罪より淡く

 3人で会う約束をしたけれど、集まったのは4人だった。よしのが赤ちゃんを連れてきたのだ。

ほまれくんでーちゅ。7ヶ月でちゅ。よろちくねー」

 よしのが赤ちゃんの腕を動かしながら腹話術師のように台詞をあてる。

「やだー。うそー。やばーい」

 楢崎ははしゃいで、ネイルアートを施した指先を赤ちゃんの頬に突き立てている。

「やわらかっ! 餅みたい。餅だよ、餅そのもの」

「ちょっとちょっと、もっと繊細な接し方しなよ」

「いいよ、由麻も触ってやって」

 よしのが笑って促すので、わたしもその小さな生き物にそろそろと手を伸ばした。しっとりと柔らかい髪の毛をたたえた頭皮は、予想外に熱を持っていた。ふくふくとした頬に、艶やかな唇。母親ゆずりの切れ長の目は、黒目の比率がびっくりするほど大きい。

「かわいい……」

 心の底からつぶやくと、よしのは息子を抱きかかえ直しながら、ありがとう、とふんわり微笑んだ。

午後の日差しが差しこむ都心のカフェで、わたしたちは束の間女子高生に戻ったようにはしゃいだ。


 よしのと楢崎は、高校3年のときの同級生だ。その当時は特別親しかったわけではなく、行動を共にするグループは違ったけれど、大学2年の夏に上京組だけで集まるクラス会があり、それをきっかけに連絡を取り合うようになった。3人とも東京で就職し、それぞれ忙しくてもワンシーズンに一度は集まって遊んだ。でも今回はよしのの出産のことがあり、約1年ぶりだ。

 よしのは「よしの」という名前ではなく、吉田乃梨子のりこという名前を縮めてそう呼ばれている。一昨年結婚して、今の苗字は三浦だ。

 高校在学中は成績優秀で、生徒会長を務め、卒業式では答辞を読んでいた。絵に描いたような優等生ぶりに当時は近寄りがたいものを感じていたけれど、クラス会で再会した彼女はほどよく肩の力が抜けて、おしゃれでさばけた女性になっていた。わたしから声をかけて話し込んだ。そこに楢崎も入ってきたのだ。

 楢崎は見た目も素行も派手なクラスメイトだった。整容検査のたびに生活指導の先生に怒られても懲りずにパーマをかけ、スカート丈をいじっていた。嫌いな科目の授業中に堂々と抜け出し、学校の近くのマクドナルドでシェイクを飲んでいるところを捕獲され、生活指導に連れ戻された事件(?)は印象的だった。呆れつつも、その自由さと行動力をひっそり羨ましく思ったものだった。

 3人でつるむようになったわたしたちはバランスがよかった。自分と気の合うタイプに大人になってから気づくこともある。女子ならではのしがらみが人一倍苦手な自分にとって、裏表のないよしのと楢崎は付き合いやすかった。

 ふたりからは「高校のときは休み時間に読書したりとか、謎キャラだったよねー」などと言われた。たしかに謎だったかもしれない。夢中で読み進めている本があるときは、当時最も仲の良かったクラスメイトに話しかけられても「ちょっと」と言って自分の世界に没入していた。そんなことを繰り返して、仲間内から少し浮いてしまったこともある。苦い思い出だ。


 今日はわたしの30歳の誕生日を前倒しで祝ってくれるという名目だったけれど、主役はやっぱりよしのと誉くんだった。Amazonで選んだ出産祝いを送りつけたきりだったよしののこともちゃんと祝いたくて、

