ゼムクリップと蕎麦

 月末なので、請求書が多い。

 総務部から配布される購買部宛の郵便物を、わたしは次々に開封してゆく。

 企業によって色もサイズもとりどりの請求書たち。国内の各工場から届くPR(発注依頼書)や納品書とゼムクリップでひとまとめにして、支払い先ごとに手早く揃え、端末に必要事項を入力して、16時までに経理に上げなければならない。

「どう?」

 書類の束とゼムクリップまみれで格闘していると、直属の上司の伊佐野いさのさんが様子を見にきた。

「うーん、アスクルの納品書が揃わなくて……」

「納品書? 請求書じゃなくて?」

「はい」

「どこ? まだ出してないの」

「名古屋ですね……あと、静岡も」

「わかった。あたしから催促しとく」

「すみませんお願いします」

 国内に5つある工場の中で、この湘南工場は国内本社にあたり、わたしはここで購買事務を担当している。海外は伊佐野さん、国内はわたしが担当する、ふたりだけの購買部だ。

 日々、各工場から届くPR(発注依頼書のこと。外資系企業なので、いちいち横文字が多い)をもとに端末を叩き、POと呼ばれる発注書を作成して、メールなりFAXなりで各企業に発注する。

 商品の生産に使用される様々な材料から機械油、水素や窒素やプロパンガス、作業服に安全靴、そして細々としたオフィスサプライまで、とにかく国内の工場で必要とされるすべてのものはわたしの手を通って発注される。品番や発注数を間違えたら、場合によっては大事おおごとだ。

 月末は、これに加えて請求書処理が発生する。様々な書類のファイリングや、受領書の取引先への返却など、雑務も常に溜まっている。

 初めの頃は、こんな重要な仕事を派遣社員に任せるなんてと思っていた。けれど、充分な引き継ぎもなしに海外との折衝を任されることもあった商社時代と比較すれば、伊佐野さんが常にサポートしてくれるだけプレッシャーは少ない方だ。

 有休休暇と傷病休暇を取れるだけ取ったあと商社を辞め(辞めるのは簡単ではなかった)、正社員恐怖症になってしまったわたしは派遣社員として社会復帰した。最初の派遣先は一度しか更新せずに辞めてしまったが、この会社での勤務はもう1年ほど続いている。

 大量の発注依頼も請求書も、最近はさすがに要領よくさばけるようになってきた。


 伊佐野さんはシングルマザーで、今年中1になる息子さんを育てながらばりばり働いている。帰国子女で英語が堪能であり、日系ブラジル人の恋人の他、世界中に知り合いがいるらしい。

 伊佐野さんのデスク周りには、拡大印刷された写真がびっしりと貼られている。七五三の時のものと思しき息子さんの正装の写真、伊佐野さんと浅黒い肌の男性が肩を組んでいる写真、伊佐野さんが20人ほどのアメリカ人(?)の集団の中央で微笑んでいる写真。

 彼女自身は寡黙というほどではないが、仕事中は必要最低限のことしか喋らない人だ。わたしの配属初日はお昼に誘ってくれて、会社の斜向かいにある蕎麦屋で鴨蕎麦を奢ってくれた。その時もお互いのプライベートに関しては基本事項を伝え合っただけだった。業務以外の話はほとんどしたことがない。旦那さんと離婚したのか死別だったのかもわたしは知らない。

 丹羽さんと同い年だと聞いたことがあるけれど、そもそも丹羽さんが正確に何歳なのかわからない。

 なんだかつかみどころのないこの上司のことを、わたしは嫌いではなかった。上司と部下は極力、個人的な関わりを持たない方がいい。

「舘野さん、今日も仕出し弁当? 」

「はい……あっ! チェックしてくるの忘れました」

 タイムカードの横に総務課が貼り出している仕出し弁当の希望リストは、当日の9時45分頃が締切だ。10時には総務課の担当者が業者に発注するのだ。もう11時を過ぎていた。

「あー、ならちょうどよかった。今日、外行かない? 奢るから」

「えっでも、いいんですか?」

「うん、ちょっと話したいことあるから」

 伊佐野さんが通路の反対側にある自分のデスクに戻ったあと、わたしはメーラーのチャット機能を立ち上げ、丹羽さんと長谷川さんに宛てて「すみません、今日のお昼は外で食べます!」と打ち込んだ。


「お肌ぷるぷる! コラーゲン蕎麦」を伊佐野さんは注文した。店員に向かってメニュー表を広げ、「これ」と指差して。

 わたしは鴨蕎麦にした。蕎麦屋では、いくら迷っても最終的に鴨蕎麦にしてしまう。ましてや今は思考力が散漫で(だから弁当のチェックも忘れてしまうのだ)、とても他のメニューに頭がいかなかった。

 大小の工業系企業がひしめくこのあたりのエリアで、徒歩で行ける飲食店の選択肢はさほどなく、結局また伊佐野さんお気に入りのこの蕎麦屋になった。女性向けのメニューが充実しているわりに空調は男性客に合わさっているのか、入店した瞬間に肌がキンと冷え、わたしはカーディガンをオフィスに置いてきたことを後悔した。

「まだオフィシャルになってないんだけどね」

 ほうじ茶を飲みながら伊佐野さんは話しだした。

「国内にもうひとつ工場ができるの」

「えっ」

「神戸にね」

「神戸ですか」

「そう。この間、社長が来たでしょ。その話もあったわけ。もう稟議は回りきってるんだけどね」

「いつですか」

「来年頭くらい」

 注文した蕎麦がもう運ばれてきた。この店はオーダーからサーブまでがやたらに早い。昼休憩の短い会社人間を慮ってのことか、だからこそ繁盛するのか。売上を見込んで麺を相当な量、茹で置きしているのだろうか。

 わたしは、目の前にトレイを置く若い女性店員の左手薬指にはまった指輪を見るともなしに見つめた。

「だから、申し訳ないけど忙しくなると思う」

 伊佐野さんの蕎麦には、めかぶやとろろが入っていて、身体にやさしそうだ。金曜日にペスカトーレを食べ過ぎたあたりから胃の調子が良くないわたしもそれにすればよかったと、ちらりと思う。

「そうなんですか」

「うん」

「人は増えないんですか?」

「人は増えない。増やせない」

 愚問だった。ドイツ人の社長は経費に細かい人で、特に人件費は削減対象らしい。末端の我々派遣社員ですら、どんなに忙しくても残業はほとんどさせてもらえない。

 工場の数が5つから6つになるということは、概算ですべての業務が1.2割増しになるってことかな。頭の中でざっくり計算してみたが、合っているのかどうか自信がない。

「でもね、海外部門はもっと忙しくなるの。上海とマレーシアにも工場できるの」

「ほんとですか」

「うん。それはもっと先の話だけどね。さすがにそうなったら、海外部門はもうひとり増やしてもらえるかもって話で」

 伊佐野さんは喋りながらもせっせと箸を動かし、もう完食して蕎麦湯を飲んでいる。わたしも慌てて鴨肉を口に入れた。

 あまり洒落っ気のない人だと思っていたけれど、伊佐野さんは爪にベージュピンク系のマニキュアを施しているし、銀色のフレームの眼鏡は磨き抜かれ、首筋からは微かにオリエンタルな香水の香りがした。

 四十代の恋愛ってどんなだろう。ふと思いを馳せていると、急に顔を覗きこまれ

「ねえ、最近体調悪い?」

 と訊かれた。


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