電話の向こう
派遣社員の仕事がこんなにきついなんて、正社員として働いていた頃は知らなかった。
月末の請求書処理で鬼のように(という比喩はおかしなものだと昔から思っている)忙しいというのに、通常の発注依頼も容赦なくびゅんびゅん飛んでくる。
各工場からのメールに添付されているPRと呼ばれる発注依頼書を、わたしは舌打ちしたい思いで印刷した。
月末のこんな時期に「まろやかカフェスティック5種アソート」なんて注文しないでよ。わたしは顔も知らない栃木工場のアシスタントに腹を立てる。
最近、いらいらすることが本当に増えた。自宅では、何事も起こっていないかのように穏やかに振る舞う和佐が腹立たしかったし、相変わらず無遠慮に和佐にデートの誘いをかけてくるアサミも許し難かった。
15時5分前、「お茶、しませんか」といつもの社内チャットが志賀さんから届いた。
「すみません、月末締めで動けません(泣)。お先に行ってらしてください」
月末を口実にしたけれど、本当はあれから志賀さんと顔を合わせづらいだけだった。なんだかんだと言いわけして、わたしはカフェスペースに行く時間をずらしていた。それでも志賀さんは、めげずに毎日誘いをかけてくる。
PCをにらみつけ、キーボードを叩き、離席しては複合機から印刷物を取り出し、手元の書類をまとめ――ひたすら事務作業に追われていると、突然目の前にPETボトルがどん、と置かれた。
ミルクティーだ。
「えっ、あっ」
顔を上げると、志賀さんが通りすぎてゆくところだった。
声を張れば届きそうだったけれど周囲の耳を意識して、わたしは心の中だけでお礼を言った。
感謝のしるしに少しだけ手を休めて、そのミルクティーを口に運ぶ。忙しくても、ぶっ続けで作業するより休憩を入れたほうが能率が上がるものだけれど、繁忙時はついつい
「まじめなのか不まじめなのかわからない」とわたしを評したのは、和佐だったか、旧友だったか。
首をこきこき回していると、通路の反対側の席から伊佐野さんがするりと移動してきて、わたしの横に立った。
反射的にミルクティーを手で隠そうとし、そんなことをしても意味がないことにすぐ気づいて、わたしは挙動不審になる。
「おつ、お疲れさまです」
「お疲れさま。ちょっといい?」
上司の部下に対する「ちょっといい?」は、拒否される可能性を1ミリも想定していないものだ。
「ちょっとさ、名古屋の発注履歴見ていいかな」
わたしのデスクの上に並べて立ててある工場別の分厚い発注ファイルから名古屋工場のものを、伊佐野さんは返事も待たずに抜き取った。
相変わらず爪が丁寧に塗られていて、わたしは一瞬見とれる。どこのマニキュアかな。
伊佐野さんはわたしがファイリングしてある書類をぱらぱらとめくり「あー、これだ」と開いてわたしの前に置いた。
「ほらこれ、0.5なのに1で注文してるよ」
はっと息を飲んだ。
名古屋工場から発注依頼のあった軍手1ダースを、一昨日たしかに発注した。けれど、PRの「数量」欄をよく見ると、1ではなくて0.5になっている。
はまりがちなトラップだ。普段は気をつけているのに。わたしは唇を噛んだ。
「佐藤さんから電話来てさ。謝っといたからいいけど」
佐藤さんとは、名古屋工場の工場長だ。
「すみません、本当に」
「軍手なんて余ってもそのうち絶対使うものだから、特に返品は不要だって。だけど、気をつけてね」
「申し訳ないです」
久しぶりに、伊佐野さんに注意された。
仕事のミスは、メンタルにこたえた。いや、メンタルが弱っているから仕事でミスをしたのか。
とにかく、間違えた数量や単位が大きくないのが救いだった。内容も消耗品だったから、工場内で持て余すこともないはずだ。
もし、ガスやオイル、鉄鋼などの原材料だったらと思うとぞっとする。
今日は和佐はデートではないはずだ。あれ以来――あの対面以来、ふたりは当日ではなく前日までに予定をすり合わせることにしたらしく、和佐は「明日、アサミと夕食行っていいかな」などと直接わたしに許可を取るようになった。
わたしは冷然と「どうぞ」と答える。だめだと言う権利が、はたしてわたしにあるのだろうか。
昨日は何も言われていないので、今日は当然夕食はうちで食べるのだろう。
早く帰れる方が夕食を作るというルールがわたしたちにはある。前日の残りものや冷凍食品を使ってもいいし、ふたりとも疲れているときは外食や出前で済ませることもある。生協も利用しているので、食材はまめに買い足さなくても大丈夫なようになっている。
スーパーやコンビニの惣菜は添加物が多いので、和佐は好まない。惣菜、わたしは結構心惹かれたりするのだけれど。
ああ、また真先くんと沖縄料理が食べたいな。たくさん飲んで、小さなミスなんて忘れて笑いたい。
気づけばもう、街にクリスマスソングが流れる季節となっていた。バスから電車に乗り換えるとき通り抜ける駅ビルは、どことなくそわそわした人たちでざわめいている。
――大事なことを思いだした。わたしは雑貨屋の前ではたと足を止める。
和佐の誕生日まで、あと1ヶ月もない。12月23日なのだ。
天皇誕生日なので、いつもならそろそろ「陛下、今年は何を御所望ですか」などとふざけながら確認するタイミングだ。
誕生日。そして、クリスマス。
和佐はどっちと過ごしたいのだろう? わたしと、アサミと。
ひとり青ざめたまま突っ立って、駅ビルに流れるクリスマス商戦のアナウンスを聞くともなしに聞いていると、鞄の中でスマートフォンが震えた。和佐だ。
「……はい」
「あ、俺ー。お疲れ。今どこ?」
「まだ平塚」
「あ、そう。俺これから電車乗るんだけどさ。今、こっちの銀行であれ払っといたよ」
「あれ?」
「更新料。マンションの」
どきりとした。
それについては、わたしは考えることを放棄していたのだ。
「……もしかして、住み替えとかしたかった?」
沈黙の意味を取り違えて、和佐が尋ねる。
「ごめん、事後報告で。給料入ったらすぐ払おうと思ってたんだけど、あんま深く考えてなかった」
「考えてよ」
「えっ」
「もっと深く、考えてよ、あたしのこと」
電話で、しかもこんな街中で、何を言っているんだろう。冷静に自分を眺めるもうひとりの自分がいた。
「……ごめん、由麻」
電話の向こうで、電車の入線してくる音が聞こえる。
「帰ったらゆっくり話そう。俺、ちゃんとするから。電車乗るね」
電話は切れた。
気の早いクリスマスソングを背にして、わたしも改札口へ向かう。
ごめん、由麻。大嫌いなその言葉だったけれど、今のは少し違う響きを持っていたように感じた。
気持ちのスイッチを切り替えるように、わたしはホームに滑りこんできたJR線に乗りこんだ。
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