白ワインをぶら下げて

 一週間は何事もなかったように過ぎた。

 和佐かずさが告白した日曜日はお互い夕食もとらずに寝てしまったものの、翌日からはいつものように、早く帰宅した方が食材を買って帰り、簡単な料理をして、ふたりで食べた。

 互いの職場の変な人や変なことについて報告し合い、一緒に食器を洗い、交代で風呂に入り、溜まった番組録画を消化し、ココアを飲んだり雑誌のページをめくったりしながらだらだら過ごし、日付が変わる頃就寝した。

 ゆるぎない、日々の営み。

 和佐は外泊などしないどころか、連日いつもより早く帰宅した。

「あの話」さえしないでくれたら、そんなことはなかったこととして、このまま以前と何ら変わらぬ生活を送ってゆけるのではないか。そんな気さえした。

 笑い合うことさえ、わたしたちはできた。夜、隣りの布団から手が伸びてくることはなくなっていたけれど。


 ときどき、和佐が居住まいを正して「由麻、あのさ」と話しかけてきた。そんなときはたちまちわたしのセンサーが敏感に察知して、有無を言わさず別の話題に切り替えたり、即立ち上がってお風呂やトイレに逃げたり、わざとらしくスマートフォンを取り出して架空の電話をかけに行ったりした。

 思考停止しながらこんな器用なことができるなんてと、心のどこかで冷静に自分を観察する自分がいた。

 和佐は紳士なので、無理やり「あの話」を続けようとはしなかった。そこにわたしはつけこんだのだろう。

 ただ、話を打ち切られた彼が肺から逃がすような小さな溜息をつくと、ちりっと胸が痛んだ。


 金曜日の夜、真先まさきくんが遊びにきた。

 真先くんは和佐の4つ歳下の弟で、隣町に住んでいる。わたしたちが同棲を始めた頃、兄を追いかけてわざわざこの湘南地域へ引越してきた。ブラコンなのだ。

 真先くんは、和佐とそっくりなところと全然違うところを持ち合わせていた。

 フットワークが軽く、気軽にどこへでも行けてしまうところや、知識量が豊富なところはよく似ていた。

 フリーターで、ある程度お金が貯まるとすぐに海外へ行ってしまった。いつか見せてもらった彼のパスポートは異国の出入国スタンプでびっしりで、ネパールから1ヶ月も帰って来ず、真剣に生死を心配したこともあった。

 酒が好きで、身体に悪い飲み方もよくしていたけれど、悪酔いすることもなく、いつも飄々ひょうひょうとしていた。

「弟に会わない?」と和佐に誘われて初めて引き合わされた新大久保の韓国料理店で、わたしが酒豪であると即座に見抜いた真先くんと、マッコリを鯨飲した。それ以来すっかり飲み仲間認定されてしまい、月に一度か二度は酒瓶と何かしらの手土産を持って遊びにくるようになった。

「また酒かよ、あんま飲ませんなよ由麻に」と怒りつつも目尻は下がっている和佐もやっぱりブラコンで、わたしはこのふたりを見ているのが好きだった。


 今日は、白ワインを右手にぶら下げて現れた。左手には、ムール貝が1kg入ったビニール袋を持っていた。近所の食材店の生鮮食品コーナーで投げ売りされていたという。

 和佐はムール貝を受け取り、あり合わせの食材でさっとペスカトーレを作った。生協で頼みすぎてしまったツナ缶をたくさん投入したら、おいしくなった。

 いつかの真先くんのエジプト土産の織物をテーブルクロスとして広げ、3人でダイニングテーブルを囲んだ。

 白ワインのボトルには、「Happy Marriage TAKESHI & SAYURI」と刻印されていた。

「先週の土曜が友達の結婚式でさ。引き出物」

 真先くんは言った。表参道の大きなチャペルでの荘厳な式だったという。「なんだか性に合わなくてよー、俺」と真先くんは自嘲した。

 結婚式というワードに、わたしの胸はちくりと反応した。

 和佐は「んー」と相槌を打ちながらパスタを啜っている。

 沈黙が流れた。次の瞬間、

「二人は入籍とかいつなの? 」

 からん、とムール貝の貝殻を取り皿にはじきながら真先くんが尋ねた。

 わたしは硬直した。

 和佐の表情を見ることが、できない。

「え、だって由麻さん来月もう30じゃないっけ?」

 真先くんの言葉には何の悪意も含みもない。

 和佐がことん、とフォークを置いた。

「そのことなんだけどさ」

 ああ。

「おまえにも話しておきたいんだけどさ。まだ由麻にも、ちゃんと聞いてもらってないんだけど」

 ああ、だめだ。

「あの話」が、現実になってしまう。




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