ある攻防
駐車場だとさすがに人目に付きすぎるので、会社近くのコンビニの前で合流し、志賀さんの車に乗りこんだ。フォルクスワーゲンであるということしかわからないが、いかにも志賀さんらしいビターなたたずまいのドイツ車だ。
車内は煙草のにおいがして、でもそれほど嫌でもなくて、わたしはそっとヘッドレストに後頭部を預ける。
今夜はもう、どうにでもなれと思っていた。あのピンクの頭の女のことを――そしてその女にご執心な恋人のことを、忘れさせてくれるなら。
和佐からは一言「わかった。何時頃帰る?」とLINEが来ていたけれど、今夜はもう返信はしないと決めていた。
志賀さんの行きつけのお店があるという横浜方面へ走っていると、膝に乗せた鞄の中でスマートフォンが振動した。
小平和佐、かと思ったら「小平真先」と表示されている。慌てて「すみません、ちょっと失礼します」と志賀さんにことわって通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「あ、由麻さんお疲れ。今どこ?」
「今? えっと、会社の人と飲みに行くとこ」
志賀さんがちらりとこちらを見るのが視界の端にうつった。
「……そうなんだ」
真先くんは、しばし黙った。反対車線を救急車がサイレンを鳴らしながら通り過ぎてゆく。
「酒飲みに行くのに、車に乗ってるの?」
「えっ」
わたしは思わず、窓の外を見た。
「いや、いい、ごめん。かけ直すね。土曜日、大丈夫だったかなって思っただけだから」
電話は切れた。
気のせいでなければ、電話の向こうでも救急車のサイレンが鳴っていた。
「誰ー?」
志賀さんが軽い感じで訊いてくる。
「あっすみません、彼氏の弟です。平塚に住んでるので、なんか通りかかったかなんかしたみたいで」
なぜか言いわけめいた口調になった。
「あっほら、ミャンマーのロイヤルミルクティーをくれた人です」
「ふーん」
わたしたちはなんとなく黙って、夜の町をドライブした。
酒飲みに行くのに、車に乗ってるの?
真先くんの言葉が、頭から離れなかった。
志賀さんが連れてきてくれたダイニングバーは、一見して若者は選ばないような渋い店構えだったけれど、古い鉄扉を押し開けると意外にもあたたかみのあるアットホームな空間が広がっていた。
有名な照明デザイナー(という職業があるらしい)がデザインしたというこの店は、間接照明がメインになっており、あたたかなオレンジの光が手元を照らしてくれている。壁から生えているかのように突き出している、大きな丸太をそのまま削ったようなテーブルにも意匠が凝らされている。
カクテルの種類が豊富だし、志賀さんのチョイスしたコブサラダや焼き豚、鯛めしなど、何を食べてもはっとするほどおいしい。マスターも、揃いの黒いタブリエをきりっと締めた店員たちも、みんな気さくでスマートだった。地元の人気店なのか、月曜の夜だというのにほぼ満席である。
ダイキリやサイドカーを飲みながら、わたしは和佐とアサミにまつわるこれまでのことを洗いざらい志賀さんに話した。彼らを直接知らない人に話を聞いてもらうことは、思っていた以上にわたしの心を楽にした。
「いやー、ふざけてるねえ」
ギムレットをずびっとすすって、志賀さんは
「ふざけてますよね」
「ふざけてるよ。どっちかにしろっつーの。俺なら絶対そんな卑怯な真似はしないね」
「彼女がいるのに、こういうのはいいんですか?」
今更だしすごく野暮だけれど、わたしは訊いてみた。
「別れたよ」
「え」
店内にはモダンジャズが低く流れていて、名前は知らないけれどよく耳にする曲が始まった。
「このまえ舘野さんの彼氏のこと聞いてすぐ、俺はそういう下郎にはならねえと思って、すぐ別れた。だから堂々とこうしてるんじゃん」
志賀さんはまた、射すくめるようにわたしを見た。
今までの自分なら、こうして
「俺、当て馬でいいよ。今はね」
「志賀さん」
「はい」
「わたしのどこが、いいんですか」
まだ好きだと言われたわけではないので、言葉を選びながらわたしは訊いた。
「話が合うところ」
志賀さんは即答した。
容姿が好みだと言われるのではないかとひそかな期待にも似た予想を抱いていたわたしは一瞬面くらい、そして恥じ入った。
「彼女、っつーか前の彼女ね。すっごいきれいな子だったんだけど、どんな話題振っても基本的に『へーそうなんだ、すごーい』しか言わなかったからね」
「とか言いながら、さんざんセックスしたんでしょう」
折しも失恋したばかりの長谷川さんの言葉が急に蘇って、わたしはそんなことを口にしてしまう。
「……舘野さん、酔ってる?」
「酔ってません。この程度では酔いません」
「まあいいや、おもしろいから」
「わたしが人生で唯一酔ったのは、内モンゴルのお酒を飲んだときだけです」
言いながらふと、わたしは何か大切なことを忘れているような気がした。
「へええ、
「白酒です。さすがお詳しいですね。それも真先く……彼の弟のお土産だったんですけど」
何だろうか、この違和感は。必死に記憶の糸をたぐりよせようとしたけれど、鍵のかかった扉に行き当たるような感覚があり、すっきりしない。やっぱり酔っているのだろうか。
諦めてもう一杯注文しようと顔を上げると、テーブルの向かい側から身を乗りだしてきた志賀さんの顔がすぐ目の前にあった。
とっさに目を閉じた瞬間唇が重なって、ジンの苦味がわたしの唇に移った。
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