音楽が、聴こえる
真先くんが、ようやく和佐に会う気になったらしい。
11月最初の金曜の退社後、バスと電車を乗り継いで自宅最寄駅に戻り、スーパーで食材を調達しようとしていると、鞄の中でスマートフォンが振動した。
表示されている名前を見て、嬉々として通話ボタンを押す。
「はーいっ」
「あ、俺です」
真先くんの場合、メールやLINEではなく最初から電話をかけてくるのは、たいてい「これから行きます」を意味していた。
「今日、行っていいっすかこれから」
「うん! おいでよ。今日はカレーだよ」
電話を切ると、わたしは急いで和佐に連絡しようとして、行き違いで「ごめん、今日遅くなる」のLINEが入っていないことを祈る思いで確かめた。こんなふうに気を回さなければならない事態に自分が少し慣れてきていることに不思議な気持ちを抱きながら。
幸い今日はアサミとの約束はなかったようで、30分後にはわたしも和佐も帰宅し、ミャンマーのお土産を持った真先くんが玄関に立っていた。
「おーっす」
「うっす」
テンション低めながら数ヶ月ぶりの再会を果たす兄弟の姿を確認しつつ、わたしは急いで野菜を刻んだ。
「これ」
ロンジーっていうんだけどさ。食後に真先くんが袋から取りだしたのは、ネイビーブルーの木綿生地だった。
ただの布かと思ったら、ミャンマーの民族衣装だった。街や生活の場で気軽に着用されているものだという。そういえばわたしが自分で調べた観光情報にも書いてあったけれど、実物を一見してそれとは気づかなかった。
生地がとにかく大きくて、筒状になっている。その筒の中に入りこみ、左右にたっぷり余る生地を身体の前で重ね合わせる。左右の生地の先端を臍のあたりで交差させてねじり、内側にぐるぐると巻きこむと、うまいこと固定されるようになっているようだ。
ロングスカートのように見えるが、生地がたっぷりしているのでなかなか動きやすいらしい。
「へえ」
真先くんが屈みこんで着付けると、和佐は嬉しそうに姿見に自分を映した。長身の和佐がますます脚長に見えて、とてもきまっていた。悔しいけれど、こんな瞬間にもわたしの胸はときめいてしまう。
和佐が食器を片付けている間——原則として、食事を作らなかった方が食器洗いをするというルールがうちにはある——、真先くんが「由麻さんと飲むために残しておいた」というミャンマービールで晩酌した。さっぱりした口当たりで、とても美味しい。これでジュースより安いなんて夢のようだ。わたしはますますミャンマーに行きたくなる。
「例の件は、相変わらずですか」
キッチンの和佐をちらりと見遣りながら、真先くんが訊いた。
「相変わらずですねえ」
わたしは2本目の缶のプルタブを引き起こした。
「まじか……。殴ってやった?」
「そうだねえ、そろそろ殴ってもいいよねえわたし」
わたしは苦笑する。殴るどころか、勢いに押されてセックスも拒めないでいるなんて言えない。
「そういや、甥っ子さんできるんでしょ。おめでとう」
「そうなのそうなの! 待ちきれないよ」
言いながらわたしは、真先くんに群馬のお土産を渡していなかったことに気づいた。立ち上がりかけたそのとき、
「あー、俺も早く甥か姪ほしいなあー」
真先くんがキッチンに向かって声を張り上げた。わたしはぎょっとする。
水音が止み、和佐がやってきた。慌てて拭ったらしい指先がまだ少し濡れている。真先くんの前に立って、頭を下げる。
「ごめん、その件は。おまえにも心配かけて」
「心配っつーかさ。俺は別にいいけど、まだ二股ライフやってんの?」
真先くんは容赦ない。和佐はうなだれた。
「最近は、逢ってない」
「でも『彼女』なんでしょ、もう一人の」
和佐は黙りこむ。
「今度会うんだ、3人で」
わたしが横から言うと、真先くんは目を剥いた。
「3人で? その女と?」
「なんか、和佐と結婚したいらしいよ」
酒も回り、なんだかやけくそになって情報を追加してしまう。
「は!?」
「いやあの、それは向こうが勝手に言ってるだけだから。俺は由麻とちゃんと……」
ちゃんと?
