第4話 特別な子

 夫は優しいひとだった。

 でも身体は弱かった。


 アガニは新しく立った墓標の前に立ち、その隣に並ぶ大小二つの墓標を見る。

 病死した夫と産まれた時には死んでいた我が子の墓。


 ワノトギとなった自分相手に所帯を持ちたいと言ってくれた幼馴染の夫。彼の子供を宿し、自分は普通の女の幸せを手に入れる、その矢先だった。

 疫病が蔓延し、夫は死に、そこら中に死霊、悪霊が出現した。ワノトギとして求められる人々の期待を裏切ることはできなかった。

 アガニの居るダフォディルは神霊チム=レサが不在のため、他の地域よりも格段にワノトギの存在が少ない。悪霊が出たと言われれば、即座にその地へ赴いた。子を宿した体で要請に飛び回る日々の中、ある日、顔見知りの女の悪霊をアガニは取り込んだ。

 そのときに失敗したらしい。

 苦痛から目覚めると、悪霊は身体から離れた後で、胎内の子供は死んでいた。

 悪霊は胎内の子供の魂を持ち去り、逃げたのだ。ほどなく陣痛が起こり、アガニは抜け殻となった我が子を死産した。

 状況はアガニに悲しみに呉れる暇を与えてくれなかった。疫病の勢いはとどまることなく、人々は次々に死に絶えた。ようやく下火になったのち、今度は自分、夫の両親が続けて身体を壊した。看病の甲斐泣く、両親たちは順番に命を落とし、そして先日、夫の母親が最後に亡くなった。


「私の子供を探しに行くわ」


 アガニは夫の墓標に向かってつぶやいた。


「あの子、私のことをきっと待ってる」


 逃がした悪霊の噂は聞いていた。

 何者にも憑くことなく、その悪霊はこの地を去っていったのだという。

 彷徨える悪霊。

 それを探す旅に、ようやくアガニは出ることにしたのだった。



 * * * * *



 ヒヤシンス北部のルルヌイ川にて存在する大集落テロロツ。

 西部ダフォディルから南下したアガニは目指すデュモンド湖への中継地としてこの地を選んだ。

 ダフォディルの集落と比べ、この地の人々は生き生きと活気があった。山岳育ちのアガニは嗅ぎなれない豊富な魚介類の生臭さに顔をしかめた。ルルヌイ川、海、そしてデュモンド湖からの大いなる恵みにてテロロツは賑わっているようである。

 むせるような人々の熱気に気圧されながら、アガニは足休めに中心地の食堂兼居酒屋に入った。ガヤガヤと体格のいい男たちが唾を飛ばしながら歓談している中を通り過ぎ、店の隅の席に着くと、アガニは魚介スープとパンを店の女に注文した。


