知らないふたり

 その白ワインはあまり上等なものではなかったけれど、ペスカトーレにはとてもよく合った。

 わたしは手酌でワインを飲みながらパスタを完食し、空いた皿を持ってキッチンに移動した。フライパンにはまだ二人分近く残っていて、わたしはそれらをすっかり皿に移すと、立ったまま口に運んだ。ムール貝の殻は直接三角コーナーに捨てた。

 思考を停止していると、そのぶん手や口が余計に動いてしまうものなのだろうか。

 ダイニングテーブルでは、まだ和佐かずさが事の次第を語っている。

 真先まさきくんは右手にフォーク、左手にスプーンを持ったままの体勢で固まっていた。序盤は時折「ちょっ」とか「は?」などと短い声を差し挟んでいたけれど、すぐに無言になった。絶句しているようだった。

 この兄弟、向かい合ってるとほんと絵になるな。他人事のように思った。

 真先くんは和佐によく似ているけれど、甘辛バランスでいうとやや甘さが優勢な顔立ちの和佐に対し、真先くんは少しニヒルな雰囲気がある。

 お気に入りのロックバンドのライブTシャツがよく似合っていた。


 再び静寂が訪れた。堪え難い種類の静寂だった。

「真先くん、また来てね」

 わたしがバスルームへ逃げ込もうとすると、

「なんで由麻ゆまさんが逃げるんだよっ」

と真先くんに腕をつかまれた。そのまま食卓に着席させられる。

 和佐はまたしても、自分の方が傷つけられたような表情を浮かべていた。落ち着かないときの癖で、テーブルのふちを人差し指でかりかり引っかいた。そして、

「ごめん、由麻」

と、あの日とまったく同じ口調で謝罪した。



 先月末、和佐は例のボランティア団体「うさぎのしっぽ」のOB会へ参加した。

 一応わたしにも声がけはあったのだけど、和佐とカップルで参加するほど色ボケしてはいなかったし、野暮な質問をされることも予想できたので、不参加とした。実質、コアスタッフ経験者のみが集まる濃厚な会だったと後から聞いて、行かなくて正解だったとその時のわたしは思ったのだった。

 そのOB会で、和佐は「彼女」に出会ったのだという。

「彼女」はちょうどわたしたちが登録を解除した直後あたりから参加し、5年ほど活動を続けたらしい。貴重な社会人スタッフとして重宝されたのだそうだ。

 その場ではぽつぽつと身の上話をする程度だったけれど、二次会で飲み直すのを断ってひとりで駅へ向かっていた和佐を「彼女」が追いかけてきて、ふたりでカフェでお茶したのだという(そう言えばあの日は珍しく帰りが遅かった)。

 そして、そのときから「彼女」は恋人なのだという。

 おしまい。

「ちょちょちょ、だから意味わかんねーって」

 わたしの知る限り最大級に困惑した顔の真先くんが声を荒げた。

「何なんだよ、由麻さんともう9年も付き合ってて、なんでいきなり他の女なんだよ」

 わたしの誕生日にしろわたしたちの交際年数にしろ、この子はよく正確に記憶しているものだと、こんな状況なのにわたしは感心した。

「だからごめんって。彼女は由麻の存在を知らずに好きになってくれたわけだし、俺も由麻のことはちゃんと話した、んだ、けど… 」

 和佐の言葉は、歯切れが悪い。

「すっげー調子いいって、都合のいいこと言ってるって、わかってるんだけどさ… 由麻と別れたいとかじゃないんだ。まだ、自分でもどうしたいのかよくわかってないんだ」

 困ったことに、詳細な情報が耳に入ってきてしまうと、わたしの脳は思考停止をやめてイメージし始めた。

 飲み会で隣り合わせ、好意的に言葉を交わすふたり。帰ろうとする彼を、息を切らして追いかける彼女。目につく限り最もおしゃれなカフェを選んで、一緒にメニューを広げるふたり。わたしには理解できないであろう会話。

 先月から和佐にそんな変化があったなんて、ちっとも気づかなかった。思い返せばたまにちょっと落ち着かない様子はあったけれど、それはもしかしたらプロポーズの準備をしているからではないかとポジティブに解釈していたわたしは、なんと愚鈍でおめでたい人間なのだろう。

「和佐」

 わたしは、温度のない声で恋人に呼びかけた。

「それで、わたしはどうしたらいいの 」

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