第六話 それでも俺はやられてない 2
はあはあと荒い息遣いが聞こえる。駅に設置された多目的トイレの中で、紗江と二人で乱れた呼吸が収まるのを待っていた。
彼女はゆっくりとした動作で外れたブラのホックを直し、シャツのボタンを留める。まるで不注意で何かに引っ掻けて外れてしまったとでもいう風に、無造作に制服の乱れを直していく。
聖華女子の生徒なら絶対に乗ってはいけないと言われるラッシュアワーだった。俺が朝の待ち合わせに遅れたせいで、この大人しくて可愛らしい友達は痴漢たちの汚らしい手で胸を揉みしだかれ、パンツの中までも好き放題に触られてしまったのだ。
俺は彼女を助けようとしたが、大勢の痴漢たちに邪魔されて口を塞がれ、両腕を押さえつけられて身動きがとれなかったんだ。
電車がホームに入って減速を始めた時、痴漢たちの注意が一瞬窓の外に逸れた。俺はその隙をついて指に力一杯噛みついてやった。
不気味に甲高い男の悲鳴が車内に轟き、周りの痴漢達が怯んでこちらを振り向く。
それから後は、できる限り大声を張り上げて助けを呼びながら、紗江の腕を掴んでホームに飛び出した。
紗江に酷いことをした痴漢どもに仕返ししてやりたかったが、今の女の身体では逃げるだけで精一杯だった。
奴らが何人いたのか把握できなかったが、あの人数では本来の男の身体でも彼女を守れたかどうかわからない。結局、他の乗客や駅員にも頼れず走ってここまで逃げてきたのだ。
「紗江。大丈夫?」
そう聞きながらも大丈夫なワケがないことは俺が一番よくわかってる。ところが驚いたことに、紗江はケロっとして言った。
「んー。 大丈夫だよぉ」
「いやいやいやいや、大丈夫なワケないだろう。痴漢だよ! 犯罪だよ! あいつら、ブッコロしてやる!」
俺はいつになくエキサイトしていた。当たり前だ。目の前で友達があんなことをされたのだ。
「のえる恐いよぉー。ホントに大丈夫だからぁ。……ねっ?」
俺はそんなに恐い顔をしているのだろうか。被害者である紗江に逆に気遣われてしまった。ラッシュアワーの電車に乗るハメのなったのは俺のせいなのに。
そう思うとあごの後ろ辺りに強烈な違和感が来た。ああ、もうダメだ。
優しく微笑んでいる紗江の顔がみるみる滲んでいく。
俺の頬を熱い液体が伝い落ちていった。
泣いてしまった。
うんと小さかったころ、泣いている俺に母親がいつも言っていた。
『男の子は泣いちゃダメだよ。強くなって大切な人を守れるようにならなきゃ』
若かった頃の母親の顔はおぼろげにしか思い出せないけれど、内容は今でもハッキリと覚えている。俺はあの頃より強くなれただろうか。
しかし、俺は今……女だ。女子高生『立花 のえる』なのだ。
今の俺は泣いてもいいんだ。
そう思ったらもう止めることはできなかった。俺は堰を切ったように声をあげて泣き続け、紗江はそんな俺をそっと抱きしめていつまでも頭を撫でていてくれた。
紗江。俺が男だったら嫁にしたいくらいだ。いや、彼女はいるけれど…。
不思議なことに、ひとしきり泣くと気分が落ち着いてきた。
トイレを出る時に念のため慎重に辺りを伺ったが、付近に怪しい奴らは見当たらなかった。このまま学校に行く気にはなれなかったので、二人で駅前のコーヒーショップに入る。
「私が遅れたせいであんなことに……。ホントにゴメンね、紗江」
「だからぁー、平気だってばぁー」
俺が謝っても平和そうな顔でそう返すだけ。そんな紗江を見ているとなぜだかイライラしてきた。
「あんなの平気なワケないだろう! 我慢しちゃダメだよ!」
そう言えば彼女はいつもそうだった。友達に胸を揉まれても嫌がることなくニコニコしていたじゃないか。いや、友達と見知らぬ男達とはどう考えても同じではない。常識的に考えて、痴漢に体を触られるなんて我慢できることじゃないハズだ。
「我慢なんかしてないよぉー」
紗江は相変わらずの調子でそう答える。まさか紗江は好きで男たちに触らせていたのではないだろうか。そんな異常な考えが浮かぶ。俺は軽く頭を振ってそれを払拭した。
「だって、イヤ……だろう?」
念を押すようなその問いに、紗江は予想外の返事をした。
「ううん。イヤじゃないよ。朝、乗り遅れた時はいつもだしぃー」
なんだと! 俺は紗江の言葉をすぐには理解できなかった。今回が初めてじゃなかったのか?
