雨とコーヒー

 週明けは雨だった。傘のしずくを気にしながら、通勤バスに乗る。

 打ちのめされていた。

「アサミといると、俺の知らない音楽が聴こえてくるような感じなんだ」――それは、わたしの胸を刺し貫くのに充分なダメージ力を持った言葉だった。

 和佐は、アサミに恋をしている。

 友達でなく恋人になることを選んだのだから今更な話ではあるけれど、その事実が深く深くわたしを打ちのめした。

 わたしからは、自分と同じ音楽が聴こえてくるという。

「男はミステリアスな女が好きだっていうし」とは、楢崎の言葉だっただろうか。

 どんなに美点を挙げ連ねてもらっても、想いのこもった濃厚なセックスをしても、もうすべてがむなしい。

「何年経っても、由麻からは俺の知らない音楽が聴こえるよ」

 そう言ってほしい。そうでなければきっと、わたしが和佐の恋人でいられなくなるのは時間の問題だ。

「すみません、すみませんお客さん」

 運転士さんに呼び止められているのが自分だと気づかずに、バスを降りようとしていた。

「定期、切れてますよ」

 はっとして、鞄にしまいかけていた通勤定期を確認する。有効期間が2日前で終わっていた。そろそろ買い換えなくてはと思っていたけれど、土日を挟んですっかり忘れていた。

 すみません、と口の中でもごもご言いながら慌ててステップを上り、Suicaを取り出してタッチする。残高不足。97円しか入っていなかった。後ろがつかえている。大柄の男性に露骨に舌打ちされた。

 なるべく端に寄って次の人が先に降りられるようにしながら、鞄の口を開いて指先の感覚を頼りに財布を探り当てる。舌打ちした男が、わたしに濡れた傘を擦り付けるようにしながら降りてゆく。

 こんなときに限って小銭がなく、千円札を両替してどうにか運賃を支払った。

 バスを降りると雨脚は強まっていて、わたしはとてつもなくみじめな気持ちになった。


 志賀さんと、茶飲み友達になった。

 と言っても、日に一度オフィス内のカフェスペースで落ち合って、キャビネットに寄りかかりながらお茶を飲みつつ雑談をするだけだけれど。

 だいたい15時くらいになると、志賀さんから「休憩しませんか?」と社内メールツールでチャットが届く。それを受けてわたしは自分の作業に区切りをつけ、机の上をざっと整理して席を立つ。

 志賀さんと話すのは楽しかった。

 一般職や派遣社員との垣根が低い管理職というのはどの会社にも一人はいるものだけれど、志賀さんはその典型だった。ちょっと怖そうな見た目(丹羽さんが以前、志賀さんのことを「哀川翔」と呼んでいた)からは想像できないほど物腰柔らかく、軽妙なトークで和ませてくれる。背があまり高くないこともあって、文字通り目線が近い。

 若い男の子たちと違って肩の力が抜けていて、40代の落ち着きというのはいいものだな、とわたしは感じていた。読書の趣味が合うこともわかって、文庫の貸し借りも始めた。

 志賀さんは、わたしよりちょうど一回り年上だった。干支が同じだったのだ。そして伊佐野さんと同期であり、同い年なのだという。わたしは自分の直属の上司の年齢を、意外な形で知ることとなった。

「当てていい?」

 コーヒーを飲みながら、志賀さんが言う。今日も高そうなスーツをぴしりと着こなしている。

「何でしょう」

「舘野さんは、長く付き合ってる彼氏がいるよね。そんで、今あんまりうまくいってないでしょ」

 一息に言われて、わたしは固まった。和佐の恋人問題については、まだ誰にも話していない。友達にも同僚にも家族にも。

「……なんでわかるんですか?」

 わたしは残りわずかになってきたロイヤルミルクティーの一袋をカップに注ぎ入れる。

「だって、入社当時からずーっと同じ指輪してるでしょ。で、そのわりになんかあまり元気がない」

「……ビンゴです」

「やったあ。何かちょうだい」

 志賀さんは子どもみたいなことを言う。

「えー」

「舘野さんとのデート権がいいなあ」

 わたしは志賀さんの顔を見た。

「あ、警戒しなくていいよ。俺彼女いるし。今のところはね」

「……ご結婚されてるかと思ってました」

「ご結婚はされてないけど、ご結婚されていたよ。5年前まで」

「え」

「いや、もう6年前か? まあいいや。ね、デートしようよ。気軽な気持ちで」

「彼女いるのに」

「マンネリなんだよね、最近」

 そのとき総務課の社員さんがカフェスペースに入ってきた。何となしにわたしたちの顔を見比べながら、ティーバッグで緑茶を淹れて出ていく。ミルクティーを啜りつつやり過ごした。

「彼氏に、何かひどいことされてるんじゃないの?」

再び二人きりになると、志賀さんは距離を詰めてきた。コーヒーの香りの中にかすかに混じる、煙草のにおい。和佐とは明らかに異質なにおいだ。

「ひどいこと、というか……」

「オトコに大事にされてる女の子は、そんな顔をしていないものだよ」

 30歳になっても女の子と呼んでもらっていいのだろうか。志賀さんの言葉には、わたしの胸をくすぐる響きがあった。

「ね、ね、土曜日とかどう、次の」

「次の、土曜日は」

 わたしは顔を上げた。

「彼氏の彼女に、会いに行くんです」

 志賀さんが、絶句した。

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