「今日、何時頃まで平気?」

 と訊いてみると

「あー、あたし3時にはここ出なきゃだわ」

 と誉くんに市販の離乳食を食べさせながらよしのが言った。

「そんなに早く?」

「うん、今日は三浦は休日出勤だし、この子連れて食材買って帰って夕食作んなきゃなんだ」

「わー、ママは大変だあ」

「でも三浦も家にいるときはごはん作ってくれるよ。誉のこともお風呂入れてくれたりするし」

「へえ、三浦くんいいパパなんだねえ」

 楢崎がしみじみと言う。よしのの夫の三浦くんも、わたしたちの同級生なのだ。例のクラス会で再会し、その後いろいろあってふたりは結ばれた。

 誉くんの、赤ちゃんにしてはややシャープな顎は、サッカー部の主将だった三浦くんの顔立ちを思い起こさせた。

 よしのが口に運ぶゲル状の離乳食(どうやらお粥であるらしい)を、意外なほどのスピードで必死に食べている。小さなエプロンに、その大半をぼたぼたこぼしながら。

 その様子を見ていると、鼻の奥がツンとした。

 わたしも、「お母さん」になる日がくるのだろうか。なれるのだろうか。

 和佐は、他人の子どものことはあんなにかわいがるのに、自分の子を早く持ちたいとは思わないのだろうか。

「そうそうこのスタイ、いずるにもらったやつだよ。ありがとうね。役立ってます」

「うん、似合ってるー。あたし甥と姪が2人ずついるからさ、こういうの選ぶの結構慣れてるんだよね」

「そうだったんだ」

 よしのは誉くんの口周りを手際よくガーゼで拭き取っている。溢れ出す母性が、彼女を宗教画の聖母のように見せた。

「舘野のとこも、彼氏と長かったよねー」

 オムライスをスプーンで掬い上げながら、突然楢崎がわたしに水を向けた。不意を突かれて、わたしはどきりとする。

「あ、そうだったよねー。あれ、もう10年くらい?」

「9年」

「9年かー」

 一瞬、間ができた。結婚は? と二人が問いたいのであろう空気を、ひしひしと感じた。

 くぷくぷ……というような音がして、よしのがギャッと叫んだ。

「ごめーん、うんちだ。ほっくん、食べれば出るんだからほんとに~」

 よしのはベビーカーに引っ掛けてあった大きな鞄をがさごそと漁って手付きのポーチを取り出し、

「あー、今日エルゴにしなくてよかった」

 と言いながら誉くんを抱え直してトイレへ立った。

 エルゴとは何だろう。エスカルゴしか浮かばない。

「よしの、すっかりお母さんだねえ」

「ほんとだね。あ、もうコーヒー頼んじゃう?」

「あ、そうだね。すみませえん、食後のドリンクお願いしまーす」

 楢崎がよく通る声で店員に伝える。高校時代は彼女のこんなにはきはき喋るところを見ることはなかったなと思いながら、わたしは海老ドリアの残りをスプーンで掻き集めた。

「舘野さあ……」

 楢崎の視線を感じながら、スプーンを口に運ぶ。

「今だから言えると思うんだけどさ。三浦くんと、したでしょ。あのとき」

 わたしは手を止めた。

「あっ責めてるんじゃないよ、だって別になんも悪いことしてないじゃん。ユー言っちゃいなよ」

「……はい、しました」

 わたしはこうべを垂れた。

「はい、よろしい。ってか、やっぱりね」

 楢崎は、からからと笑う。


 三浦たすくとは、高3の2学期に席が隣りになった。好意を持たれていることには早々に気づいていたけれど、当時わたしには高2の時から付き合っている相手が他のクラスにいたし、そうでなくとも熱血タイプの三浦くんは自分の好みとは遠かった。

 三浦くんは、ちらちらと好意を小出しにしてきた。はっきり好きと言われない分、そのあしらいはかなり厄介だった。わたしがスルーし続けていると、卒業式の前日にとうとう呼び出されて告白された。断ると、小さく舌打ちされたことを覚えている。

 クラス会に三浦くんも来ることを直前に知ってわたしは多少身構えたけれど、当日、髪を染め洒落た眼鏡をかけた彼がビールグラス片手にラフに話しかけてきたとき、そんなに嫌な気はしなかった。それどころか「あんとき俺、本気で好きだったんだよね。舘野さんのこと」と囁かれて、まんざらでもない気持ちになった。人間関係や夜遊びが派手になり始めた頃のことだった。

 帰りの電車は、三浦くんや楢崎を含めた5・6人と一緒だった。ふたりで話しながらさりげなく車両の隅にわたしを移動させた三浦くんは、わたしが降りるつもりだった池袋より手前の駅で突然わたしの腕を引き、一緒に下車させてしまった。夜の中を走り去ってゆく山手線の車窓越しに楢崎と目が合ったのは、気のせいではなかったのだ。

 すっかり酔いは醒めていたけれど、唇を寄せてくる三浦くんを拒みはしなかった。適当なラブホテルに連れ込まれ、シャワーも浴びずに押し倒されても、酔っているふりをし続けてあげた。「思い出の女とやる」という男のロマンに付き合ってあげようと思った。その方が彼にとってもすっぱり気持ちの区切りが付くかと思ったのだ。好意に気づかないふりをし続けたことの、罪滅ぼしの気持ちもあった。

「やっぱり見られてたんだね、あのとき。目が合ったもんね」

 わたしは顔を覆った。

「まあ、三浦くんが舘野のことを好きなのは有名だったもん。卒業式の日も自分で言ってたよ、ふられたーって」

「ああ……」

「クラス会って、なーんかメランコリックな気持ちになっちゃうよねえ。いいんだよ別に。あのときはまだ三浦くん、誰のものでもなかったわけだし」

「や……わたし、あの頃荒れ始めてたんだよね。いろいろうまくいかなくて」

 カップの縁を指でなぞりながら、言い訳がましくわたしは言った。よしのはまだ戻ってこない。

「いいんだよ。舘野雰囲気変わってて、三浦くんもテンション上がったんでしょ。昔からなんか謎めいてたからね、舘野は。男はほら、ミステリアスな女に惹かれるっていうし」

 楢崎は悟り顔だ。

「ま、よしのの方はずっと好きだったみたいだけどね」

 そのことは、知っていた。知っていて、わたしは彼と軽い気持ちで関係したのだ。

 運ばれてきたコーヒーを、ブラックのまま口に運びながら楢崎は言う。わたしはシュガーポットを引き寄せ、ブラウンシュガーをトングでつまみ上げた。授乳中でカフェインを控えているというよしのの分は、カモミールティーだ。

 三浦くんとはあの1回きりだ。あの後、わたしはすっぱり終わったつもりでいたけれど、彼は何とかわたしに連絡を取ろうとして、クラス会の幹事だったよしのを頼ったらしい。そこで何やらいろいろあって、ふたりは恋仲になったらしいのだ。

「わかってて、今まで話題にしないでくれたんだね。ありがと楢崎」

「いや、っていうかさ。舘野が三浦くんとしなかったら、三浦くんとよしのが結婚することもなくて、誉くんもこの世にいなかったんだよなあと思うと、不思議な気持ちになっちゃってさ。人生って、ほんとに何が左右するかわかんないよね」

 わたしは黙ってコーヒーを飲む。フルボディな口当たりで、苦味とコクがじわりと口の中に広がった。

「よしのも、全部知ってると思うよ」

 楢崎がちらりとトイレの方を見遣ると、ちょうどよしのが誉くんを抱えて戻ってくるところだった。

「ごめんねごめんねー、あ、お茶もう来てる」

 罪を犯したわけじゃない。それでもわたしは、よしのの顔を直視できなかった。

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