ロイヤルミルクティー

 アサミ。

 不意打ちで名前を出されて、わたしはたじろいだ。いろいろな思いが一瞬にして頭を駆け巡った。

 そういう名前だったんだ、という思い。和佐はその人をそんなふうに呼んでいるんだ、という思い。ふたりは呼び捨てし合う仲なのか? という思い。

 そして、漢字が「麻美」や「麻実」だったら嫌だ、という思い。わたしはよく、口頭で名前の表記を説明するとき「自由の『由』に、繊維の『麻』です」と説明する(もっとカジュアルな場では、「麻薬の『麻』です」と言ったりもするが)。「アサ」という響きにどきりとしたのだ。

「もし由麻が嫌じゃなかったらだけど、直接……」

「アサミって、どんな漢字なの?」

 わたしは和佐を遮って尋ねた。

「え、漢字?」

「うん。表記」

「ああ……3文字で、亜細亜の『亜』に、さんずい……いや糸偏だったか、やべ。右側が『少ない』になる字ね。それに『美しい』」

 とりあえずそれに関してはほっとして、わたしは落ち着くためにチャイを啜った。

「会ってみれば、わかると思うんだ。この、何かうまく言えない今の感じとか、悪い人じゃないってこととか、いろいろ」

 べこべこべこっ。和佐はPETボトルを握り潰す。彼にしてはずいぶん子どもっぽい挙動だった。

「向こうは、わたしに会いたくはないんじゃないかな」

 つとめて冷静に、わたしは言ってみた。

「いや、基本的には社交性のある人だからそれは平気。むしろ気にしてる。俺の彼女がどんな人かって」

 べこべこべこべこっ。

「和佐、まじめな話してるときそういうのやめて」

 あ、ごめん、と和佐はやっとPETボトルから手を離した。

 そもそも和佐が冷たい飲み物を飲むこと自体が、以前の彼からしたら珍しいことだった。「内臓は絶対に冷やしてはだめ」と言って、夏場以外は飲み物を冷蔵庫で冷やさず、常温で飲む。外食するときも、年間通して温かい飲み物を選ぶ人なのだ。

「たださあ……」

 和佐はダイニングテーブルに肘をつき、眉間を揉み始めた。

「アサミっていうんだけどね、彼女。あ、今言ったか。アサミ、今俺にすごい執着してる」

「執着?」

「うん。最初は平気だったんだ。小平こだいらくんがいてくれれば寂しくないから、たまに会って話せるだけでいい、って。けど」

 マグカップを包む自分の指が震えた。

「犬が死にかけたあたりから、独占したがってる。俺のこと」

「独占?」

 わたしは、ばかみたいに鸚鵡おうむ返ししてばかりだ。

「うん……もし犬に何かあったら本当にこの世で一人だからって、泣くんだ。結婚してほしいって。それで話がややこしくなってる」

 結婚?

 絶句して、鸚鵡返しすらできなかった。

「本当にあのとき俺、行くべきじゃなかった。期待させたんだ。いざというとき、いつも駆けつけられるって」

 めまい症になったときのようにぐらりと視界が揺れた気がして、わたしはこめかみを押さえた。

「ごめん、由麻。ほんとにごめん」


 オフィスの隅にカフェスペースがある。

 キャビネットの上にポットやコーヒーメーカー、砂糖や粉末ミルクやマドラーが分類されて並べられ、その引き出しの中には共用のコーヒー豆、めいめい持ち込んだ茶葉やインスタントの粉末、使い捨てのプラカップやカップスタンドなどがぎっしりと詰まっている。持ち込んだものは基本的に誰が使ってもよいことになっており、コーヒー派にも紅茶派にも日本茶派にも対応している。丹羽にわさんのギムネマ茶のティーバッグもある。

 ドイツ人の社長は経費にうるさいと聞くけれど、少なくとも日本国内に関してはどの工場も経費でコーヒー豆や関連商品を購入しているので(何しろわたしの元に購入申請が集まるのでわかる)、その辺りは寛容なのだろう。

 従業員用のコーヒーが経費で用意される会社は自分にとっては初めてで、配属当時は「さすが外資系!」と感激した。外資系だからというのは関係ないかもしれないし、いくら飲み物が充実していても結局毎朝LIPTONを買ってしまう自分ではあるけれど。

