第七話 それでも俺はやられてない 3

 痴漢(ちかん)とは、公共の場所で相手に羞恥心を抱かせ、不安にさせる行為を行う者もしくは行為そのものをいう。日本独特の不法行為であり刑法に抵触する場合は少なく主に迷惑防止条例などで罰する。具体的定義が法的に存在しない。痴漢は男性(漢)が女性に行うものとされ、女性の場合は痴女と言う。(ウィキペディアより)


 教室に入るとすでに担任教師が教壇に立って出席をとり始めるところだった。


「遅れてすみません」


 教師に謝ってから静かに自分の席に座ると、背中を軽く突かれた。友達の祥子だ。


「このところ来るの遅いけどどうしたの? 混んでる電車に乗ってると痴漢に遭っちゃうよー」


「ああ。うん。今んとこヘーキ」


 そう言って俺は翔子に微笑み返す。痴漢に遭う……のえるからも注意されていたし、紗江もあんなに酷い目に遭った。それにあの日、実際に俺も尻を触られた。

 しかし、あれから同じ時間帯の同じように混んだ電車に一週間乗り続けても痴漢の気配すら感じることがなかったのだ。一体これはどういうことなのだろうか。

 俺は先日の犯行の目撃者として警戒されているのか。それとも、どんな行為でも受け入れてくれる紗江のような寛容な女じゃないと痴漢は近づいてこないのか。あるいは、社会的地位を投げ捨ててでも触りたいと思わせるほどの魅力が、のえるの身体にはないということなのだろうか。

 確かに、この身体と紗江のそれとを比較すればプロポーションの差は歴然だ。紗江の方が全体的に脂肪がついた女性らしい体型をしているが、特筆すべきは母性の象徴たる乳房だ。その圧倒的な量感は、のえる自身もが『ご利益がある』と称して触っていたらしく、ラッシュアワーの痴漢達が彼女をターゲットにしたのもうなずける。


 では、痴漢の被害に遭うのは揃って巨乳の娘ばかりなのかと問われると、痴漢した経験がない俺にはなんとも判断が下せない。佐々木 雄一である男子高校生の頃、やはり混み合った電車でカバンを持つ手が女性の尻に触れてしまったことがあったが、相手は一瞬振り返って露骨に眉間にシワをよせると、そのまま向こうを向いてしまった。幸いにもその時は何も言われることはなかったが、もし、意図せず触れてしまったにも関わらず女性に痴漢呼ばわりされたらたまらない。そんな俺自身が女性の心理を理解するなど到底できないだろう。


 自分の彼女の身体を見ず知らずの男に触らせて女性の心理を垣間見ようなんて、彼氏として誠意ある行為だとはとても言えない。しかし、ここまで痴漢に遭わないとなると、のえるを魅力的に感じている俺の審美眼になにか問題があるのではないかとさえ思えて、どういうわけか不安になるのだ。


 担任教師が連絡事項を伝え終ったタイミングで、後ろの席に座っていた祥子に囁いた。


「祥子、遭ったことある? ええと……痴漢……とか」


「何? のえる、痴漢遭ってるの? 聖華の制服着てるとゼッタイやられるよねー。入学してすぐの頃にしばらくマークされてさぁー。キレて二十分早い電車に乗るようにしたら、それから平和な人生だよー。あんたももっと早い電車にしなさいよぉー」


 俺の表情筋が引きつったまま凍結する。祥子でさえ痴漢の被害に遭っていたのか。体型はあまり変わらない。彼女の方がやや小柄だという程度。胸の大きさにほとんど差はなく、顔については彼氏としての贔屓目を差し引いたとしても圧倒的にのえるの方が可愛いだろう。それなのに、祥子は痴漢に遭い、のえるの身体は痴漢に遭わない。これは一体どういうことなんだろう。

 のえるの身体に入った男である俺の精神がなにか殺気のような気配を撒き散らしていて、痴漢たちは無意識のうちにそれを感じ取っているのだろうか。例えどんな扇情的な格好をしていようとも……極端に言えば全裸であっても俺は痴漢に遭わない……ということだろうか。

 だとしたら、あんな寿司詰め電車にわざわざ乗ることもない。俺は馬鹿馬鹿しい実験に一週間を無駄にしてしまったことを後悔していた。


 日曜の夜、風呂から上がったところでアイフォンに着信があった。

 液晶画面には『佐々木 雄一』と表示されている。俺の身体で俺の家で俺の携帯を使っているのえるからの電話だ。

 そろそろ衣替えが近づいてきたので、制服を替えるための連絡だった。ついでに私服についても指示を受ける。内容を伝え終わるとそそくさと電話を切ろうとする彼女を引き留めて、俺は抱えていた疑問をぶつけてみた。

 あの謎めいた保健医のことである。


「マコ様ぁ? あいつは一見有能な美人に見えるけど、中身はレズのヤブ医者だから近づかない方がいいわよ。あたしも以前、散々振り回されて酷い目にあったものぉ。いーい? 雄一くん。ゼッタイにあいつの言うことを聞いちゃダメだからね!」


