刮目せよ

 姉が妊娠したという。わたしにも、甥か姪ができるらしい。

 義兄を交えて実家で報告会をするというので、週末を使って久しぶりに帰省することにした。少し和佐から離れて気分を変えたかったので、救われた思いだった。

 アサミと3人で会うことになっている日まで彼女に逢わないと、和佐はわたしに約束していた。

 彼の誠意を試したい気持ちもあって「一泊してくるから、和佐もアサミさんと好きにしていいよ」と言ってみると、彼は傷ついたような顔をして「逢わないよ」とぽつりと返した。


 2歳年上の姉の恵麻えまは、4年前――ちょうどわたしが和佐と同棲を始めた頃だ――に結婚した。その後も地元企業に勤め続け、今は相当キャリアアップしているはずだ。

 ついこの間までよしのが妊婦だった気がするのに、今度は姉。この歳になったら、常に身近に妊婦が一人いるくらいが普通なのかもしれない。30歳という年齢と自分の状況の重みを、あらためて感じた。

 新幹線ならすぐだけれど、急ぐ旅でもないので高崎線直通の湘南新宿ラインに乗る。まだ見ぬアサミのことを頭から追いやりたくて、家から持ってきた司馬遼太郎の歴史小説を読み進めながら3時間たっぷりと各駅停車に揺られた。久しぶりに読書に没頭できた気がした。

 故郷は、きりっと冷えた秋の空気に包まれていた。街の匂いが湘南界隈とははっきり違う。近くに海があるかないかで、風の肌触りがこんなにも違ってくるのだ。

 バスロータリーからバスに乗り換えようとしていると、クラクションを鳴らされた。姉が、車(日産MARCHだ。このくらいならわたしにもわかる)で迎えに来てくれていた。妊婦が運転などと、和佐が聞いたら卒倒してしまいそうだと思いながら助手席に乗り込む。

「ひっさしぶりだねえ」

 最後に会ったときは肩より長かった髪を、マッシュルームカットにしている。ずいぶんキッチュな雰囲気の妊婦だ。お腹は思ったほどは突き出ていない。

「運転、変わろうか? って言いたいけど、わたしもうずいぶんペーパードライバーだからなあ」

「平気平気。何年もハンドル握ってない人に運転させて事故って赤ちゃんもろとも死んだら困るから」

「縁起でもないわ」

「もう安定期でつわりとかないから大丈夫だよ」

 車はすいすいと住宅街へ入ってゆく。わたしは真先くんにピックアップされたときの「チョイとそこのオネエサン」を思い出し、口の端だけでくすりと笑った。

「家族が増えたらファミリータイプの車に買い換えなきゃいけないね」

「それなのよ」

 車のカーブに合わせて、フロントミラーにぶら下げられた地元のご当地キャラ「ぐんまちゃん」のマスコットが揺れる。姉はゆるキャラマニアだ。夫妻の新婚時代に訪れた愛の巣は、辟易するほど全国各地のキャラクターグッズであふれかえっていた。

「まあ、落ち着いたらだねえ。まずは買わなきゃいけないものいっぱいあるし」

「っていうか、どうしてもっと早く教えてくれなかったの。急だったからベビーグッズも何も買ってこれなかったよ」

「いや、それこそ妊娠報告してから何かあったら嫌じゃん。妊娠初期って結構、流産しやすいんだよ」

 姉は「結構」を強調して言った。

「さすがにお母さんたちにはよく会うからさ、妊娠わかってからすぐ言ったけど。あと職場とね。他はもう、5か月に入るまで誰にも言わなかったよ、友達にも。早々とお祝いもらって無駄になったら悪いし、何より自分がダメージ受けるしね」

 納得しながらもわたしは、それでも実の妹にくらい早く報せてくれたっていいじゃん、と思った。

「あたしももう、32だしね。年齢に比例して流産の危険性もね」

 あ。

 この手の話題になると、わたしは今、気を遣われてしまう立場なのだ。結婚前提で同棲しているはずなのにその気配もない30歳の妹にする話としては、とてもデリケートなはずだ。

 会話が途切れたとき、実家の白い壁が見えてきた。 


 にぎやかな夕餉ゆうげとなった。母と姉の手料理に加えて、寿司も大量に注文してあった。わたしはあの孤独な誕生日の夜を思いだす。

 姉の夫・幹英みきひでさんは、地元の小学校で教師をしている。あまり口数の多くないこの人がたくさんの子どもたちを相手に奮闘する姿を、わたしにはいまだにうまく想像できない。

 二人は今年の初め、実家の近くに家を買った。思えばその頃から、いやそのもっと前から、本格的に家族計画を立てていたのだろう。幹英さんの実家は前橋だけれど、勤務先の小学校は高崎市内なので通勤にも便利なはずだ。

「いやあ、転勤がなければいいんですけどねえ」

 幹英さんは、酒が入っていつもより饒舌だ。

「僕の知り合いで、子どもが産まれた年に離島の学校に飛ばされた人がいるんですよ」

「うわあ」

「ハラスメントじゃないの? それ」

 父が義理の息子のグラスにビールを継ぎ足す。この二人はわりと波長が合うようだ。

「じゃじゃーんっ」

 酒も入っていないのにハイテンションな姉が突然、玄関から鞄を持ってきて何かを取りだした。

舘野たての家の初孫の性別を発表しまあす」

「え、もう性別わかるの!?」

「うそうそうそうそ」

「まだ5ヶ月じゃないの? もうわかるものなの?」

 両親もわたしも興奮する。幹英さんだけはにやにやしている。

「これを見たまえ」

 芝居がかった口調で言いながら姉が広げてみせたのは、小さなフォトアルバムだった。黒っぽい写真ばかりが収められている。

 胎児のエコー写真だという。そう言われても見方がよくわからないのだが、姉の指さす先にある白い小さな丸がページをめくるごとに人の形になっていって、驚いた。骨や内臓まで透けて見える。

 中学のとき理科の実験で、顕微鏡を使ってミジンコを見た。胎児の透けた身体は、プレパラートに挟まれたあのミジンコを思いださせた。

 最新のページまで来ると「ほら、これっ!刮目かつもくせよ!」と姉がひときわ大きな声を出す。母がアルバムを奪い取ったので、向かいに座っていたわたしは母の横に回りこみ、父と共に母を挟む形で写真に目を凝らした。

 小さな両脚の間に、小さな小さな突起があった。

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