金のライオン
この会社では、当日の朝9時半までに仕出し弁当を希望すると、総務課でとりまとめて業者に発注してくれる。少々油っぽいがそこそこ美味しいし、メニューのバリエーションも多い。何より一食340円で済むのが魅力的で、社員の多くが基本的に毎日「希望」にチェックをつけ、お昼には食堂に届けられた中から一食分をとって食べる。でも丹羽さんの昼食スタイルはブレない。
丹羽さんは自称万年ダイエッターで、いつも水筒に詰めた減肥茶を携帯し、お昼は少量で満腹感が得られるだか何だかのダイエットクッキーで置き換えダイエットを実践している。わたしの入社前からずっとそうしているらしい。自宅でジッパーケースに詰め替えて、それをさらに白いレジ袋に入れて会社に持参するので、どんなメーカーのどんな名称のクッキーなのか、わたしたちにはわからない。
レジ袋に直接手を突っこみ食べる様子は何だかとても不味そうで、正直その姿を見るだけで食欲が減退してわたしまで痩せてしまいそうなのだが、一緒にお昼を食べている
わたしの勤める工場は外資系企業で、本社はドイツにある。有名ではないが、医療や航空など幅広い業界で必要となる部品を作っているらしく、ヨーロッパやアジアを中心に10以上の工場を展開している。
わたしは購買事務、丹羽さんは経理、長谷川さんは営業のサポートをしている。丹羽さんは3人の子持ちの主婦で(おそらく四十代半ば)、長谷川さんは専門学校卒の23歳だ。3人とも同じ派遣会社から派遣されているスタッフ同士で、年齢も入社時期も来歴もばらばらだけれど、こうしていつも食堂の窓側のカウンター席を陣取り、工業団地の風景を眺めながら一緒にお昼を食べている。
「長谷川さん、そう言えばクッキーありがとう。美味しかった」
「あ、あたしのとこにもありがとう。箱根、彼氏と行ったの?」
「そうなんですよー。大涌谷の黒卵のやつ、美味しいですよねー」
長谷川さんは箸を口にくわえたままにっこり笑って身体をねじり、回転椅子をくるんと半回転させた。ぴんと伸びた長い脚が、同じ女性でも見惚れるほど美しい。
長谷川さんは今年の初め頃まで雑誌や広告のモデルをやっていたそうなのだけど、年齢的に仕事が回ってこなくなり(なんと恐ろしい世界)、トップモデルの夢を諦めて派遣社員になったのだそうだ。
彼氏と温泉か。
「そう言えば今週、社長来るらしいよ」
「げー、あたしいまだにドイツ語"イッヒ レルネ ドイチェ"しか喋れなーい」
「何それー。っていうかあたしたちなんて話しかけられないからー!」
ふたりの笑い声が海鳴りのように遠のいてゆく。
あの夏、キャンプを機に和佐と恋人同士になったわたしは、もう一生分の運を使いきってしまったと思った。
しかし、自己肯定感を取り戻して面接に臨むことができたおかげか、社会貢献体験をアピールした効果もあったのか、難航するかに思えた就活は第3希望くらいに据えていた商社から内定が出たことで終了させることができた。
信じられなかった。人生が大きくギアチェンジする音が聞こえたような気がした。何しろ、最愛の恋人が祝福してくれている。夢ではないのだ。
卒論で忙しくなるまでの間、ボランティア活動も続けるつもりだった。実際、感じたことのない種類のやりがいと充実感を得られたし、何人かの懐いてくれた子どもたちともまた会いたかった。不純な動機で始めてしまったことへの罪滅ぼしの気持ちもあった。
けれど、どこまでもきまじめな和佐は「恋愛とボランティアは両立できない」と言い、将来的に幹部になることを打診されていた「うさぎのしっぽ」をすっぱり辞めてしまった。「どうせ3年からはゼミも始まって忙しくなるし」と本人はさっぱりしていたけれど、当然のごとく、スタッフにも常連の子どもたちにも和佐ロスが広まった。わたしは申し訳なさと共に、しゅわしゅわと優越感が湧き上がってくるのを止められなかった。和佐は、わたしの恋人なのだ。あんなきらきらした男の子が。
和佐と付き合いながら和佐のいないイベントへ参加する意味は見出せなかった。申し訳程度に日帰りプログラムに数回参加した後は、わたしもスタッフ登録を解除した。
新堂きらりは勘のいい子で、誰より早くわたしたちの仲に気づいた。わたしの最終参加日には手作りの編みぐるみを渡してくれながら「絶対結婚してね、いつかね」と耳元で囁いた。
蜜のような時が流れた。
和佐はボランティア活動に捧げてきた分を取り戻すかのように、休日をわたしと逢うことに費やした。愛情表現を欠かさなかったし、ちょっとしたサプライズでわたしを喜ばせることが好きだった。正義感が強く、でも無用なトラブルを回避するための知恵や冷静さも併せ持っていた。
ストイックだけれど、時にはハメを外す楽しさもちゃんと知っていた。「無駄飲みはしない」と宣言し、酒を浴びるように飲むような飲み会を嫌悪していたが、食事に合うおいしいお酒を探すのは好きだったし、趣味のいいバーを気に入ってふたりで通い詰めたりもした。
健康おたくだと自分で言っていた通り、食品添加物や人工甘味料を慎重に避ける彼は、わたしが飲んでいる清涼飲料水のPETボトルをひょいと取り上げて「あーっ、だめじゃん、アセスルファムKもアスパルテームも入ってるじゃん」などと怒った。けれど、わたしが愛飲するリプトンのミルクティーをつられて買ってしまい、「こんな甘いだけのもの……」と言いながらやめられなくなっていた。そんな人間くささを、愛しいと思った。
