小さな写真
誕生日の夜から、わたしたちはまたぎくしゃくしていた。当然のことだ。
謝るだけ謝った上でサプライズで喜ばせ、とりいそぎわたしの機嫌を取り直すことができたと、「アルブル」を出るまで彼は思っていたようだった。
けれど、店を出て誰にも気を遣う必要がなくなると、わたしはいっさいの会話をやめ、手をつなごうとする和佐をさりげなく交わして彼の半歩先を歩いた。
「ちょっと、ちょっと待ってよ。由麻」
和佐は今度こそ本当に傷ついた声でわたしを呼び止めた。夜の街を行き交う、仕事帰りの社会人や学生たち。かたく腕を絡めて歩く恋人たちや、グループで騒ぐ若者たち。みんなみんな幸せそうに見えて、わたしは少し目が潤むのを感じた。
電車に乗り、自宅に帰り着くまで、わたしは無言を貫いた。それ以降今に至るまで、事務的な会話しかしていない。
その週末の土曜は、大学時代の友人とカラオケに行った。日曜は一人でショッピングモールへ買い物に出かけた。食事も外で済ませ、極力家で顔を合わせないようにした。
和佐は両日とも家にいて、布団を干したりバスルームにカビキラーを撒いたり不要な郵便物の処理をしたりと、普段手の行き届かない家事をせっせと片付けてくれていたようだった。「彼女」と逢った様子はなかったけれど、電話やLINEでどんなやりとりをしているのかまでは知る術もない。わたしのいない間に、愛の言葉をやりとりしていたのかもしれない。そう考えるたび、胃の底がカッと熱くなった。
森安さんが撮ってくれたポラロイド写真を、和佐は居間のコルクボードに貼りつけた。
わたしの肩に手を置き微笑む和佐と、引きつった笑みを浮かべるわたし。
画鋲を使わず、丸めたセロファンテープで接着しているだけなので、コルクボードとの相性がいまいちでたびたび写真が浮き上がってくる。それを見るたびに写真をぎゅっと指で押してやらなければならない。
あの夜にもらったピアスとネックレスを、わたしはまだ身に着けていない。しばらく眺めたあと、ドレッサーの鏡の裏側にある棚にしまいこんだ。
たしかに、ずっとほしかったものだった。淡い緑色の
でも、付き合って丸9年の恋人から30歳の誕生日にほしいものは、それではなかった。
たとえば、「そろそろダブルベッド買おうよ」と言える雰囲気。たとえば、ゼクシィを買い式場やドレスの情報を眺める日常。たとえば、実家の母からの「そろそろ…進展、ないの?」という問いに応えられる笑顔。
長年恋人として共に暮らし、結婚の話題も何度もしてきた。やっぱりこの状況は、裏切りとしか思えない。
ひどいよ。小さな写真を見つめながら、わたしは一人、声に出してつぶやいてみた。
先程からずっと、伊佐野さんが国際電話をしている声がオフィスに響いている。
「Yeah I know,I know that,but I mean…」
どこかの海外企業にクレームを入れているらしい。長谷川さんからもらった伊豆のお土産のダックワーズをかじりながら、わたしはそれを聞くともなしに聞いていた。
わたしは大学では英語学専攻だったけれど、流暢にビジネス英語を喋れる水準ではない。伊佐野さんのような人のことは素直に尊敬してしまう。
そう言えば真先くんも5ヶ国語話せると言っていた。ごく基礎程度のものも含めれば8カ国語はいけるらしい。
ミャンマーの話を聞いて以来、わたしは海外旅行がしたくてたまらなくなっていた。特にアジア方面。
パゴダと呼ばれるミャンマーの仏塔には、近隣の売店で売られている金箔を買って貼り付けることでお布施ができるらしい。中に入るときは必ず裸足でなければならず、靴も靴下もストッキングも厳禁。そんな知識を、自分で調べて補完した。
でも、もしも今わたしが一人で旅行に出たなら、不在の間に和佐は――「彼女」と過ごすに決まっている。
「キスもセックスもしない」と最初に宣言していたけれど、実際のところはどうなのか、わたしにはもう判断がつかない。ケーキを前にわたしを押し倒しておきながら、電話一本であっさり「彼女」のもとへ出て行ってしまった和佐。
何かのまちがいであってほしかった。
「彼女」のパーソナリティーや容姿について、わたしはまったく想像しないようにつとめていた。しかし困ったことに、「愛犬家である」という情報が与えられたわたしの脳は最近、彼女がどんな人間か、和佐が彼女のどこに惹かれたのかを、思考の切れ目に無限に想像しようとする。
その想像はわたしを苦しめた。和佐に愛されているもう一人の女性の姿、声、立ち振る舞い。年齢や住まい。和佐に抱きしめられて恍惚の笑みでも浮かべるのだろうか。……。
不毛にもほどがあるとわかっているのに、止められない。
和佐の好みのタイプなんて、わたしは知らない。何しろもう9年以上わたしと付き合っているのだ。
和佐には、高校2年のときと大学1年のとき、彼女がいたことがあると聞いている。根掘り葉掘りたずねたことはないので、どんな女の子だったかは想像の域を出ない。知ったところで、共通点があるかどうかなどわかりようもない。
じーん。デスクの足元にフックで吊り下げてあるトートバッグの中で、スマートフォンが短く振動する。
特に咎められたことはないけれど、社会常識として業務中に私用でスマートフォンは使わないことにしていた。しかしどうしようもなく嫌な予感がして、わたしはそっとデスクの引き出しの下で端末を手にする。
「ごめん。今日、遅くなる。本当にごめん」
目の前が暗くなった。
まだ午前中である。いったいいつ、「彼女」と連絡を取ったのか。仕事中に……?
「That’s true, but from the customer’s point of view...」
伊佐野さんは、まだ電話で怒っている。
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