誕生日の、夜

「何時までに着けばいい?」

 ハンドルを握る真先まさきくんが前を向いたまま訊いた。いつもバスで通る通勤路を車で走るのは新鮮だった。見慣れた風景が違ったものに見える。

「7時」

「あー、7時なら余裕だな。じゃあ、134通って海見ながら走りますか」

「やったー! 毎日電車で一区間だけ乗るけど、茅ヶ崎・平塚間って内陸寄りだから海見えないんだよね。せっかく湘南に住んでるのに」

 真先くんのスマートな気遣いに、わたしは嬉しくなった。

「真先くんって、モテるでしょう」

「……モテますよ?」

 真先くんは、アクセルを踏み込みながら応える。

「やっぱりね。なんか、わかる」

「まあ……俺は本気で好きな相手としかやれない人なんで、無駄にモテてもしょうがないんですけどね」

「そうなんですか」

「そうなんですよ」

 自分の誕生日に恋人の元へ向かいながら恋人の弟と生々しい話をしているのが、なんだかおかしかった。

 ミラーに映る後続車は、タンクローリーだ。勤め先の工場の敷地内によく出入りしているものに似ている。あれにわたしの発注したガスが詰まっているのかもしれない、などと考えてみる。

 真先くんは、ミャンマーの土産話をしてくれた。ちょうど雨季から乾季に入れ替わる時期で、生い茂る緑が美しかったこと。ビールがオレンジジュースよりも安いこと。女性たちが顔に施す白いファンデーションが、なぜか「タナカ」と呼ばれていること。

「あとねえ、バガンっていう地区から見る朝日と夕日が絶景で有名なんだけど、朝日は寝坊して見れなかったし、夕日は人がぎゅうぎゅう詰めのスポットだったんで、いつかぜってーリベンジしたいわ。朝日はね、気球に乗って見る観光客が多いんだよ」

「気球……」

「うん。でも、その気球がいっぱい浮かぶのをパゴダに座って眺めるほうが幻想的かも」

 目を閉じて想像してみた。旅行会社の広告で見たことのある気がする風景。厳かな仏塔を染める朝日と、そこに浮かぶたくさんの気球。

「いいなあ……行ってみたい。わたしも見たいな。荘厳なんだろうな」

「いつか、兄貴と行ってみるといいよ」

 その一言で、夢から醒めたような気がした。

「和佐がまたわたしと旅行する日なんて、来るのかな」

「……兄貴、まだ二股かけてんの?」

 身も蓋もない言い方に、一瞬ひるむ。でも彼は何もまちがったことを言ってはいない。

 そう、わたしは今、恋人に「二股をかけられて」いるのだ。それも、なぜか堂々と。

「うん……」

「そっか」

 第三者の前で認めることで、今度こそ本当にこの事態が現実なのだと受け入れたことになった気がした。心臓がきゅっと冷える。わたしは膝の上で指を組み合わせた。

「この一週間は、そんなに変な気配なかったんだけどね」

 わたしは昨夜のことを端的に、つとめて客観的に話した。もちろん、セックス未遂で出て行ったなどとは言わなかったけれど。

「まじかよ。午前様かよ」

 予想通り、真先くんは憤慨した。曲がったことが嫌いなところは、兄とよく似ている。

「一発殴りたいわ、まじで」

 不穏なことを言いだす。勝手だけれど、わたしはふたりには仲の良い兄弟でいてほしかった。

 真先くんは、ミャンマーへ発つ前に仕事を辞めて、これからまた探すのだと話した。

「なんで俺しばらくフリーだから、兄貴に泣かされたらいつでも呼んでね。どこぞの女に負けんじゃねーよ」

 わたしはうつむいたまま、ありがと、と小さく言った。

 右手に続いていた防砂林が途切れて、海が見えてきた。ラジオ番組の女性DJが「もうすぐ9月も終わりですね」と言って、 Earth, Wind & Fireの「September」が流れ始める。

「この曲ってさあ、実は12月の曲なんだよね」

 窓を全開にして海風をたっぷり車内に入れこみながら、真先くんがつぶやいた。Tシャツの袖がはためいている。

「Now December,って言ってるもんね」

「うん。9月に始まった恋が12月まで続いてます、って歌詞なんだろうけどさあ、そのままハッピーな曲として受け取っていいのかなって思うんだよね」

「うーん。70年代らしい、ストレートな歌詞だけどね。裏の意味がありそうってこと?」

「なんかさ、これからのことが全然歌われてなくてとっくに過ぎた9月のことばっかり言ってて、俺的にはこの歌、恋人にふられそうになってる奴の歌だと思うんだ。それか、既に別れてストーカー化してるか」

「はあ……」

 真先くんの独自解釈を聞いているうちに、藤沢の市街地に入った。真先くんは車を路肩に停めてわたしにスマートフォンを借り、レストランの位置を最終確認する。

 もう少しこのまま、このドライブを続けていたい気がした。でも、わたしはわたしの現実と向き合わなくてはならない。

 ミャンマーのお土産を鞄に詰めこんでいると、

「兄貴にはまた後で渡すわ。今はまだ顔見たくないから」

 と真先くんが低くつぶやいた。不意に子どもっぽい顔を見せるので、かわいくて笑ってしまう。ちゃんと和佐にお土産を買ってきていて、それを手渡しする気でいるところも。

 店まで徒歩で行ける距離まで来た。「29ニクの日だからね、がっつり肉でも食って、何なら一発くらい殴ってやれよ」とわたしを鼓舞する真先くんに心からお礼を述べて、車を降りる。初秋の夜気が肌を包む。