健康志向なだけでなく危機管理意識も人一倍高く、「運転することは死亡リスクを高めるに等しい」と言って運転免許すら取得していなかった。だからもちろん車を持っていなかったし、わたしにも極力運転しないよう諭すので、もともとペーパードライバーでたまの帰省時くらいしか運転しなかったわたしは、本当にまったく運転というものをしなくなった。
電車やバスや飛行機に乗り、ふたりでどこまでも行った。主要な温泉地をいくつも訪ねた。北海道も沖縄も行ったし、わたしの卒業旅行としてセブ島へ、その翌年は和佐の卒業旅行としてベトナムへ行った。海外ではわたしの語学力が役に立ち、初めてまともに彼のためになることができたと思った。
彼は史跡や遺跡を巡るのも好きだった。恋人と神社仏閣を訪れるなんて、初めての経験だった。二人とも各地のおいしいものに目がなく、行く先の有名店やB級グルメを競って調べた。郷土料理や各国料理にどんどん詳しくなっていった。
就職して3年と半年後、わたしは倒れた。
月の残業が70時間を超え始めた頃のある朝、起きようとしたわたしは方向感覚がなくなっているのに気づいた。世界が渦を巻いて回っており、床はふわふわして踏みしめることができなかった。頭を少しでも動かすと吐き気がこみ上げ、本当に吐いた。
自分の身体に何が起こっているのかわからないまま、買い替えたばかりのスマートフォンを探り出し、和佐に電話をかけた。わたしより1年遅れて社会人になっていた和佐は、出勤中だったにもかかわらずわたしのただならぬ様子を心配し、引き返して駆けつけてくれた。化粧も着替えも部屋の掃除もせずに和佐を部屋へ迎え入れたのは初めてのことだった。
わずか100メートルほどの距離にある耳鼻科にすら自力で行くことができず、極力頭を動かさないようにしながら和佐の肩を借り、よたよたと亀の歩みで歩いた。耳鼻科に着くなり倒れこみ、こうした状況に慣れた様子の看護スタッフたちによってすぐさま車椅子に乗せられた。診察室を抜けてその奥の長い通路を運ばれ、「特別待合室A」と書かれた部屋のベッドに寝かされた。和佐も付き添ってくれた。
看護スタッフのひとりが洗面器のような容器にビニール袋をかぶせたものを持ってきて、枕元に置いてくれながら
「吐くときはこちら使ってくださいねー。ちなみにご妊娠中じゃないですよね?」
と、後半は和佐の方を見ながら訊いた。和佐はわずかに硬直したように見えた。ちがいます、とわたしが息を吐き出すように答えると、彼女は頷き、順番が来るまでお休みくださいね、と言い残して行ってしまった。
横になっていると起きているときよりさらにめまいが酷くなったので、ベッドの上で半身を起こして順番を待った。和佐の前で嘔吐することだけは避けたかったが、わずかに首を動かすだけで吐き気は込み上げた。
「お願い、最初の待合室で待ってて」
「え、いや、でも」
「お願い、吐いちゃうかもだから」
和佐は苦悶の表情を浮かべ、わたしに手を伸ばしかけてやめ、「待ってるから」と言って退室した。その姿が消えるのを確認して、洗面器を引き寄せた。
診断は、「良性発作性頭位めまい症」だった。耳石に何らかの異常が生じて三半規管に入り込むことに起因するという。
過労・ストレス・睡眠不足は大きな要因になると言われた。前年に大きなプロジェクトの一員になった辺りから、そのすべてに心当たりがありすぎるほどあった。プロジェクトメンバーに抜擢されなかった同期入社たちが、よそよそしくなっていった。しかしそれさえも気に留める余裕がないほど、山積みのタスクを消化するのに追われていた。週末はデートどころではなく、疲れて寝倒してしまうことも増えていた。
症状を抑える薬はあるが、特効薬はない。寝ながら行う簡単なリハビリの方法を図解した用紙を渡された。
治ったと思って適当に過ごしているとぶり返すんで、仕事は休めるだけ休んでください。医師は快活に言うのだが、話はそんなに簡単ではない。上司に承認を得るための言葉を頭の中で組み立てていると、まためまいに襲われた。
再び和佐の肩を借りて薬局で処方箋を受け取り、ふらふらと家にたどり着いて、とりあえず即、薬を飲んで眠りこんだ。
長い長い夢を見た気がした。
目が覚めると、帰ったと思っていた和佐がわたしのライティングデスクにうつ伏せていた。
ベッドに身を起こし、めまいの発作が過ぎるのを待って話しかけようとすると、気配を察したのか和佐がびくりと飛び起き、ベッドへ駆け寄ってきた。
「起きて大丈夫なの?」
「うん、まだまだ気持ち悪いけど。ありがとうね、いてくれて」
「あー、俺もちょっと寝てしまった。やべ、もう夕方か」
窓からの西日で、和佐の髪が金色に透けて見えた。
ライオンみたい。
めまいに揺れる視界の中で、恋人は金色のたてがみを持つライオンに見えた。
「あのさ」
和佐はそっとわたしの両手を自分の手で包んだ。
「一緒に暮らそう。由麻をこんなにするような会社は辞めて、海でも見える町でふたりで暮らそう」
「丹羽さん、ダイエットクッキーばっかりじゃなくてあたしのあげたクッキーも食べてくださいね?」
「食べる食べる。あとでちゃんと」
「とか言ってお子さんとかにあげちゃうんじゃないですかー?」
「食べるってー、ただお昼はこれだけって決めてんのっ」
我に返ると目の前に冷めかけの仕出し弁当があり、わたしは急いで箸を動かした。
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