待てよ、その前に『イヤじゃない』と言ったか?
一体どういうことなんだ? 触られてもいいということか? それとも……。
「まさか、触られたいの?」
「そんなワケないじゃーん。あははは!」
紗江の口から否定の言葉が出てきたが、俺にはもう何がなんだかわからなくなっていた。にわかに信じ難いことだが、どうやら本当に紗江は痴漢に触られても平気らしい。胸を直に揉まれても、下着の中に手を突っ込まれてもそれほどイヤではないと言うのだ。
じゃあ、必死になって助けようとした俺の立場は? 紗江のために怒り、涙を流した気持ちは一体どうなるのというのだ。
前言撤回だ。もしもこんな女を嫁にもらってしまったら、常に監視していないと心配でたまらない。気を抜くとあっという間に見知らぬ男に犯されてしまうだろう。
念のため学校に電話を入れて遅刻の理由を説明すると、養護の教員が俺たちを迎えに来てくれることになった。さすがお嬢様学校である。
ちなみに俺が通っていた東高では、ヤクザと見紛うほど強面の体育教官が、同様にヤクザと見紛う衣装でどこにいようと連行しにやって来る。だから遅刻しようが仮病を使おうが学校に電話する馬鹿はいない。
駅で待っていると、俺たちを迎えに現れたのは保健医のマコ様だった。
オフホワイトのブラウスから覗く黒いレースのブラに包まれた胸の谷間。黒のタイトスカートから伸びる細い足は花柄のストッキングに包まれ、足元はやはりこれも黒のパテントのハイヒールで、尖ったヒールの先端がアスファルトに突き刺さりそうだ。
白衣を脱いでグレーのジャケットを羽織ったマコ様は、どこかのスケベ社長の専属秘書にしか見えない。俺たちが警察や駅員に保護されていたら、迎えにきても引き渡してくれないのではないかと心配になるほどだ。
◇◇◇
「で? ホントは何があったの?」
学校に着くと、なぜか俺だけがマコ様に呼ばれた。
スクールカウンセラーのために割り当てられている部屋は、スチールの戸棚と事務机と椅子が奥に設置された何の変哲もない造りだが、室内の真ん中に置かれた白いソファーが異彩を放っていた。
マコ様は俺にソファーを勧めると、温かい紅茶を煎れながらそう切り出した。いつのまにか洒落たジャケットを脱いでいつもの白衣を羽織っている。
学校に向かう道すがら、適当な嘘を並べてデッチ上げた遅刻の理由を話したが、やはり彼女には通用しなかったようだ。
別に事実をありのまま話しても良かったんだが、そうして話をしていると俺の秘密をも見抜かれてしまう気がして恐いからだ。聖華女子の生徒である立花 のえるの身体に宿っているのが、男子高校生である俺、佐々木 雄一であるという秘密を。
万が一それが公になってしまったら、俺は男でありながら女子高に通ってクラスメイトの着替えを眺め、身体検査を覗き、友達の巨乳を揉みしだいたとして、性犯罪者と同じような扱いを受けるに違いない。
しかし、嘘がばれてしまったのならもうごまかしは通用しない。
「私が朝遅れたせいで二人で混んでる電車に乗ったんです」
マコ様は黙って聞いている。
「混雑で紗江と離れ離れになったんだけど、電車が走り出したらお尻を触られて……」
自分が痴漢被害に遭った内容というのはなぜかとても話しづらい。痴漢の被害者が訴えにくいのもこんな理由があるからではないだろうか。
その後俺は、紗江の痴漢被害を目撃したこと、助けようとしたら押さえ付けられたこと、逃げ出したことなどを話す。そして、勢いのまま紗江が痴漢を嫌がっていなかったことまでしゃべってしまった。
「見知らぬ人に体を触られるのが不快じゃないっていうのはたしかに普通の状態ではないけれど、それは彼女の問題でしょう。ここに来れば話は聞けるけれど、彼女自身がそれに悩んでいない限り力になるのは難しいわね」
マコ様はそう言って両手のひらを天井に向けて肩をすくめて見せた。
そして、白衣のポケットから出したタバコを一本咥え、ブランド物っぽいガスライターで火をつける。
校内は基本的に禁煙のはずだ。それを知っていてあえてタバコを吸うのは、理性に欠け自分の欲求に勝てないダメな人間だからか、目の前の俺、つまり立花 のえるに気を許しているのか……あるいはそう思わせようとしているか。
でも、どうして?