 のえるは断固とした口調でマコ様を批判する。

 ヤバイ! もう結構しゃべっちゃったよ。

 でも確かに、俺たちの秘密になにか気づかれているような気がするし、もう関わらない方がいいだろう。


「あたし達が元に戻る方法はもうちょっと待ってね。あの女にバレたら邪魔されるかも知れないから、ゼッタイにしゃべっちゃダメよ。わかった?」


 邪魔だって? 何だかわからんが、元に戻るのを邪魔されては困る。


「わかった。約束するよ」


「ゼッタイね。じゃぁまた電話するね、雄一くん大好き! バイバイ」


 久しぶりの恋人同士の語らいにしては慌ただしいが、電話の向こうから聞こえるのは流暢なオネエ言葉の男子高校生の声なのだ。わかりやすく言うなら『雄一くん、大好き!』と囁く声が雄一くんの声なのである。ムードもへったくれもあったものではない。名残惜しいという気分さえもどこかへ飛んで行ってしまう。のえるもきっと同じように感じて、無駄に会話を長引かせることをしないのだろう。


 さて、彼女の指示に従ってタンスの引き出しを引っ張り出すと、奥にもう一つ引き出しがあるのが見える。これがオフシーズン用の引き出しで、前後中身を入れ替えるだけで、衣替えが済んでしまうのだ。

 両方の引き出しを床に並べて衣替えの作業をしていると、奥の引き出しの中から見慣れないものを発見した。ナイロンでできた巾着袋である。

 最近は、のえるの身体に慣れてしまって彼女のプライバシーに鈍感になっていた俺は、躊躇することなくその袋の口を開いてしまった。


 思春期の健康的な男子が部屋に隠すもの……と言えばアダルトビデオかエロ本と相場が決まっているのだが、これが女子の場合は何なのか。その答えが袋の中にあった。

 鮮やかなブルーのTバック。ほとんど布地のない紐パン。クロッチが開く仕掛けのパンツ。レースでできた透ける素材の下着の上下。セクシーなものからほとんど実用性がないとしか思えないものまで、色とりどりの下着が小さな巾着袋の中に隠されていた。

 のえるはこれをタンスの奥に隠したことを忘れていたのだろうか。ひょっとしたら、今頃それを思い出して悶絶しているのかも知れない。そう考えたら、のえるへの愛おしさがより募ってきた。彼の彼女はやっぱり可愛い。


 でも、もしかしたら……と、俺は考える。

  のえるはこの下着を俺に見せるために衣替えをさせようとしたのではなかろうか。馬鹿バカしい考えを頭を振って払拭する。これを女の身体の俺に見せて何になるというのだろう。こんな下着、男に見せなければ意味がない。

 そう思いながらカラフルな下着を眺めていたら、ふとある考えが浮かんだ。この下着を着けてラッシュアワーの電車に乗ったら、ひょっとして痴漢が釣れるんじゃないだろうか。そう考えたら、どういうわけかワクワクと楽しい気分になってきた。

 パンチラだって気をつけていれば大丈夫だし、今日は体育の授業はない。モノは試しだ。これで痴漢に遭わなかったらその時はもうやめよう。そう考えたら、色々と悩んでいたことが大して重要ではないことのように思えてきて、とても気分が楽になった。


◇◇◇


 先週まで毎朝並んでいたラッシュアワーのホームに今朝も並ぶ。俺が並ぶとあっという間に後ろに列ができるのだが、それは先週までと変わらない。やっぱり、下着を変えたくらいで状況が変わるものではないのかもしれない。

 いつもの電車がホームに滑り込んでくる。すでに車両の中はギュウギュウ詰めだ。この乗客のうち三割ほどがホームに降りると、今度はホームの乗客が乗り込む番だ。車内に足を踏み入れると、後ろからトコロテンのように押されて勝手に奥まで押し込まれていく。この時点では尻に何か当たっていてもカバンなのか手なのかわかりはしない。

 頭上からは聞き慣れたうめき声や、苛立った舌打ちが降ってくる。そんなに混んだ電車が嫌なら、時間帯を変えればいいのに。そんなことを考えていた時、尻にそっと手を当てる気配があった。

 指を広げた手のひらの感触がスカートの上からゆっくりと円を描くように動いていく。このエロい下着をどこかで見られたのだろうか。どちらにしろ先週までまったく音沙汰なかった痴漢にようやく逢えたのだ。もちろん、痴漢に遭うことにさほどの価値もないことはよくわかっている。それなのに……嫌なことをされているハズなのに、どういうわけか胸の奥から溢れてくる優越感に頬が自然に緩んでしまう。


