいけないんですけど」

「ええ、ええ」

「でも、今でさえ結構月末はぎりぎりなのに、これからずっと工場ひとつぶん増えるとなると、毎日申請しなきゃいけないことになりそうで。それがデフォルトとなるとちょっと……待遇はそのままで、業務だけ過密になるっていうのも……」

 自分の話がループしていることに気づいて、口をつぐんだ。

 日頃から、思慮深い話しかたには気をつけているつもりだ。アサミをめぐる諸々もろもろでは、我を失うこともあったけれど。

 櫻井さんはペンを動かす手を止めて顔を上げ、

「では……、伊佐野さんにはどの程度お伝えしましょうかねえ、舘野さんのお気持ち」

「そうですね……」

 契約更新に際しては、雇用側と被雇用側が派遣会社を通じて意志の合意をはからなければならない。双方が「特に問題なし」とするならそれで済むけれど、今回は何となくそれだけで終わりたくなかった。

「現状では問題ないけれど、これ以上忙しくなると毎日残業になってしまうのではないかという点を心配してらっしゃる、って形でやんわりとお伝えしましょうか」

「はい、それでお願いします」

「じゃあ、契約そのものは更新って形でよろしいんですね」

「は……い」

「いいんですよ、もし迷われるようでしたらおっしゃっていただいて」

 こちらの心の揺れを察して、櫻井さんはふんわり微笑む。年下なのに、この包容力ときたらどうだろう。

「……いえ、大丈夫です。お願いします」

 わたしはいつまで派遣社員でいていいのだろう。そんな疑問がふと胸に生じたのだ。

 和佐と結婚することに何の疑いも抱いていなかった頃は、身軽な気持ちだった。結婚したら辞めてもいいし、あるいは自分の小遣い程度の稼ぎさえあればいいと。

 でも、状況が変わってしまった。この先和佐がまた誰かに、あるいはアサミに、心を移さないとは限らない。彼のことは悔しいことにまだ好きだけれど、彼の言葉は信じられない。

 もしそうなった場合、和佐と別れたとして――辛い想像だが――彼なしでひとりで生計を立ててやっていけるのだろうか。

 今、家賃や光熱費、その他諸々の生活費は、和佐が7:わたしが3の割合で共用の銀行口座に入金する形で暮らしている。どこかへ出かける際の旅費やちょっとした外食、突発的な買い物などの雑費は、ほとんど和佐が負担してくれている。

 急にひとりになったとしたら、わたしはきっと生きていけない。

 子どもの頃からぼんやりと夢見ていた20代での結婚は既に叶わず、それどころか30代にして、一から誰かを探すのだろうか。派遣社員の身で。

 9年半近くも和佐だけを見つめてきた自分にとって、それはすごくすごく、怖いことだった。


 面談を終えて席に戻ると、新着メールの中に上海へ出張中の志賀さんからのものがあった。

「EROGAWAっていう冗談みたいな名前の鮨屋があったよ。江戸川鮨なんだろうね。舘野さんと入ってみたいな。そんでえろいことを(笑)」

 社用メールでなんてことを、と呆れると同時に吹きだしてしまう。この人のこういうところが、本当に憎めなくて困る。

 志賀さんのおかげできりきりした心が和んだのも束の間、次のメールを見てわたしは青ざめた。

「下記商品、1個しか届きませんでした。別送で来るのでないようでしたら、再度ご注文ください。」

 静岡の工場長からだった。発注依頼のメールを引用して再送する形で送られている。元のメールに添付されていたPRを開くと、たしかに発注依頼されていた業務用懐中電灯の「数量」欄は2となっている。

 またやってしまった。完全にわたしの見落としである。

 しかも1,000円以下の商品を1つだけ発注してしまった関係で、送料が発生している。

 工場長に謝罪メールを打ちながら、これは伊佐野さんに自己申告すべきか考える。

 いいや。伊佐野さんも最近忙しくて発注履歴のひとつひとつに目を通すほど暇じゃないし、きっと知られずに済むだろう。

 ……しばしののち、思い直してわたしは立ち上がり、通路の反対側の伊佐野さんの席へ歩み寄る。恋人に誠実さを求めるならば、自分がまずそうあろうというささやかな矜持だった。

 相変わらずまじめなのか不まじめなのかわからない自分を、神様がじっと見ているような気がした。

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