「彼女」の気配

 9月に入っても残暑が厳しい。

 わたしはやや汗っかきなので、デオドランドを脇や首筋に塗り込む。気休めにしかならないけれど。

 月末には、わたしの30歳の誕生日が控えている。いつもなら当日にうまく休みを取るか、シルバーウィークと呼ばれる連休を利用して最低でも1泊の旅行をするのがセオリーなのだけど、今年はそんな話はまだ持ち上がらない。 


 真先くんは、あれから姿を見せない。


 あの日、初めてあのふたりの兄弟喧嘩を見た。

 どうしたらいいの、と問いかけたわたしに和佐は

「由麻は、由麻の好きにしていいから」

 と言った。

「俺、由麻に愛想尽かされても仕方ないから。できることなら落ち着くまで待っててほしいけど、でももちろん強制できないし」

 落ち着く、とは、どのような状態を指すのだろう。ワインの回ってきた頭でわたしは考えようと試みた。

「苦しめると思う。ってか、苦しめてるよね。ずっと由麻と一緒にいて、こんなことになるはずじゃなかったってまじで思う。ただ彼女はちゃんと彼女として扱いたくて、だけど由麻のこと愛してるのは全然変わってなくて、そこはちゃんとわかってほし」

「ふざっけんなよ!」

 突然、真先くんが怒鳴って立ち上がった。

 その拍子にフォークが床に落ち、キンと微かな音を立てたのだけれど、もしかしたらそれはわたしの心が痛み始める音だったのかもしれない。

「なに言ってんだよ。なに半端なことしてんだよ」

 空気が凍りついた。

「だっせーよ、兄貴」

 口を閉ざしてうつむく和佐をそのままに真先くんは荒々しく玄関へ向かった。慌てて後を追った。

「帰るの?」

「頭冷やすよ。でかい声出してごめん」

「そっか」

「うん」

「……貝とワインありがとね。なんかごめんね」

 真先くんは靴を履き、ドアノブに手をかけながら振り向いた。

「だからなんで由麻さんが謝るの。しっかりしてよ」


 月半ばになると、「彼女」の気配が濃くなってきた。

 和佐はもう、「あの話」を切りだそうとはしなかった。説明はし尽くしたということなのだろうか。

 ぽつぽつと、帰りの遅い日が生じるようになった。わたしが仕事を終えてバスを待ちながらスマートフォンを開くと、「今日、食べてくる。ごめん。」という短いLINEが入っている。受信時刻はたいてい、昼過ぎから夕方の間だった。いったい何時に決定したことなのだろう。昼休み、いやもしくは前日から、「彼女」と予定の擦り合わせをしているのかもしれなかった。

 帰りが遅いとは言っても、きっかり22時には帰ってきた。出迎えると、泣きそうな顔をして開口一番「ごめん、由麻」と言う。

 わたしはもう、その言葉を聞きたくなかった。胸が抉られる。わたしの方が彼を傷つけている気分になってしまう。

 ふたりでいると、重苦しい沈黙が増えた。和佐が「彼女」のことを考えていると表情や雰囲気ですぐにわかったし、それをわたしに気づかれていることを彼はわかっていた。そんなときは他のどんな話題を持ちだしても白々しくなるばかりで、黙するしかなくなってしまうのだ。

 

 わたしの愛していた日常に戻るには、どのくらい時を巻き戻せばいいのだろうか。

 たとえあのOB会へ行かなかったとしても、何か大いなる力によってふたりは必ずどこかで出会ってしまう運命だったのではないかと思えた。

 和佐と付き合って9年、ただの一度も――これは断言できるのだが――浮気をされたことはなかった。むしろ、不実や不貞を蛇蝎だかつのごとく嫌っている人なのだ。「女というものは自分の夫や彼氏だけは浮気しないと思っている」などという定説を聞くにつけ、だって本当にそういう人じゃないんだもの、と心の中で反論するのが常だった。

 でも、浮気でなく心変わりだったら、話は違うのだろうか。

 彼の心の大事な位置に、わたしではない人が居座ってしまったという、悲しい現実。

 そう、この事態をとうとう現実として受け入れてしまったわたしの心は、確実に壊れ始めていた。


 不毛な想像をしてしまうことが増えた。

 もしかしたらわたしの出社後、実は和佐は会社を休み、朝から「彼女」とデートしているのではないか。

 そう思うといてもたってもいられなくなって、業務中にもかかわらず彼と連絡を取りたい衝動に駆られた。電話を鳴らしても、きっと気まずくて出られないのではないか。着信画面を「彼女」に見せて、ふたりで「げー」と笑い合うのではないか。

 愚にもつかない想像とわかっていても、そんな考えにとらわれるともう、止めることができなかった。

 実際、スマートフォンを握りしめてトイレに駆け込んだこともある。けれど、たとえわたしを裏切ったとしても、会社をずる休みするような人ではないことを思い、我に返るのだった。

 ふらふらと席に戻り、ログオフになってしまったPCを立ち上げ直す。和佐のイニシャルと誕生日をつなぎあわせたパスワードは、もう変更しなければ。

 わたしの様子がおかしいことに気づいてくれた伊佐野さんは、それ以上何も詮索せず放っておいてくれた。そのことはしみじみとありがたかった。

 一緒にお昼を食べている派遣仲間のふたりは、意外に何も気づかないようだ。わたしが平常そこまでテンションの高いキャラではないからだろう。

 今は、第三者にあれこれ言われることが怖かった。

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