涙とチョコレート

 翌週も、変わらず出社した。

 通うところがあるということは、心強いことだ。どんなに衝撃的なことがあっても、いつも通り出社するという営みを続けている限りは社会的な人間でいられる気がする。

 そのことは、ひどくわたしを安心させた。


 それでもさすがに今日はもしかしたら会社で涙がこぼれてしまうかもしれない。

 そう思っていたけれど、自分の座席に荷物を下ろしてからトイレに行くと、長谷川さんが泣いていた。花柄のハンカチを目にあてて、しゃくりあげている。漆黒しっこくの長い髪が、華奢な背中とともに細かく震えていた。

「だい……、大丈夫?」

 美しい人は泣く姿も美しい、と思いながらおそるおそる声をかける。

 長谷川さんは顔を上げてわたしを認識すると、いっそう激しく泣きじゃくり始めた。

「どうしたのか、訊いて、いい?」

「彼氏が……」

 恋愛絡みか。

 今の自分のこじれた状況を抱えて他人の問題を受け止めきれるか自信がなかったが、ざっくりとでも把握しておかないと声がけの方向性がわからない。

「彼氏が、もう、会わないって」

 ひっく、とひときわ大きく喉を鳴らして泣きながら、長谷川さんは折れそうな声で言った。

 その瞬間に胸をよぎったのは、自分も和佐にいつかそう言われるのではないかという恐怖だった。

 もう、由麻には、会わない。

「好きな人が、できたって」

 ひっく。ひっく。長谷川さんは泣き続ける。

 そうだ、恋人が他の誰かと恋に落ちたら、別れに至るのが普通なのだ。それなのに――。

 口もきけないまま、わたしは自分のタオルハンカチを彼女に渡した。


「あんなにラブラブだったのにねえ」

 相変わらずダイエットクッキーをレジ袋(の中のジッパーケース)から直接食べながら、丹羽にわさんが嘆息した。

 お昼になる頃には長谷川さんはだいぶ持ち直したらしく、泣き腫らして真っ赤、いやにじんだアイメイクで真っ黒な目のまま仕出し弁当を食べている。今日は白身魚の西京焼き弁当だ。

 冬の足音が聞こえてきて、窓から見える富士山も冠雪して真っ白だ。

「温泉とか旅行とか、しょっちゅう行ってたのにね」

「そうなんですよ。さんざんやるだけやりやがって、あのエロが。ファッキン!」

 長谷川さんが突然大きな声を出したので、わたしは慌てて周囲を振り返る。

 昼食中の社員の人たちが気まずそうに目を伏せるのが見えた。

「直接、そう言ってやったら? 引っぱたいてやりなよ」

 丹羽さんは手厳しい。

 でも、心変わりを正直に告げているし、旅行にお金や時間を使ってくれたのだし、悪い人ではないんじゃないかな。わたしはこっそり思う。

「そうですね。最後、もう1回くらいは絶対会うと思うんで。貸し借りしてるCDとか本とかあるし」

「その時にね、新しいオトコの影を見せるのよ」

 丹羽さんは心なしか、いきいきしている。

「新しい男ですか」

「そう。嘘でもほんとでもいいから、やきもち焼かせてやろうよ」

一矢いっし報いる、ってやつですか」

「そ、あわよくばジェラシーで戻ってくるかもしれないし」

「もういらないですけどね、あんな若い子好きのエロ男」

 二人は周りの耳も気にせず喋り続ける。

 わたしも今恋を失うかもしれない状況にあることを、また話しそびれてしまった。


 誰かのスイス出張土産の分厚い板チョコが、カフェスペースのキャビネットの上に置かれている。

 めいめい好きな分だけボキッと折り取って、席に持ち帰って食べる。外資系企業ならではのスタイルだ、とわたしは好ましく思う。

 一般的に、社内で配る土産物というのは個包装されているものが圧倒的ではないだろうか。それはそれで食べやすくていいのだけれど、日本人は会社や同僚に気を遣いすぎだとわたしは常々思っている。

 とにかく大きな板チョコなので、わたしも遠慮なく1列もらうことにする。直接触れないように銀紙の上から力をこめて折る。失敗して、ちょっといびつに曲がってしまった。

「やっほー」

 業務中に土曜日のショックが蘇り、なんだか無性に喉が渇いて15時よりずいぶん早く来ていたのに、志賀さんもやってきた。

「お疲れさまです」

「今、歩いてくとこ見えたから追っかけてきちゃった。俺、ストーカー?」

 笑いながら、よどみない仕草でコーヒーを淹れている。

 笑って受け流し、

「あ、チョコ食べます? 自分のじゃないですけど」

と折り取ったばかりのかけらを差しだした。

「ふーん、あ、スイスか。ってことは、藤川さんだな」

 志賀さんはそう言いながら、突然わたしの手に顔を近づけ、直接ぱくりとチョコをくわえた。驚きすぎて、ける間もなかった。

「……志賀さん」

 大きなチョコのかけらを咀嚼しながら、志賀さんは目線だけで相槌を打つ。

「そんなことするところ、誰かに見られたら」

「俺は別にいいんだけどな。うん、チョコはやっぱ日本のが最高だな」

「志賀さん」

 志賀さんは、わたしの目をじっと見た。

「名前呼ばれるだけで、しびれるよ」

 その目力に、わたしは射すくめられる。

「彼氏の彼女と、会ったんでしょ」

「……」

「今日さ、退社後さ、話聞かせてよ。俺今日残業ないし、めし奢るから。飲もう」

「……でも」

「舘野さんばっかり苦しまなきゃいけないのは、違うと思うよ。気晴らし気晴らし。ねっ」

 丹羽さんの「新しいオトコの影を見せるのよ」が、脳裏をよぎった。

 退社後に駐車場で落ち合おう、チャットで連絡する。そう言って志賀さんはカフェスペースを出て行った。わたしの頭をひと撫でしながら。

 ひとりになったわたしは、スマートフォンを取りだし「今日、遅くなる」と和佐にLINEを送った。

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