in the bathroom

 秋風が本格的に冷たくなってきた。10月。和佐の帰りが遅い日が、また週2ペースで発生している。


 恋人の心や挙動を探るばかりでなく、わたしはわたしの心を決めなければならなかった。

 いつまでもこの状況が続く場合、別れたいのか。彼が「落ち着く」まで、いつまでも待つのか。「彼女」と別れてくれるなら、これまでのすべてを許すのか。もちろん、その前にわたしがふられる可能性だってあるのだろう。

 湯舟の中で脚を抱えて、わたしは考えた。わたしは。わたしは……。

 考えが、まとまらない。けれど、彼の心がまだ引き返せるのなら、また一途な恋人に戻ってくれるなら、なかったことにできなくもない気がした。

 いつか結婚して「あのとき俺、ばかだったよな」と笑い話にしてくれるなら。

 9年の日々を思い返し、わたしの心は熱くなった。やっぱり、好き。今のふがいない彼のことも、結局わたしは、憎みきれないでいるから苦しいのだ。

 和佐と話そう。とにかく話してみよう。今、彼の中ではどんな状況になっているのか、怖いけれど確認しよう。

 決意してざばりとバスタブから上がろうとしたとき、突然和佐ががらりと扉を開けて入ってきた。

「きゃっ、ちょっ、なに」

 和佐は服を着たままざばざばとバスタブに入ってくる。急いでもう一度湯舟に潜ろうとするわたしの手首をつかみ、バスルームの壁に押しつけた。

「ちょっ、ちょっと」

 洗い髪を乱れさせて抵抗するわたしに、強引に口づける。舌をねじ入れ、強く吸う。息もできない。頭が真っ白になる。

 たっぷりと深く口づけたあと、和佐は顔を離した。長袖シャツもチノパンもぐしょ濡れだ。

「だって、だって由麻、全然目も合わせてくれないじゃんか」

 裸のわたしを壁に押しつけたまま、ほとんど泣き声で彼は言った。

「俺、今こんなだけど、こんなだけどさ、由麻のこと好きなんだよ。全然変わってないんだよ。お願いだから俺の顔見てよ。話聞いてよ」

 彼はわたしをバスタブの中に押し倒した。激しく湯しぶきが上がる。

 ずぶ濡れの衣類を脱ぎにくそうに脱ぎ捨てる。わたしの剥きだしの胸を揉みしだき、顔に貼りつく髪の毛を唇で剥がして、わたしの唇を探りだす。

 ずるい。こんなのずるい。やっと対話する気になったのに。

「あのとき、電話に出なければよかった。あのまま由麻とセックスしてればよかったって、何度も何度も思うんだ」

「か、んんっ……、勝手だよっ」

 キスの合間にわたしは身をよじって抵抗した。

「勝手だよ、週に何度もデートして帰るくせに……っ」

「違うんだ」

「何が違うのよっ」

 湯の中でのしかかる和佐の体重を受けとめながら、わたしは和佐の胸をぽかぽか叩いた。お湯が激しく飛び跳ねて、洗ったばかりの顔や髪をまた濡らす。何が何だかもうわからない。

「ふざけ、ないで。ばかにしないで」

「違うんだ、由麻のことを話してるんだ。由麻がいなきゃ生きていけないって、向こうにわかってもらおうとしてるんだ」

 ……は?

 わたしは和佐を叩く手を止めた。向こうはわたしとの別れを要求しているというのか?

 わたしの動きが止まった隙を突いて、彼がわたしの右脚を高く持ち上げ、身体をねじ入れてきた。思わず、あっ、と声が漏れる。その声に、彼がさらに欲情したのがわかった。

 何度も何度も突き上げながら、和佐は泣いていた。

 好きなんだよ、好きなんだ。

 湯の中に沈みこまないようにバスタブのへりに必死でつかまりながら、わたしは目を閉じて彼の涙を見ないようにした。


「彼女ね、天涯てんがい孤独なんだ」

 湯舟での荒々しいセックスの後、ウィルキンソンの炭酸水のPETボトルを一気に半分ほど飲み干して、和佐かずさが問わず語りに話し始めた。

 彼が入ってくる前の時点で長湯していたわたしは、指先がすっかりふやけてしまっている。

「テンガイコドク?」

 ああ、また情報が入ってきてしまう。

 身体のほてりを感じながら、わたしは真先まさきくんにもらったカシューナッツをかじった。香ばしくて歯ごたえがあり、とてもおいしい。明日あたり、鶏肉のカシューナッツ炒めでも作ろうか。

 ミルクティーは箱ごと会社に置いてきてしまったので、KALDIで買ったチャイの粉末をホットミルクに溶かして飲んでいる。

 セックスが終わると同時に彼の涙も止まったようで、ずいぶんさっぱりした表情だ。わたしはなんだか複雑な気分になる。

「生まれたときからお父さんはいなくてね、きょうだいもいなくて、お母さんとふたり暮らしだったんだって。そのお母さんも4年くらい前に亡くなったんだって。『うさぎのしっぽ』もそれで辞めたらしいんだけど」

 和佐は炭酸水をさらに一口飲んで、小さくげっぷをする。

「今はもう、犬だけが唯一の家族なんだ。友達らしい友達もいないらしくてさ」

「親戚とかは?」

「それがさ」

 和佐はカシューナッツの皿に手を伸ばした。

「何ていうか、不義の子だったんだって。だから父親側の親戚はいないし、お母さんも勘当同然で孤立してたらしくてさ。頼れるような筋はいないわけよ」

 そんなことが本当にあるのか。わたしはマグカップを手のひらで包みこんだ。

「だから何ていうか……人との接し方みたいなものが、ちょっと独特なわけ。俺とのことも」

 語尾を濁して和佐は急にうつむき、すぐに顔を上げて

「あっでも、そんななのに暗くないんだ、性格。むしろ豪胆というか、豪快というか」

と補足する。

「同情してるってこと?」

 わたしは和佐の目をまっすぐ見た。

「同情……、それは、ぶっちゃけ、ある」

 和佐は炭酸水を飲みきって、空のPETボトルを指先でべこべこと押し始めた。

「それと、尊敬もしてる。そんな境遇なのに、強いなって」

「……」

「自分がずっと母子家庭で厳しい生活してたからか、恵まれない子どもたちを助けたいって思いが強いみたいで、フィリピンの貧困ボランティアとかにも参加してるんだ。今は発達障害児童のデイサービスセンターで働いてるんだ。学童みたいなとこね」

 なぜか少し誇らしげに言う和佐を見て、わたしは胃のあたりにもやもやしたものを感じてしまう。

「それ聞いてたら、俺もすげー刺激されちゃって。発達障害っつっても程度とかいろいろあるらしいんだけどね、接し方もデリケートで失敗できないし、毎日泥だらけで汗みずくだし、そういう話聞いたらなんか、夢中になっちゃって」

「それで、しょっちゅう逢いたくなるって言うの?」

 和佐はこうべを垂れた。

「……もちろん、それだけじゃないけど。……魅力的な人だなって、思うし」

 ずきん。

 心臓の痛む音が耳元で聞こえたような気がした。

 チャイがすっかり冷めるほどの長い沈黙のあとで、

「アサミに、会う?」

 と和佐が言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る