わたしは
「3人で会えば、なんか解決するわけ?」
和佐を見上げる真先くんの目に一瞬冷たい光が宿って、わたしはどきりとする。
「落ち着くまで待ってくれとか言ってたけどさ、あ、座りなよ。あれってさ、いつまでの話なわけ。何をどうすれば落ち着くわけ」
和佐に着席を促しながら、真先くんはわたしがずっと訊きたかったことをずばりと訊いた。
「……ちょっと、待って」
和佐はキッチンに引き返し、自分のグラスとつまみ用の蛸のマリネを持って戻ってきた。マリネは、和佐が自分好みにとてもすっぱく仕上げたものだ。
「それ、シャンパン?」
真先くんが尋ねる。
「いや、ノニエキスの炭酸割り」
和佐は一瞬迷って、わたしの隣りに座りながら
「なんか、面接みたい」
と小さく笑った。
「っつーかさ。一夫多妻制じゃねえんだからさ、どっちかにできねえの? ちょっとした浮気でした、とかで終われねえの?」
「浮気ではない」
和佐は急にきっぱりと顔を上げて言った。
「浮気じゃなきゃ何さ、本気? 」
「……いや……浮気とか本気とかそういうのじゃなくて……責任?」
また歯切れが悪くなる。
「責任? 何の?」
「彼女の人生に関わってしまったこと。……や、それだけじゃないけど」
わたしは新たなビールの缶を引き寄せた。酒でも入っていなければ、とても聞けたものではない。
「由麻さんのこと苦しめてまで、関わり続けたいの?」
「苦しめたくはない……けど……ただ」
和佐はいつもの癖で、テーブルの縁を引っかき始めた。わたしはビールの缶にうっすらと浮かぶ水滴を、指でなぞる。
「もっと、知りたいと思うんだ」
消え入りそうな声で、和佐は言った。
……ねえ。それを、人は恋と呼ぶのだと思うよ。
誰も手を付けないマリネの中のわかめの重なりを見つめながら、わたしは不思議なくらい客観的にそう思った。
恋人が、恋をしている。
「理解不能」
真先くんが、肺の奥から取り出すような深い深い溜息をついた。
カレーの匂いが、まだ漂っている。
真先くんが来た夜は、和佐はわたしを抱く。何が彼をそうさせるのかはわからないけれど、初めて真先くんと引き合わされた夜からずっと、わたしの身体に障りがないかぎり、彼は必ずわたしを求める。
その日も例外ではなくて、和佐は一度寝床に潜りこんだわたしをキスで起こし、丁寧に丁寧に身体をほどいていった。
あまりに丁寧すぎて、わたしは泣きたくなる。
9年と数ヶ月、これといって優れた人間でもないわたしをずっと愛し続けてくれていたこと。それはとてもすごいことで、ありがたいことで、くらくらするほど幸せなことだった。
もうひとり恋人を持ちたいだなんてあまりに勝手だけれど、それでもわたしへの気持ちは変わらないというなら、もう少し待ってあげてもいいのではないだろうか。本当に今だけのことだというのなら。
だんだん激しくなる和佐の動きに身を任せながら、わたしは自分の心の動きに耳を澄まそうとした。
たっぷりと時間をかけたセックスの後で、和佐はわたしを後ろから抱きしめながら頬に顔をすり寄せた。和佐のお気に入りの後戯だ。わたしはやっぱり泣きそうになってしまう。
「和佐」
自分の声がしっとり甘く響くのを意識しながら、わたしは問いかける。満ち足りた和佐が、眠りに落ちてしまう前に。あるいは、2回目が始まってしまう前に。
「んー?」
和佐は両手でわたしの胸を包みこみ、わしわしと揉む。気持ちよくなってしまいすぎないようにこらえながら、わたしは尋ねる。
「わたしのどこが好き?」
恐ろしくベタな質問になってしまったけれど、少しかすれた声が切実な響きをもたらしてくれた。長年一緒にいて、こんなにストレートに訊いたことは意外になかった気がする。
「え、知ってるでしょ。全部」