 尻を撫で回している手をしばらく好き勝手にさせていると、手はゆっくりと上がってきて右脇から前に回り胸の膨らみの辺りで止まった。その手が再び動き出すと、今度は左から別の手が延びて左の胸を下からすくうようにあてがわれる。二つの手が脇の下から両方の胸の上に揃うと、これも左右対称に円を描くように動いていく。

 二つの手の動きから、触っているのはおそらく一人だ。背後にぴったりと密着して尻に腰を押し付けている人物が痴漢に間違いない。

 端から見ればとても猥褻な行為をされているように見えるだろう。しかし、触られている当人からすれば『だから何?』という感じである。シャツは薄手ではあるけれど、その下にはワイヤーが入った分厚い生地のブラが胸をガードしている。まだ冬服の時期なので厚手のブレザーがさらに痴漢の手の感触をあやふやなものにしている。

 片方の手が再び尻に降りてきた。生地の上から尻の丸みに沿って一度ゆっくりと撫でた後、痴漢の手はスカートの中へ易々と侵入してきた。そこで、手の動きが一瞬だけ止まる。

 無理もない。今俺が履いているのは、のえるのコレクションの中でも最も痴漢に遭いそうだと思って選んだティーバックなのだ。痴漢の手はスカートをかいくぐると同時に、尻に直に触れることができてしまう。

 逡巡していた痴漢の手はまるで何かに開眼したかのように激しく動き始め、尻の柔らかさを確かめるように鷲掴みにして揉みしだいてきた。胸の方に残されていた手も、同じように胸を揉みしだき始める。

 そして、スカートの中に入っていた手はついに股間に忍び寄り、下着のクロッチの部分に達する。痴漢の指はそこを前後に擦るようにして動き始めた。


 正直に言おう。


 俺はここへきてすでに後悔し始めていた。痴漢に遭ってしまったことへの後悔ではない。痴漢に遭うことが、なにか特別な事であるかにように思い込んでいた浅はかな自分に対する後悔だ。実際に触られてわかったことは、痴漢など馬鹿バカしくて取るに足らないものだということだ。


 勘違いして欲しくないが、俺は『だから、痴漢に触られても我慢しろ』なんて言いたいわけではない。触られる側の女性からすれば見ず知らずの男に身体中をまさぐられることは恐怖だろうし、女としての尊厳を踏みにじられることに他ならない。にも関わらず、被害者の女性が受ける肉体的・精神的苦痛の大きさに比べて、犯行に至るまでの敷居は驚くほど低い。

 しかし今、俺を触っている痴漢……のえるの身体を撫で回しているこの男には、不快感こそ覚えるもののそれ以上の悪感情を感じることはない。強いて言うならば、こんな公共の密室で身動きできない若い女性を触るという卑劣な方法でしか性的欲求を満たすことができない痴漢に憐れみさえ感じてしまいそうになる。だからといって黙って触らせてやるほど俺はお人好しじゃないが、やはり俺には他人に共感するのは難しいのかも知れない。

 さて、この哀れな痴漢の腕を掴んで大声を出してやろうか、それとも強烈な肘打ちを食らわせてやろうかと考えていた時に、すぐ横で男の怒鳴り声が上がった。


「何をしてる! この野郎!」


 俺が驚いて振り返ると、声の主はスカートの中に侵入していた痴漢の腕を掴んでねじりあげていた。おそらく二十代後半から三十代始めくらい。ダークスーツにピンク色のネクタイを締めコートを着たビジネスマン風の男性が痴漢を取り押さえていた。

 俺を触っていた痴漢は、グレーのジャージの上下を着た顔のデカイ小肥りの男で、ボサボサの髪に小さな目、吹き出物だらけの顔をしたいかにも女性にモテなさそうな奴だった。

 車内は一瞬にして喧騒に包まれる。あちこちから痴漢行為を批判するヤジが飛んできて、スーツの男性がまるでヒーローになったような雰囲気だ。

 電車はいつしか減速を始めて、車窓から流れるホームが見えてきた。


「お嬢さん。コイツに触られてたでしょう? もう大丈夫ですよ。次の駅で鉄道警察に突き出してやりますから」


 そう言って、彼は白い歯を見せて快活に笑った。

 格好良いじゃねぇか。

 洋の東西を問わず、女性の窮地を救うために登場するヒーローは素直に格好良いものなのだ。以前、のえるが複数の暴漢に乱暴されそうになった時、それを助けた俺を運命の相手だと思い込んだと言う。しかし、助けられる側に立ってみればそれも無理からぬことのように思える。まあ、俺の中身は男なので、このヒーロー氏に恋愛感情的なフラグが立ったりはしないのだが……。


「あ、あの! ありがとう……ございます」


 なんとかお礼を言わなくてはと思ったものの、恥ずかしさでシドロモドロになってしまってうまく言えない。

 痴漢に遭っていたことが恥ずかしいのではない。自分から痴漢を呼び込んでおきながら、助けられてしまったことが恥ずかしいのだ。またしても、俺の男としての株が落ちて行く。まったく俺は一体何をやっているのだろうか。

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