10年かけて

 高校生の頃まで使っていたわたしの部屋はなぜか物置にされていて、わたしは姉の使っていた部屋で寝ることになった。

 姉夫婦は、姉の運転するMARCHで帰っていった。母の手料理の残りをタッパーに詰めこんで。わたしも母のミートローフだけは和佐に食べさせたくて、明日持って帰ることにしている。

 本日の主役である姉夫婦が帰ってしまうと、わたしは手早く食器を片付けて風呂を使った。両親から最近のプライベートについて尋ねられたなら、笑顔で対応できる自信がなかった。

 その雰囲気を察したのか、和佐の「か」の字も話題に出さないまま、両親はおやすみ、と言ってくれた。


 実家を出て上京し、11年と半年が経っている。

 日帰りできる距離に住んではいるけれど、和佐と暮らし始めてからは年に3度帰れば多いほうだ。日頃不義理を重ねている分、たまに帰省したときは基本的に泊まることにしている。明日は祖母宅を訪ねるつもりだ。

 わたしが思春期を迎えた頃、両親は家を増築し、それまで姉と共同の部屋を使っていたわたしに一人部屋を与えてくれた。そのときに切り離して姉とわたしそれぞれで使っていた二段ベッドはいつのまにか処分されておおり、代わりに来客用の折りたたみベッドが置いてある。わたしが身を横たえると、わずかにパイプのきしむ音がした。懐かしい洗剤の香りがする毛布にくるまりながら、わたしはスマートフォンを操作する。

 姉の子が男の子とわかって、わたしはなんだか切実によしのと話したくなっていた。和佐からのLINE(「皆さんお変わりなかったかな?お姉さん、おめでたいね。今日は常備菜を作っていました」といくつかの写真)は今はスルーして、電話帳から「吉田乃梨子」を呼び出す。よしのが「三浦乃梨子」になっても、登録名は変えていないし変える気はなかった。

 授乳中かな、と思ったら5コール目でよしのが出た。

「はーいっ」

「あ、ごめんわたし。今平気だった?」

「平気平気! 嬉しい。ほまれ、ちょうど今おっぱい飲みながら寝たからいいタイミング。ちょっと待ってね」

 部屋を移動するような気配がして、

「もしもーしっ」

 と先程よりクリアな声が聞こえてきた。

「もしもしー。ごめんね、大変なのに」

「大丈夫よー。もっとちっちゃい頃に比べたら授乳もおむつもだいぶ回数減ってきたし、最近はだいぶ楽。まあ、だからって飲み会行っちゃう三浦はあとで説教だけどね」

「飲み会? じゃあ今、誉くんと二人だけ?」

「そう。由麻は? かずきくんだっけ」

「かずさ」

「そうそう、かずさくん。だめだいっつも間違えちゃう」

「今ね、高崎帰ってるんだ。一人で」

「え、そうなの? 実家?」

 そう、と応えながらわたしはベッドに身を起こす。壁にもたれ、心地よい姿勢を探す。

「あのね、わたしに甥ができるみたいなんだ。それで」

「え! お姉さん? うそ、おめでとう! いつのまに」

「そうなの。今ってすごいね、妊娠5ヶ月で性別とかわかるんだね」

「そうそうそう、早いと5ヶ月の健診でわかるみたい。うちはエコーのたびにほっくんが脚ぴったり閉じちゃってて、普通に7ヶ月のときわかったけど」

 姉が学生時代に好きだったバンドのポスターが、まだ天井に貼られている。椅子に乗ってあれを剥がすのが母には大儀たいぎなのかもしれないし、剥がしてよいかどうかを姉に訊きそびれ続けているだけかもしれない。