「被害に遭ったその娘のことはどうでもいいわ。あたしは、それを見て貴女がどう感じたのか知りたいの」
そう言ってマコ様は妖しく微笑む。顔は笑っているのに眉は吊り上がっていた。
突然の展開に思考が追いついていかない。でも、今ここで下手なことは言えないということだけはわかる。俺はゆっくりと回転する頭を必死に操って、最善の回答を探しだそうと試みる。
「どうって? そんなもの、怒るに決まってるでしょう! 目の前で紗江があんな酷い目にあってるんだから……」
そんな事は当たり前だとばかりに口調を荒げて見せた。
「うーん。怒るのはもちろんよ。あたしが聞きたいのはその前。あるいは後かな? 怒る感情の他に何か感じなかったかってことよ」
「怒る他に?」
俺は必死になって記憶を検索する。怒りの前後に何かを感じたのだろうか。
「確かに、見た瞬間はびっくりしたけど……後はよく覚えてない」
「そっかー。うんうん。そうだね。一般的に女性は男性に比べて共感性が強いと言われているの。どういうことかと言うとね、痴漢の現場を目撃すると被害者の女性を自分に置き換えて見てしまうのよ。そして見ず知らずの男性に触られる嫌悪感を感じて加害者に怒りを覚えるの。だから、貴女みたいに痴漢を目撃してすぐに怒りの感情がわくのは、いつも犯罪に目を光らせている捜査官だとか……あとは、そうね。男性の視点だとそんな風に感じるかも知れないわね」
俺は言葉を失った。
話せば話すほど彼女は真実に近づいて行く。その話術はまるで魔法のようだった。高度に発達した科学は魔法と区別がつかない……なんて言葉を聞いたことがあるけれど、心理学もそこまで進歩しているということなのだろうか。
ここで選ぶべき選択肢は二つだ。一つはこのまま黙ってカウンセリング室を出て、二度と彼女には近づかない。もう一つは、俺たちの秘密がバレてしまうのを覚悟の上で、彼女が持っている情報あるいはアドバイスを手に入れること。
迷った刹那、校内にチャイムが鳴り響いた。
「次の授業が始まるから失礼します」
そう言って俺はソファーから立ち上がった。実際、授業の始まるチャイムなのか終わったチャイムなのかわからなかったが、そんなことはどうでも良い。一秒でも早くここから逃げ出したかった。
俺が部屋を出て行くまでマコ様も何も言わなかった。
放課後、俺は買い物に行くという祥子たちと別れて帰宅し、部屋にこもってずっと考えていた。
共感というのはどんなものなのだろうか。ウィキペディアで検索してみると、共感とは『他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。もしくはその感情のこと』とある。
つまり他人が感じてる感情を自分も感じることでコミュニケーションを円滑にするものらしい。そんなことは人間だれしも同じだと思っていたが、男女で違いがはっきりしているのだろうか。
だとしたら、気づかないうちに俺の正体がバレてしまう恐れがある。
集団で囲まれて痴漢されていた紗江を見て、自分が痴漢されている状況を想像するなんて、そんなことができるのだろうか。
あの時、紗江は前後左右から五〜六人の男たちに取り囲まれて触られていた。俺のように両腕を押さえ付けられて口を塞がれた状態だったとしたら、最低でも五本。多ければ十本近い腕で身体中をまさぐられたことになる。それは一体どういう感覚なのだろうか。
今朝、俺は痴漢に尻を撫でられた。混み合った電車のなかでの不快感はあっても、それに対して直接にどうこう思うことはなかった。
しいていうなら、痴漢せざるを得ないほど女性に飢えているのに、スキンシップできる相手もいない男達の境遇を哀れに思うくらいだ。
しかし、自分でわからないからと言って、紗江に聞くわけにもいかない。痴漢被害者に共感するのがごく当たり前のことだとしたら、そんなことを聞く俺が普通の女性とは違うということがバレてしまう。
こうなったら、実地で体験するより他に手はないだろう。
幸いにも痴漢に遭いやすい環境は整っている。あとはラッシュアワーの電車に乗るだけだ。
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