恋人の恋人[後]

「ごめんねえ、この子いつものお散歩コースじゃないと怒るから」

 アサミはそう言って、犬と一緒に歩きだす。わたしたちも後に続くしかなかった。

 公園をぐるりと一周し、住宅地をひたすら歩き、小学校の校庭の脇を抜けて、バス通りに出る。

 アサミの後ろを和佐と共について歩きながら、わたしはいったい何をやっているんだろうという思いにとらわれた。

 アサミと犬の尻を追いかけるために今日、ここまで出向いたわけじゃない。

 わたしにもアサミにも話しかけることなく寡黙に歩く和佐も、なんだか少し愚鈍に見える。

「もうちょっと行ったらドッグカフェだから。ごめんねえ」

 アサミは振り向いてそう言うと、バッグからペリエの瓶を取り、ぐびっとあおり飲んでは元に戻してまた歩きだした。

 わたしは和佐の顔を見る。

 言わんとすることがわかったのか、和佐は気まずそうに唇を引き結んだ。


 目の前に並んだパンケーキには、チョコソースで犬の絵が描かれていた。

「ワンちゃんと同席OK!」といかにも若そうな子の文字が踊る立て看板のあるカフェに入り、通された丸テーブルで3人、向かい合っている。

 四角いテーブルじゃなくてよかったと、わたしは心から安堵した。和佐がどちらの隣りに座るべきか迷うところなど見てしまったら、ダメージははかりしれない。

 アサミの犬・ザッシュは、足元でおとなしく骨の形の何か(犬ガム?)をしゃぶっている。

 わたしも和佐も、食事を甘いもので済ませる習慣はないのだが――食事においてはどうしても塩気がメインのものを摂取しないと落ち着かないという点でわたしたちは嗜好が一致している――、アサミに熱烈にお勧めされてオーダーするに至ったパンケーキをもそもそと口に運んだ。

 彼女のホームに出向いているとはいえ、完全にアサミのペースである。

「おいしい? ねえ、おいしいっしょ?」

 アサミがしきりに尋ねるので、わたしはしかたなく無言でうなずいた。実際、どこにでもある味のパンケーキではあったけれど。

「よかったあ」

 アサミは満面の笑みだ。

 とりたてて美人とは思わない。小作りな顔立ちを濃いめの化粧で引き立てている印象だ。身長もただ高いというだけで、長谷川さんのように優れたプロポーションというわけでもない。

 でも、彼女が笑うと大輪の花が開くようなあでやかさがあった。ど派手な髪の色も、右目の下にある大きめの泣きぼくろも、見慣れるとものすごく魅力的な要素に思えてくる。

 その笑顔を和佐がちらりと確認するのがわかって、わたしは顔に血が上った。

「二人は、恋人同士なんですよね」

 わたしは固い声で口火を切った。

 う、と和佐が何か漏らすのにかぶせるように、アサミが

「うん、ごめんねえ」

 とけろりと答えた。

「どういう経緯で」

 苛立ちで耳が熱くなるのを自覚しながら、わたしは重ねて尋ねる。

「あれ、かずくんから聞いてない?」

 アサミは心から不思議そうに言った。

 かずくん。

 なんだその、凡庸極まりない呼び名は。わたしは、「和佐」という恋人の名前をものすごく気に入っている。てきとうに呼んでほしくない。

「『うさぎのしっぽ』のOB会で出会って、その日のうちに恋人同士になったっていうとこまで聞いてますけど、具体的に何があったのかよくわからなくて。和佐に訊いても的を射ない返事しかないし」

 尋問形式にならないように、感情的にならないように。ひとつひとつ、小さく呼吸しながらわたしは発言した。

「あー、そうかあ」

 アサミは早くもパンケーキを食べ終え、フォークの先でプレートに残ったチョコソースをかき集めながら言った。和佐はうつむいたまま、動かない。

「わかりやすく言えばねえ、あたしの一目惚れだよね。ね?」

 アサミが和佐の顔をのぞきこむと、まあ……そうかな……と彼は口の中だけでぼそぼそ言った。今日の和佐は、不安になるほど頼りない。

「なんか、最初はあたしが一方的に話しかけてる感じでノリ悪いなって思ってたんだけど、あたしのボランティア経験とか職場の話とか、あ、あれね、あたしジハツカンなんだ。そういう話してたらなんか、盛り上がってきちゃったんだよねえ」

 アサミはその日をいとおしむように、半ばうっとりと言う。ジハツカンとは何だろうか。

「そんでそしたら……ねえ。いつのまにか、かずくんがめっちゃ酔っ払っちゃってて」

 おかしそうに言う。

「酔っ払った?」

 そんな話は、聞いていない。和佐の顔を見ると、

「ああ、うん。ごめん、その辺ちゃんと言ってなくて」

 和佐はわたしに向かって拝むようなポーズをとり、その体勢で固まったまま話しだした。

「気づいたら、すっげー気分悪くて。おかしいと思ったら、俺の頼んだ黒酢サワーと彼女の烏龍ウーロンハイが入れ替わってて」

「そうそう、一口目で気づけよってね」

 アサミはけらけら笑っている。ちっともおかしくなんてない。

 話の内容が不快である以前に、わたしは彼女が自分とはまったくフィーリングの合わない人種であることを悟っていた。人との接し方が独特だと和佐から聞いてはいたけれど、予想の斜め上だった。

「そんで、酔っ払っちゃったかずくんがかわいくっていろいろ絡んでたんだけど」

 いろいろ絡んで、とは何だろう。ボディータッチとか? わたしは学生時代に経験した醜悪な飲み会の光景を思いだした。

「一次会だけでさっさと帰ろうとするから追いかけて、もう一件付き合ってもらったの。そしたら、……ね。そういうことになって」

「だから、そこが知りたいんだってば」

 とうとう語気に怒りを含んでしまった。隣りの席の品の良さそうな老夫婦がこちらを一瞥する。

 アサミはやっと言葉を切り、わたしと和佐の顔をじっと見た。そしてうつむき、

「……運命だって思ったから」

 と子どものように小さな声で言った。

「聞いてるかもしんないけどね、あたし親も死んでるし友達もいないの。信じられる? ひとりもだよ。知り合い程度とか、あ、Twitterのフォロワーならそれなりにいるけど」

 急に顔を上げ、「ひひっ」と笑う。テンションの切り替えに、わたしはついていけない。

「だからね、あたしの話……生い立ちとか、ボラのこととか、あんなに熱心に聞いてくれる人、いなかったんだ。顔とか声とかもめちゃくちゃ好きだし舞い上がっちゃって、もうこの人しかいないって思って。だから、付き合ってって言ったの」

「それで……和佐がその場でOKしたの?」

 結末はわかっているのに、わたしは心臓をばくばくさせながら自分の恋人の顔を見た。

「いやもちろん」

 答えようとするアサミを制して、和佐が言った。

「もちろん、彼女がいるからって言ったんだ。俺、由麻と一生一緒にいるつもりだし、酔ってて何がなんだか正直わからなかったし」

 一生一緒、のところでアサミの顔が小さく歪むのを、わたしは見た。

「帰って、酔いが醒めてからよく考えたんだ。よく考えてみたら……また会いたいなって、思った、から」

 ああ。

 今すぐこの場で倒れてしまいたいとわたしは思った。意識を失って、目が覚めたら和佐と二人きりの世界に戻っていたらいいのに。

 タイミングを見計らっていたらしい若い店員が近づいてきて「失礼いたします、こちらお済みでしょうか」と尋ねた。

 誰も反応しない。

 そのとき、それまでまったく存在感のなかった彼女の犬が、わんと鳴いた。

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