「男の子のママになるんだってはりきっててさ。なんか、よしのの妊婦時代とか思いだしちゃって」

「そうかあ。あ、ご迷惑じゃなかったらさ、ほっくんのおさがりあげるよ。服やらベビーバスやら何やら。買うといちいち高いからさあ」

「ありがとう。子どもってすぐに大きくなるもんね」

「うん。手がもみじみたいにちっちゃかった頃なんて、ほーんと一瞬だった」

「あれから、またおっきくなったんだろうね」

 きっかり2ヶ月前に会った誉くんのふくふくとした頬や、作り物みたいに細い指先、長い睫毛の陰影を思いだしながら、わたしは気持ちを切り替える。

 軽く息を吸いこんで、切りだした。

「あのさ」

 ずっと、ずっとよしのに言わなきゃいけなかったこと。

「わたしさ、あのクラス会の日にさ、三浦く」

「いいよ、知ってる」

 よしのがびしっと制するように言った。わたしはくじけないよう、スマートフォンを固く握り直す。いつのまにか、布団の上で正座していた。

「そんなこと今、いいよ」

「いや、よくないの」

 わたしは必死だった。

「あたしが勝手に一方的に好きだっただけなんだから、その間三浦が誰と何しようが自由だったんだから、謝ったりしないでね」

 生徒会長として活躍していたあの頃の彼女を思いださせる、はっきりとした口調だった。

「でも」

「それに三浦が由麻のこと好きだったおかげで、あたしが由麻と喋ってたら三浦が来て、一緒にお酒飲めたわけじゃん。むしろ感謝だよ」

 あの日、よしのと話しこんでいたら三浦くんがビールグラス片手に割りこんできたのだ。その瞬間に彼女が彼に向けた、まぶしそうな視線。その表情を見ておきながら、どうしてわたしは。

「わたし……」

「しかも二人が絡んでくれたおかげで、その後あたしとも縁ができて、結婚して誉が産まれたわけじゃん。むしろ感謝だよ」

「……楢崎も同じこと言ってた」

「やっぱり、いずるが何か言ったんだね」

 電話口で、よしのがふっとほどけるように笑った。その柔らかな口元が目に浮かんだ。彼女の暮らす東京の部屋の気配が、通話口から漂ってくる。

「あたしが三浦のこと好きだったのはクラス中にばればれだったんだよね。あー、わかってたけど恥ずかしー。……でもね、ほんとに舘野がきっかけ作ってくれたおかげで接点ができたわけなんだよ。そりゃまあ、いろいろ想像しちゃって妬いたけど」

「ごめん、ほんとにごめん」

 いつのまにか、和佐に謝られるときのような口調にわたしはなっている。

「だから謝らないでってば」

「……わかった、じゃあ謝るんじゃなくて、感謝」

「なに」

「ありがとう。再会の当日にそんなことがあったのわかってて、それから10年もこんなふうに仲良くしてくれて」

 わたしは心から言った。ミジンコのような胎児のエコー写真が、また脳裏に蘇る。何度も何度も失敗するわたしたち。たくさんたくさん細胞分裂して、たくさんたくさん失敗しながら、ここまで来た。

「わたし、誰とでもうまくやれるわけじゃないの。いろいろあってあの後もすごい荒れちゃって、人間関係もぐっちゃぐちゃでどうしようもなかったの」

「ちょっと聞いたことあったけど、そんなに荒れたんだ。なんか一時的にすごいギャルっぽいときあったもんね、由麻」

「うん。いろいろあったの。そんな中でもずっとブレずにいてくれたよしのと楢崎は、本当に大切なの。わたしにとって」

「なんか、告白されちゃった」

 よしのはけらけらと笑う。

「あんたのそういうところ、好きだよ。器用なのか不器用なのかよくわからないところ」

「……わたしも告白されちゃった」

 わたしは再び、ベッドに横になる。パイプが微かにきしむ。姉の好きだったバンドのポスターは、右上の角が少し剥がれかかっている。

「あのね」

 おっとりした声で、よしのは言う。

「好きな人の好きな人ってどんな人なのかなって、高3の頃からずっと思ってた。10年かけて納得してるよ、あたしは」

 金髪碧眼のベーシストと目を合わせながら、わたしは親友の言葉が胸に溶けてゆくのを感じていた。



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