「そういうのじゃなくて、具体的に」
「だって全部好きなんだもん。顔も身体も中身も全部、ぜーんぶ」
甘々モードの和佐は、わたしの首筋にわざと息を吹きかけながら口づける。胸を激しく揉みしだき始めるので、わたしは焦った。
「お願い、ちゃんと言って」
「……えっと」
和佐はやっと手の動きを止めた。
「……かわいいところ。清楚なのに色っぽいところ。言葉遣いがきれいなところ。優しいところ。笑いのツボが合うところ。頭がいいところ。それをひけらかさないところ。英語がうまいところ。常識があるところ」
「ありがとう、もういいよ」
急に自分の美点を列挙されると恥ずかしくなり、止めようとしたけれど和佐は続ける。
「本をたくさん読んでるところ。旅行が好きなところ。センスがいいところ」
「センス?」
「うん。服とか雑貨とかインテリアとか音楽とか、由麻のセンスに俺は絶大な信頼を寄せてる」
「……そうなんだ」
「うん。あとはえっと、健康管理をちゃんとしてくれるところ」
わたしは吹きだした。
「笑わないで、これ重要だよ。……あと、防犯意識が高いところ。清潔なところ。まじめなんだけど時々ふまじめなところ。字がきれいなところ。なんかいいにおいがするところ」
「もう、いいって」
「それから、肌がきれいなとこ。髪がさらさらなとこ。痩せてるけど痩せすぎてないとこ。こことか」
言いながら、また激しく胸を揉み始める。
「ちょっ、こら」
「あとねー、声。喋ったり歌ったり、あと、してるときの……」
和佐はわたしの身体をくるりと回して正面から向き合うと、キスをしながらわたしの脚をまた開かせようとする。すぐにでも2回目が始まってしまいそうだ。
「してるときの、せつなそうな声が、たまらなく好き」
言いながら、わたしの髪の毛をかきあげて耳元に口づける。んっ、と漏らした声をすくい取るように、また唇にキスをする。ずるい。
「何度だって、したくなる」
脚の付け根に伸びてくる手を、わたしは必死につかんで尋ねた。
「じゃあ、アサミさんのどこが好きなの」
和佐はわたしの上にまたがったまま、動きを止めた。素裸で、見つめ合う。向かいのビルの学習塾の看板が投げかける青い光が、和佐の肩で揺れている。
「……俺、今、由麻のことで頭いっぱいだったのに。何でそういうこと訊くの」
どさりとわたしの隣りに横たわった。
「知りたいの。教えて。どこに惹かれたの」
わたしは食い下がる。
和佐は仰向けになり、額に腕をあてたままじっとしていた。
「ねえ」
「……前も言ったじゃん。なんか、強いんだよ。逆境にも屈しないみたいな……あとは……いろんな経験してるとことか……」
「あとは?」
「知らないよ」
「知らないってことないでしょう。彼女なんでしょう」
「ほんとに、わからねんだよ」
「教えてよ」
畳みかけながらも、わたしは気づいていた。言葉にできないのに惹かれることの方が、恋の本質に近いのだということ。本当の「好き」はきっと本能的なもので、説明なんかできない。
ひとつ大きな溜息をついて、和佐は言った。
「なんかさ……、アサミといるとなんか、音楽が聴こえるんだ」
「音楽?」
意表を突かれて、わたしは和佐を見つめる。
「うん。俺の知らない音楽が、いっぱい聴こえてくるような感じなんだ」
自分で訊いておきながらわたしは激しく後悔したけれど、もう遅かった。彼の言葉が、わたしの胸を深く刺した。
「その音楽を、もっと聴きたくなるっていうか……」
「わたしからは、聴こえないの? 音楽」
声が、震える。暗闇の中で、和佐がゆっくりとこちらを見た。
「聴こえるよ。俺とおんなじ音楽」
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