蜜月の終焉
その連休の残り2日間は、和佐ととろけるように過ごした。
抑えていた何かが崩壊してしまったかのように、彼は何度も激しくわたしを求めた。夜を待たずに。服を脱がせる間も惜しいとばかりに。
両日とも雨だったこともあってほとんど外出はせず、溜まった家事をふたりでてきぱき片付けながら、その合間に何度もセックスをした。
「彼女」のことについて、もはや和佐は謝罪も弁明もやめてしまった。わたしも何も言わなかった。
ここのところ連絡を取り合ったり逢ってきたりする様子はなくて、それは一時的なことかもしれないけれど、それでも「彼女」の気配を感じないかぎりはわたしもそのことを意識の隅に追いやる努力をすることはできた。残りわずかな29歳の日々を、誰かに煩わされるのは嫌だった。
この件はいったんペンディングし、再検討させていただきたく――ビジネス文体で言えばそんな感じだ。
取り込んだ洗濯物の山の上にばさりと押し倒され、唇を強く吸われる。柔軟剤の香りの中で目を閉じると、恋人同士になったばかりのふたりに戻った気がした。
あのキャンプの夜、想いが通じ合ったことは明らかだったのに、後日きちんとデートに誘い出し、あらためて好きだと言ってくれた和佐。
照れまくりながら初めての泊まりがけの旅行を提案してくれた和佐。
一緒に暮らそう、そして近い将来結婚しようと、熱っぽく語ってくれた和佐。
あの頃の情熱は、今も何も変わっていない。9年も一緒にいて、わたしたちにマンネリズムは訪れていない。そのことは奇跡だと、友人たちからもよく驚かれる。
顔の見えない第三者が介入してきているなんて、こうして抱き合っていると嘘みたいだ。
実際、わかったことがある。彼の中で、わたしへの愛情が減じたわけではけっしてないこと。彼の方でもそれを示そうとしていることを、表情にも仕草にも感じ取ることができた。嘘をつけない彼がもし、わたしを抱きながら他の誰かを想っているなら、わたしはきっとすぐに気づいてしまうだろう。
シルバーウィークが終わっても、彼は退社後まっすぐ帰宅し、平日なのに凝った夕食を作り、手早く片付けまでしてくれた。バスタブにバブルバスの素を投入して湯を張り、ふたりで泡まみれになりながらいちゃいちゃ入浴した。
どうか、どうか、このまま。何事もなくわたしの誕生日を迎えられますように。
もし誕生日までに「彼女」の気配を感じることなく過ごせたら、わたしたちはきっと何事もなかった恋人同士に戻れる。あんな話は、なかったことになる。そんな根拠のない思いにすがりつくように、わたしは祈った。どうか、きっと。
けれど、わたしの二十代最後の夜に、その電話はかかってきた。
「じゃーん」
効果音を自分で言いながら彼が取り出したのは、わたしがずっと食べたい食べたいと言っていた有名パティスリーのケーキの箱だった。
「うわあ」
「会社ちょっとだけ早く上がらしてもらって、横浜まで行ってきた」
「うそお……ありがとう……」
わたしは素直に感動した。きまじめな彼が私用で会社を早退するなんて、めったにないことだった。
明日の誕生日当日は、彼が予約したフレンチレストランへ仕事帰りに直行する。なのでケーキは前夜に食べようということになったのだ。7時には寿司が届く予定だ。
箱を開けると、チョコレートやフルーツで美しく装飾された白いホールケーキが現れた。「Happy Birthday ゆまちゃん」というプレートが乗っている。
「由麻の好きなレアチーズで、しかもピスタチオクリーム入ってんだって。この辺」
「わああ、最高。最高すぎる。よく電車の中で潰されずに持ってきたね」
「由麻」
食器棚からケーキ皿を出そうとしているわたしの腰を、和佐が後ろからやさしく抱いた。
「二十代のほとんどを俺と過ごしてくれてありがとう」
耳たぶを甘噛みしながら囁かれて、身体の芯がとろけそうになる。
「こちらこそ……」
ありがとう、と言いかけたわたしをくるっと正面に向き直らせて、和佐はわたしの頬を両手で挟み、深く口づけた。
「あの……、んっ」
「由麻、由麻、好きだよ」
和佐は、またスイッチが入ってしまったらしい。貪るようにキスをしながら、わたしを居間のソファへと移動させる。やさしく、でも強引に押し倒す。
「お寿司、来ちゃうよ」
「そのときはそのときだ」
「こらこら、ちょっと。きゃっ」
耳、首筋、そして胸元にキスの雨を降らせた彼の唇が、また唇に戻ってくる。舌を絡めながら、わたしは強いお酒を飲んだときのように頭がぼうっとしてくる。気持ちよくて、せつなくて、だめになりそうで。
「由麻……」
熱っぽくわたしの名前を呼びながら、和佐の手がわたしの胸に触れ、強く揉む。脚の間に膝を割り入れてくる。
ああ、理性が飛んでしまう。そう思ったときだった。
ダイニングテーブルに置いてあった和佐のスマートフォンが震えた。バイブレーション設定にしてあり、着信音は鳴り響かなかったけれど、その振動音はいやにわたしの耳に響いた。どうしようもなく胸がざわめいた。
「和佐、電話」
「いいよそんなの」
和佐は再び唇を求めてくる。
「でも」
着信の振動はしばらく続き、いったん切れた後すぐにまた始まった。和佐はやっとわたしから身を起こして、ダイニングテーブルに向かう。着信画面を確認して、動きが止まった。
「彼女」だ。
わたしは強く確信した。
「出たら?」
じーん。じーん。震え続けるスマートフォンを手に振り向いた和佐は、またあの顔をしていた。自分が傷つけられた側であるかのような、あの悲しげな表情。その顔を見た瞬間、わたしは束の間の蜜月が終わったことを悟った。
「『彼女』なんでしょ。出て。いいから」
着衣の乱れを直しながら、わたしは言った。和佐は泣きそうな顔で、無言のままわたしを見つめている。じーん。じーん。
「いいから」
じーん。じーん。
とうとう意を決したのか、和佐がスマートフォンを耳にあてる。その仕草はスローモーションのように、わたしの目に焼きついた。
「もしもし」
和佐はそのままの姿勢で通話を始めた。こそこそする内容ではないことを示そうという、彼なりの誠意なのかもしれなかった。
「……えっ。今は、ちょっと……うん」
何を好きこのんで、相手はわたしの散りゆく二十代最後の貴重な時間に電話してきたのだろう。わたしは自分の中に湧き起こる凶暴な感情を持て余した。
「まじか……うん……うん、わかった」
何をわかったのだろう。
「わかったから、待ってて。すぐ行く」
スグイク? わたしは自分の耳を疑った。
電話を切った和佐は、床に視線を落としたまま、わたしの嫌いなあの台詞を発した。
「ごめん、由麻」
ああ。
「彼女の犬が、死にそうだって言うんだ。一人じゃ病院に運べないらしくて……ほんとにごめん」
最後は叫ぶように言って、わたしの返事を待たずに彼は部屋を飛び出していった。ドアが閉まる音が部屋に響き渡り、わたしはケーキと共に残された。
和佐はそのまま、日付が変わっても帰ってこなかった。
30歳になった瞬間、わたしはひとりだった。
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