更新案内

 アサミとわたしを引き合わせることで何か少しでも状況がよくなると、本当に和佐は思ったのだろうか。

 退社後の電車に揺られながら、わたしは思考をめぐらせた。

 彼が彼女に送ったあの視線を思いだすだけで、わたしは胃の底から何かがせり上がってくるような不快な気持ちになった。

 たしかに、悪い人ではないと思う。嘘の付けない、逆境にもめげない、強い人なのかもしれない。ボランティア精神にあふれ、犬を愛する心もある、心清らかな人なのかもしれない。

 でも、だからなんだというのだろう。それを言ったら、世の中に悪い人なんてほとんどいないことになる。

 わたしの存在を脅かす彼女は、少なくともわたしにとっては「悪い人」ではないのだろうか。あるいは、「都合の悪い人」。

 彼女の来歴は和佐の好奇心や同情心を刺激し、その容姿や振る舞いにも未知の音楽のような魅力を感じている。いや、むしろもっとシンプルに女性として意識しているのだろう。

 それでもわたしと別れることはせず、むしろ一生一緒にいたいと彼女の前で発言する。その矛盾や無神経さにも腹が立った。

 ほんの一駅乗っただけなのに、電車を降りるとさっきより空気が冷たい気がする。

 自宅を目指しつつ、目の前をいちゃいちゃ歩く若いカップルを見ながら「今のうちだけよ」と低くつぶやいてみた。

 声が届くとは思わなかったが、彼氏の方だけがびくりと振り向いた。


 自分のとるべき態度を決めかねたまま帰宅する。

「お疲れ様。由麻と早くゆっくり話したいけど、今日は普通に残業。先に食べててね」

 和佐からはそんなLINEが入っていた。「普通に」って、何だ。アサミとのデートじゃないよアピールか。

 玄関のレターボックスから、郵便物その他を取り出す。マンションの更新案内書。郵便局の契約社員募集。ピザ屋のチラシ。

 ……更新案内。一瞬、思考が止まる。

 そうだ。この冬で、和佐と一緒に住んで丸4年経つ。

 2年前に一度契約を更新し、また次のタイミングが来ていたのだ。

 更新。また、この部屋で一緒に住むということ。

 それは可能なのだろうか。

 和佐はこれを見たらなんて思うのか。この機会に、アサミとのことが落ち着くまで別居などと。あるいは、別れようなどと。あるいは。

 考えだすと恐ろしくなり、わたしはその書類をダイニングテーブルに放りだした。

 誰か助けて。

 誰か。

 そうだ、真先くん。

 電話をしようと思ったきり何もしていなかったことを思いだし、自分のいい加減さに苛立ちながら、わたしは冷えた指先でスマートフォンの液晶を叩いた。


「合格」

「合格ですねこれは」

 海ぶどうをぷちぷちと咀嚼しながら、わたしたちは微笑んだ。「海ぶどうを新鮮なまま提供できるのがおいしい沖縄料理屋の基準である」という話をして、いちばん最初に注文したのだ。

 電話をしたらすぐに出てくれた真先くんに、開口一番昨夜のことを尋ねた。やっぱり会社まで迎えに来てくれていたという。胸が痛んだ。

 夕食奢るから、と誘い出して最近できた沖縄料理屋に来た。本当にこの人のフットワークの軽さには救われる。

 ラフテーにミミガー、グルクンの唐揚げに田芋のコロッケ。ナーベラーンブシーにゴーヤーチャンプルー。定番料理を次々に注文してゆく。

 店名の書かれた法被はっぴを着た元気な店員さんたちがどんどん運んできて、テーブルの上はすぐにいっぱいになった。わたしたちは旺盛に食べた。

「泡盛も、飲んじゃおうかな」

 昨夜も深酒したばかりなので控えるつもりだったけれど、沖縄料理の美味しさにはやっぱり沖縄のお酒を合わせたくなってきた。

「飲もうよ。せっかく兄貴いないんだし」

 もともとたしなむ程度しか飲まない和佐だけれど、この数ヶ月の禁酒の徹底ぶりは尋常じゃなかった。アサミの話で、やっとわけがわかった。

「俺、出しますから」

「いいよいいよ、今日はわたしが誘ったんだから」

「いいよ、由麻さんに出させるわけいかないよ。たぶん俺の方が飲むし」

 結局割り勘にすることにして、心おきなく飲んだ。泡盛だけでなく、シークヮーサーサワーやオリオンビールもおいしい。

「昨夜も飲んだのにな。太っちゃうね」

 思わずつぶやくと、志賀さんの唇の感触が蘇った。意外にふわっとしていて、でも少しかさついた唇。

「誰と飲んだの? 同僚さん?」

 島らっきょうをしゃくしゃく噛みながら、真先くんが訊く。

「あ、えっと、部署は違うけど管理職のかたで」

 つい歯切れが悪くなる。

「管理職? なんで?」

「いや、えっと、なんか最近仲良くなって」

「誘われたの?」

「まあ、うん」

「……ふーん」

 しゃくしゃくしゃく。真先くんは島らっきょうを噛み続ける。わたしも何となく箸を伸ばした。

「ふたりだけで?」

「うん、まあ、はい」

「ふーん」

 しゃくしゃくしゃく。

 わたしが思っているよりずっと、真先くんは繊細なのかもしれない。

「そろそろソーキそば頼んじゃおっか。あ、テビチそばとかもあるよ」

「そいつに何かされた?」

「何か、って? あっねえ、ヒラヤーチーがあるよヒラヤーチー」

「あのフォルクスワーゲン運転してた人だよね」

「大変、沖縄そばのペペロンチーノだって」

「……よく食うね」

 真先くんは吹きだした。

 結局わたしたちは、ソーキそばもヒラヤーチーも沖縄そばのペペロンチーノも全部食べた。

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