青い夜

「誕生日、どっか行きたいところある?」

 和佐がようやく尋ねてきたのは、シルバーウィーク―今年は3連休だ―の始まる前夜だった。

 会社帰りに最寄り駅前で落ち合い、ピザテリアでピザを食べていた。和佐はシシリアン、わたしは明太子のクリームピッツァ。和佐はペリエのレモンをボトルで注文し飲んでいた。最近の彼は、炭酸水をよく飲む。

 今から決めるの? 泊まりがけ? それとも食事だけってこと? さまざまな疑問が頭に降って湧いた。わたしの困惑を見てとったのか、和佐は

「今更だよな。遅くなってほんとごめん」

 と例の傷ついたような表情で謝った。

「えっと……和佐はいつなら空いてるの?」

 わたしはピザを軽く半分にたたんで口に入れながら、卑屈に聞こえないように尋ねた。

「別に何も予定入ってないよ。当日……は、さすがに泊まりがけはあれだけど、飯くらい行こうよ。予約するし俺」

 わたしの誕生日である29日は平日だ。

「それかこの連休中、日替わりで毎日由麻の好きな場所に行くっていうのは?」

 なんだそのやっつけプランは。さすがにむっとした。

「わたしにだって予定はあります。明日はよしのと楢崎ならさきがお祝いしてくれるので出かけてきます」

 つい尖った声が出た。ぎりぎりまで、自分の予定は言いたくなかった。わたしとの予定がない日のすべてを「彼女」に捧げるのではないかと危惧していたのだ。

「そっか。ごめん。明後日とかは? 由麻、映画観たいって言ってなかったっけ」

 いつの話をしているのだろう。たしかに観たい映画はあったけれど、それを話題にしたのは夏休みすら始まる前だ。

「もうとっくに上映してないよ」

「そっか。ごめん」

 この人は、わたしに「ごめん」しか言えなくなってしまったのだろうか。

 隣の席では、カップルがピザを食べさせあっている。「プッタネスカお待たせしましたー、当店生パスタを使用しておりますので冷めないうちにお召し上がりくださーいっ」という店員の早口な声が奥の席から聞こえる。ナポリ風ピザを謳う店なのに、BGMはハードなブリティッシュロックだ。

「あのさ」

 わたしはサングリアを一口飲んで、目の前の恋人を見据えた。酒の力を借りて、今日こそは訊きたいことを全部訊いてやろうと思っていた。

「『彼女』って、結局、何なの」

 雑な問いかけになってしまった。けれどダメージはあったようで、和佐はたちまち顔を強張らせた。

「別に責めてるんじゃないよ。でもさ、やっぱりわたしとどっちかひとりにしてもらうことはできないのかなって」

「……ごめん」

「『ごめん』はもう、やめてよ。なんかわたしが酷いことしてるみたいじゃん」

「そっか、ごめん。……あ」

「だからやめてって。謝らなくていいからわかるように教えてほしいんだけど、わたしの取るべき態度とか。その人をちゃんと恋人にするんだったらわたしは身を引くし」

 正直、そこまでの覚悟を持って言ったことではなかった。わたしはまだまだ和佐の恋人でいたかった。唯一無二の存在でいたかった。

「勝手だけど由麻とは別れたくない」

 和佐はきっぱりと言った。でも、次の瞬間くしゃりと顔を歪ませ

「けど、一度関わってしまった人を何でもなかったことにするなんてこと、俺にはできない」

 と苦しそうに続けた。

 気づけば、隣りの席のカップルが興味ありげにこちらを窺っていた。視線をやるとぱっと目をそらしたけれど、笑いを噛み殺したような顔をしている。

 ものすごく、みじめだった。

 やっぱりフルーツワインくらいじゃ酔えない。いつだったか、真先くんが飲ませてくれたアルコール度数61度の内モンゴルの白酒ばいちゅうが懐かしい。舌先がびりりと痺れたあと、脳がじんわりほぐれるような、あの感じ。

「好きなんだね。ずいぶん、その人のこと」

 我ながら陳腐な台詞で、笑ってしまう。

「好きって……いうか……」

 返事は聞きたくもなかった。この沈黙が肯定を意味していた。不安と不快感が同時にわたしを満たした。

 ひとつ大きな溜息をついて冷めかけたピザに手を伸ばしたとき、テーブルのふちを指で引っかきながら和佐が

「異性への興味って、どっからどこまでがセーフなんだろうな」

 と悲しげにつぶやいた。


 その夜、和佐はわたしをめちゃくちゃに抱いた。

「彼女」の件が持ち上がってから初めてするセックスだった。彼にしてはびっくりするほどしつこくて、乱れすぎて息を切らし、すべてが終わったときにはふたりとも燃え尽きて、二体の人形のようにしどけなく布団の上に転がっていた。

 通りの向こうに最近できた学習塾の青い看板が、寝室の窓を青く照らしだしていた。

 避妊具を外してそのまま眠りこんでしまった和佐の肩に、わたしはそっとタオルケットをかけ、青い光の中で起き上がった。

 ものすごく喉が渇いていた。ピザテリアで彼が飲んでいたペリエを思いだし、無性に飲みたくなった。

 下着姿のままキッチンへ行き冷蔵庫を開けると、扉の裏側に健康志向の和佐が欠かさず飲んでいるトマトジュースやノニエキスの瓶が並んでいる。その中にペリエの緑色の瓶を見つけた。

 食器棚からお気に入りの琉球ガラスのコップを取り出し、トクトク注ぐ。ちょうど一杯分ほど残っており、全量を注ぎきった。一気に飲み干すと、特別おいしくもまずくもない炭酸水が喉をしゃっきりと冷やしながら胃の中へ滑り落ちていった。

 シンクに寄りかかりながら、わたしはしばしぼんやりした。

 寝室には最近まで、わたしが一人暮らしをしている頃から持っていた無印良品のベッドが置いてあった。今年の梅雨時、マットレスの裏側も本体もカビが酷くなっていることに気づき、慌てて市の業者に引き取ってもらった。

 それ以来、寝室のフローリングに布団を並べて敷いて寝ている。

「ね、結婚したらさ、思いきってダブルベッド買おうか」

と彼がわたしを背中から抱きしめて甘く囁いたのは、本当につい最近のことだった。それなのに。

 ほてった身体とネガティブな思考をリセットするため、もう少し炭酸水がほしくなった。冷蔵庫の野菜室を開けてみると、赤いラベルの巻かれたウィルキンソンのPETボトルがずらりとストックされていた。それを見たとき、なぜか胸がざわざわした。

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