割れた心

 最寄駅で和佐と落ち合い、ふたりで久しぶりにラーメンを食べた。

 和佐は脂質が塩分がとうるさいし、わたしはわたしで長谷川さんに言われた「ちょっと……太りました?」が気になっていて、しばらくラーメン屋に足を向けていなかった。

 早く食事を済ませて「ちゃんと」話したいという思いは合致しているのか、しばし無言で麺をすすり、スープを掬った。


 食後、自宅まで歩きながらコンビニでコーヒーを買い、公園のベンチに座って飲んだ。

 いくら温暖な湘南地域と言えどすっかり北風が冷たい季節だ。でもラーメンでほてった身体にはほどよく心地よい。

 なんだか、家の中でよりも率直に話し合える予感があった。

 犬の散歩をさせている主婦が、目の前を横切ってゆく。

 アサミと溶けたバターのような色をしたあの犬を思いだし、急速に不快感がせり上がってくるのをわたしはこらえた。


「あのさ」

 熱いコーヒーをすすって、わたしは口火を切った。

 徹底的に、訊く。心の準備はできている。

「和佐がアサミさんとデートしてる夜、わたしがどんな気持ちでひとりでごはん食べてるか、わかる?」

 口から出た声は、予定していたよりも冷たく響いてしまった。

「ごめん」

 和佐は間髪入れずに謝り、頭を下げた。

「ほんとに、悪いと思ってる。ほんとに勝手なことしてるって」

「デートして、その後、何してるの? ホテルに行ったり?」

「してないよ」

 和佐は大きな声を出した。でも、わたしの目を見ない。

「それは、してない」

「じゃあ、どうしてあんなにいつも遅いの」

 仕事が定時で終わったとしても、電車とバスを乗り継いでアサミに会いに行き22時に帰宅するなら、さほどゆったり過ごす余裕はないはずだ。頭の中で計算してわかっていたけれど、一度動きだした口は止まらない。

 和佐はコーヒーの紙コップに目を落としたまま、硬直したように黙りこむ。

「部屋の更新料払ってくれたのは嬉しいけど、こんな扱い受けながらわたし、これからも和佐と一緒に住むの?」

「……ごめん。でも俺」

「悪いけどそこまでタフじゃないからさ、結構きついんだよね。仕事中も、今日はデートなのかな違うのかなとか、どんなやりとりして約束してるのかなとか、『好きだよ〜』とかってでれでれ言い合ってるのかなとか、疑心暗鬼で気が狂いそうになるんだよ」

「……由麻、ほんとに」

「手をつないで歩いてるのかなとか、キスしたりしてるのかなとか」

「してない」

 和佐は一瞬顔を上げ、また伏せた。

 わたしは和佐の目を覗きこむ。今日は引き下がらない。

「……いや、ごめん」

 嫌な予感がした。和佐は潰した紙コップに向かって話すように語り始めた。

「アサミが……いや、彼女のせいにするのもあれだけど……アサミが手をつないできたり、別れ際に……キスを求めてきたりは、する」

 わたしは頭がくらくらした。

「……ごめん、まじで」

「キスを求められて、それで、するの? 和佐は」

 心臓が早鐘のように鳴っている。

「……たまに………」

 鈍器で殴られたような衝撃とは言い得て妙だと、わたしは他人事のように思った。

 自分から話を振っておきながら、ショックが大きい。目の前がちかちかした。

 和佐が――和佐が他の女と、キス。

「キスもセックスもしないって、最初に言わなかった?」

 声が震えた。

「ほんとに、ほんとにごめん。アサミ、キスしないと帰らせないとか言うんだ」

「……信じられない。意味がわからないよ」

「ただ、これだけは言わせて」

 和佐は紙コップをベンチに置いて、やっとわたしを正面から見た。

「俺、今ふらふらしてるけど、そのうち落ち着くと思うんだ。変な夢見てるだけで、そろそろ冷めるかもって」

「『かも』って……」

「いや、冷める。だって俺、こんなにずっと由麻が好きだから。由麻と結婚したいから。由麻」

 和佐はわたしの上半身を引き寄せ、抱きしめた。

 結婚というデリケートな言葉を、こんな状況で口にしてほしくなかった。強く抱きしめられながら、わたしは苦々しく思う。

 和佐は何もわかっていない。


「ショウちゃん! こら、ショウゴってば」

 5歳くらいの男の子と、それを追いかける母親がばたばたと視界に入ってくる。

 和佐は慌ててわたしから身を離した。

「もう夕ごはんだから公園はまた明日って言ったでしょ!」

「あ、デート! デートしてるう」

 ショウゴと呼ばれた男の子はわたしたちを指差して高らかに言った。紺色の野球帽をかぶっている。乳歯の生え替わり時期だろうか、前歯が欠けている。

「デートだ、デート」

 わたしたちは仕方なく、ぎくしゃくと微笑んだ。

「こらっ」

 母親は目線だけでわたしたちに詫びると、男の子を引きずるようにして公園を出てゆく。

 よしのと誉くんの、そして姉と甥の近い将来の姿かもしれない。

 わたしは――いつになったら母親というものになるのだろう。

 再び静かになると、和佐はわたしの肩を抱き唇を寄せてきた。

「やめてっ」

 反射的に、わたしは和佐の胸を押し返した。予想以上の力が出た。その勢いでベンチから降り立っ。

 和佐は傷ついた表情でわたしを見上げた。

「アサミとキスした唇なんて、わたしに付けないでっ」

 思わずヒステリックに叫ぶ。

「由麻、お願い、俺」

「信じられない。信じられない、何もかも」

「由麻。……俺、どうかしてるんだ」

 和佐は頭を抱えこんだ。頭を抱えたいのはこっちの方だというのに。

「俺、由麻も……由麻もアサミも、好きなんだ」

 わたしは息を飲む。

「全然違うふたりなのに……何も考えずに由麻と結婚したいのに」

 頭を抱えた姿勢のまま、和佐は細かく震えている。

 コーヒーで温めたはずの指先が、既に冷えている。ああ、コーヒーはホットでも身体を冷やす飲み物なんだっけ。

「心が、割れてしまったんだ、俺」

 頭を抱えたまま、涙声で和佐は言う。

「ただ、由麻への想いは永続的だけど、アサミのことは一時的だから。本当に、それだけはわかるんだ」

 恋は、本当に交通事故のようなものなのかもしれないな。わたしは震える恋人を見下ろしながら思った。

 和佐は和佐で苦しんでいる。その事実をわたしは受け入れざるを得なかった。

 北風が、襟元から容赦なく入りこんでくる。

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