 真先くんはこの後一人でごはんを食べるのかな、と少しばかり気にかけながら白いイタリア車を見送って、わたしは恋人の待つ店へと足を踏みだした。


 コースに付いているハーフボトルのシャンパンを飲みきると、和佐はまたペリエを注文した。由麻は? と訊いてくる。

「あのさ、せっかくだし今日は飲まない? ワインいろいろあるし」

 ドリンクメニューを広げて提案してみるも、

「あー、いや……俺はシャンパンでもう充分かな。ごめん。由麻、好きなの飲んでいいよ」

 最近の和佐は、とことんお酒を飲まない。「無駄酒は飲まない」というモットーには共鳴するけれど、なんだか極端だ。「彼女」となら飲むのだろうかとちらりと考えて、胸が痛む。

 この店は、東京に住んでいた頃気に入って通っていたフレンチレストランの2号店である。個人経営の小さな店ながら料理の質が高く、ランチからコースメニューまで何を食べてもまちがいなくおいしかった。店主夫妻のホスピタリティーもすばらしくて、ちょっとした記念日やイベントに合わせて和佐とよく利用していた。

 神奈川へ引越してからは訪ねる機会が失われてしまっていたけれど、去年の春、親戚との共同経営になり藤沢に2号店を出すことになった旨、葉書が届いたのだった。嬉しくて、ランチで利用しに行った。本店のクオリティーと遜色なかった。

 本店のオーナーシェフの諏訪すわさんの従姉妹にあたる森安もりやすさんという方が、この店の店主だった。三十代半ばくらいで、とても気の利く女性だ。わたしたちのために、店の奥まったスペースにある半個室をあてがってくれた。

 この素敵な店に、こんな気まずい状況で来店するのは気が退けた。誕生日直前までノープランだった和佐が急いで予約したのがこの店で、なんだかずるい。

 和佐はコースの始まる前に、徹底的に謝り倒した。許可も取らずに家を飛び出したこと。そのまま日付が変わるまで連絡できなかったこと。寿司やケーキを一人で食べさせる羽目になったこと。歳をとる瞬間に隣りにいられなかったこと。

 謝られれば謝られるほどに、昨夜のショックが蘇った。感情的にならないためには黙るしかなかった。口を開いた瞬間に、激しい言葉が飛びだしてしまいそうだった。

「あ、でも、おかげさまで犬は無事だったよ」

 蝦夷アワビと赤海老のゼリー寄せを口に運びながら、和佐が少し顔をほころばせて報告した。

 犬。

 今の今まで、犬の心配など1ミリもしていなかったわたしは戸惑った。クリームソースをスプーンで掬い取りながら、よかったね、と応えるのが精一杯だった。

 動物は好きだけれど、恋人の二股相手のペットなど今のわたしには正直どうでもいい。けれどそこで変なができたので、

重篤じゅうとくな病気だったの?」

 と儀礼的に尋ねると

「うん、大変だったんだ。結果から言うと腸閉塞でね」

 彼は水を得た魚のように喋りだした。線状異物を飲み込んでいたみたいで、気づいたらぐったりしていて、腸が壊死しかかっていて、何とかかんとか。わたしはそれを虚ろに聞いていた。夜間も対応している動物病院にふたりがかりで運んだというくだりには、じわじわと不快感が湧き上がった。

 ペットを飼っている人なら誰しも、あの、正式名称は知らないが動物を持ち運ぶカゴのようなものを持っているものではないのだろうか。本当に人手が必要だったのだろうか。この一週間逢えなかった和佐を呼び出すための口実ではなかったのだろうか。黒い感情がぐるぐると渦巻く。単調な相槌を打っていると、やがて彼は口をつぐんだ。

 選べるメイン料理は、和佐がウズラとフォアグラのコンフィ、わたしは鹿のジビエにした。「がっつり肉でも食って、何なら一発殴ってやれ」という真先くんの言葉を思いだした。

 和佐は今日は会社を休んだのだと言うので驚いた。わたしが以前ほしがっていたピアスとネックレスを探し回っていたのだという。ファッションスーツを着込んでいたので一度帰ったのかなと思っていたけれど(彼の職場は隣り駅にある)、「生まれて初めての仮病だよ」と彼は笑った。わたしは素直に喜ぶ気になれなかった。

 彼がその包みを取りだそうとしたところで、

「お誕生日、おめでとうございます」

と森安さんが大きな皿を運んできた。カジュアルレストランでよくあるように花火が突き刺さっていたりはしなかったが、華やかに飾り付けられた豪華なデザートの盛り合わせだ。四角い皿の四方に、チョコレートでお祝いメッセージやわたしの名前が書かれている。

「こちらカシスとラ・フランスのソルベ、生ショコラのブラウニー、そしてレアチーズタルトになります」

 うっ、と思う間もなく、よろしければお写真お撮りします、とポラロイドカメラが構えられた。和佐が席を立ちわたしの隣りに移動してきて、肩に手を置く。

 引きつった笑顔が、小さな写真に収まった。

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