 出張土産や退職の挨拶などのお菓子も、ここのキャビネットの上に置かれる。

 背の高い業務用冷蔵庫も置いてあり、夏場は油性ペンで記名したPETボトルやお弁当が詰め込まれる。近くのコンビニで買ったアイスを冷凍室に入れる人もいる。

 最近、業務中に苛立ちが湧き上がると、わたしはこのカフェスペースに逃げ込むようになった。真先くんにもらったミャンマーのロイヤルミルクティーの粉末をお湯に溶かし立ったまま啜ると、少しだけ心が凪いだ。個包装で30袋も入っていたので、会社で飲むのに最適で、ありがたい。

 アサミには、11月の半ばに会うことになった。

 和佐の弁によれば、彼女はけっしてわたしを憎んだり敵視したりはしていないが、とにかく和佐に自分だけを見てほしがっているとのことだった。あわよくば一緒に住みたい、結婚したいとたびたび口にするのだという。

 犬が腸閉塞になったあたりからずっと情緒不安定で、雑談をしていたかと思えば突然泣きだしたりするのだと、少々疲労をにじませながら彼は言った。でも、好きなんでしょう? という言葉をわたしは飲みこんだ。

 いっそ3人で腹を割って話したい、こそこそするようなことは何もしていないことも証明したい、と和佐は熱弁した。その勢いに押されて、本当に会うことになってしまった。

 キャビネットにもたれてミルクティーを啜っていると、カフェコーナーに人影が現れた。わたしは慌ててしゃきっと立つ。派遣社員が離席してお茶ばかり飲んでいると思われるのは困る。

 CSと呼ばれるカスタマーサポート部の志賀しがさんだった。伊佐野さんと同年代の男性管理職で、たまに購買部に立ち寄って伊佐野さんと話しこんでいる。一見怖そうに見えるが実は物腰の柔らかい人だ。

 軽く会釈をして横を通り抜けようとすると、

「あ、いいからいいから」

 とカップを持っていない方の腕を軽くつかまれた。

「えっ、あっ」

「あ、それとも忙しい? すぐ戻らないとまずい感じ?」

「いえ、大丈夫です」

「よかった。一度ゆっくり話してみたかったんだよね、舘野さんと。いつも伊佐野がいるからさあ」

 志賀さんはにっこり笑って、コーヒーメーカーの受け口にカップをセットした。笑うと目じりの皺が深くなった。

 管理職が派遣社員に興味を持つものだろうかと、わたしは少し警戒した。

「あれー? 何これ、わかるー?」

 志賀さんがコーヒーメーカーのパネルを凝視している。見ると、豆のマークのボタンが赤く光り、点滅していた。

「あ、豆が切れてるだけですよこれ」

「そうなんだ。どこにあんの?」

 志賀さんは見当違いの引き出しを開けようとしている。

「こっちです」

 わたしは以前総務課の人に教わった引き出しからコーヒー豆の袋を出し、豆投入口の蓋を開けてざらざらと補充した。ぱちんと蓋を閉めると、豆の補充ランプは正常時の緑に戻った。

「ありがとう。俺カフェイン中毒でさ、1日4杯は飲まないと死ぬの」

「死ぬんですか」

 わたしは思わず吹きだした。

「そ。これでも5杯飲みたいところを4杯に抑えてる。舘野さんは、紅茶派?」

「いえ、コーヒーも飲むんですけど、甘ったるいミルクティーが好きです」

「そうなんだ」

 志賀さんにじっと見つめられて、わたしは少しどきどきした。

「あ、そうだ」

 わたしは引き出しに入れてあるロイヤルミルクティーの袋をひとつ取りだし、差しだした。

「これ、もしよかったらですけど、ミャンマーのお土産でもらったんです」

「え、いいの?」

「はい」

「ありがとー。ミャンマーかあ。じゃあ今日は、ミルクティーにしようかな」

 志賀さんはコーヒーメーカーにセットしていたカップを外し、袋をちぎって粉末をさらさらと入れ、お湯を注いだ。

「……うん、いいね。うまい」

「よかった」

「甘ったるくて、濃厚だね」

 志賀さんは、再びわたしをじっと見つめた。その視線が不快ではないことに気がついて、わたしは自分に少し驚いた。

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