「おい、アガニだよな?」


 男たちの群れから一人の男が飛び出してきた。


「覚えてるか、俺だ、ヤドゥンだ」


 馴れ馴れしく話しかけるその男の顔には見覚えがあった。

 疫病が故郷で流行り始めたころ、アガニの住む小集落に助っ人としてきたロウレンティア人のワノトギの一人だ。

 自らと同じ風を司るヲン=フドワの欠片を内包する男。

 五体の神霊を持つ恵み豊かな大地に住むロウレンティア人特有の偽善者じみた高慢さが鼻持ちならなかった。

 夫が亡くなり、疫病が猛威を振るい始めたころ、感染を恐れたヤドゥンは姿を消した。

 一番居てほしいときに居てくれなかった。


「……覚えてるわ」

「あの時は大変だったな。よくやったと思うよ、お前も俺も」


 断りもなく、ヤドゥンはアガニの前に座った。


「どうしてこんなところに?」

「ヒヤシンス神殿に行こうと思うの」

「ヒヤシンス神殿?」


 ヤドゥンの声が大きく響き、店内にいた何人かが自分に視線を向けるのをアガニは感じた。


「捜しものがあるのよ」

「千里眼ベリシュカに会いにいくのか。俺も一度は見てほしい」


 それからヤドゥンはアガニにとっては取るに足らない自慢話をし続けた。

 アガニは適当に相槌を打ちながら、運ばれてきた食事を手早く片付けた。


「美味しかったわ、ごちそうさま。それじゃ」


 金を置き、店の女とヤドゥンに告げると、アガニは立ち上がって店を出た。

 酒場を出たアガニの後をヤドゥンはついてくる。早足で振り切ろうとしたアガニを追い抜かし、ヤドゥンはアガニの前に立ちはだかった。


「知らない仲じゃないんだ。戻って飲み直そうぜ」

「酔っ払いは嫌なの、私は飲まない」


 横を通り過ぎようとしたアガニの手を無骨なヤドゥンの手が捕まえた。


「お前、いい女だ。やり直せるさ」


 酒臭い息の声で粘りつくように囁く。


「旦那が死んじまってもう四年だ。寂しいだろう」

「離して」

「俺と居ろよ。ヲン=フドワ様の欠片を持つ同士、組もうぜ。お前の力の無さは俺が補ってやる」


 抱きよせて来るヤドゥンにアガニは鳥肌が立ち、顔をそむけた。


「あんな辺境のダフォディル人とは思えねえほどお前、すげえ綺麗な女だ。最初からあんな旦那とは釣り合わねえと思って……うわっちょ!」


 慌てふためいてヤドゥンは妙な声を出し、アガニから手を離した。

 アガニが振り返ると、ヤドゥンの顔の前で小さな赤い炎がいくつかクルクルと回っていた。


「や、止めてくれよ、フォルテナ姐さん!」


 悲鳴に近い声でヤドゥンが叫ぶ。


「全くお前の馬鹿はいつまで経っても治らないね。わたしゃ、同じワノトギとして情けないよ、ねえナギ」


 しゃがれながらも張りのある声がして、一人の老婆が酒場から姿を現す。ついで背の高い老人が戸口にぶつからないように頭を下げてゆっくりと出てきた。二人とも、全身がシワとシミで出来ているような容姿だったが、双眸だけは若々しくきらきらと輝いていた。


「ホラ、さっさと娘さんに謝りな。火傷するよ、ホラ、ホラ、ホラ」


 フォルテナと呼ばれた老婆の声に合わせ、顔前の炎はジリジリと近付き、ヤドゥンの髪を焦がす。


「悪かった、アガニ! すまねえ、許してくれ!」

「じゃあさっさとここから立ち去るんだよ、間抜け」

「わかりやした! 」


 逃げ出すヤドゥンを火が追い立て、後も見ずにヤドゥンは駆け去る。


「大丈夫かい、娘さん。私の教育が足りなくて御免よ」


 フォルテナが近づいてくる。


「あんたみたいな綺麗な女はああいう目に遭わない方が無理ってもんだ。独りで行動するのは馬鹿だよ。ヒヤシンス神殿まで行くんだろう? そうだ、このナギについていってもらい……」

「ありがとうございました。私のことは放って置いてください」


 アガニは一礼すると踵を返し速足で歩き出した。後ろからフォルテナの声がしたが振り返らなかった。


 泣きたくなるのはこんな時だ。

 こみ上げてくる感情を必死に唇を噛んでアガニは堪える。


 自分がたまらなく惨めで情けなく感じるのはこんな時。

 同じワノトギであるのにこの差はどうだ。あんな老婆でさえ、トギの持つ力をいとも容易く使っている。なのに私は自らの身を守ることすら出来ない。


 目に映る風景が歪み出した。


 そのくせ、赤の他人の悪霊払いに駆けずり回って。悪霊を滅する何日間もの苦痛に耐えて。

 夫の忘形見である我が子まで犠牲にした。


 道行く人が自分の顔を驚いたように見ていくのはわかっていたが、止まらなかった。頬に落ちる涙を拭いもせず、アガニは声を堪えて歩き続けた。



 * * * * *



 マスカダイン島の南部にある最大淡水湖、デュモンド湖の底に神霊フラサオがおわすヒヤシンス神殿が沈んでいる。テロロツから更に南下したアガニはそこに辿り着いた。

 透明度の高い湖は、はるか底を泳ぐ魚、沈んでいる老木の姿も容易に見える。

 純然たる祈りによって、ヒヤシンス神殿は浮かび上がり、神霊に近しいものだけがその姿を拝めるという。


 霊力が無きに等しい自分にはおそらく見ることは叶わないだろう。アガニはそう思った。

 それでも構わない。ここに来た目的には関係ないからだ。

 湖水のほとりに建てられた小さな小屋へとアガニは足を伸ばした。


 千里眼ベリシュカ。

 自分と同じロウレンティア神殿で神霊ネママイアの試練を受けた彼女は此処に居を構えていた。

 盲目の彼女は、多くのワノトギのように悪霊退治に飛び回ることは出来ず、代わりにネママイアから授かった予知や透視といった能力を、求める人々に役立てていた。

 元々が占い師だったらしい。その力は聞こえ高く、各地から彼女に会うために来る者が後を絶たないという。

 夕陽の赤い光が小屋の屋根を照らすのを見ていると、中から一人の女が出てきた。


「ではベリシュカさん。明日の朝また来ますから……きゃっ!」


 外に立っていたアガニの姿を認めた女は小さく叫び声を上げた。

 無理もないかもしれない。アガニの姿は浮浪者にしか見えなかった。

 道中、アガニは男の気をひかぬよう身体に土を塗りたくり、灰をかぶって、捨てられていた服を着た。


「こりゃあまた、えらい別嬪さんが来たね」


 女の後ろからもう一人の女が現れる。

 五十路近い痩せ型の女で、銀色に輝く髪を横でひとつに編んで垂らし、ストンとした質素な長衣を一枚、着ている。眼は濁り、まるで水色の珠が入っているようだった。


「私には分かるよ。お前さんは百人に一人の美女だ。そんな格好をしているのはワザとだね」

「……この辺は物騒だと聞いていたから。道中につまらない男の子を孕ませられたくなくて」


 アガニは首を竦めて答えた。


「初めまして。千里眼ベリシュカ」

「ワノトギのあんたに手を出す馬鹿がいるのかね」

「生憎、私は情けないほど霊力のないワノトギなの。ワノトギだと言っても誰も信じてくれないわ」

「ダフォディルからよく来たね。おあがり」


 次々に自分のことを言い当てるベリシュカにアガニは流石だと心の中で舌を巻いた。アガニに驚いた女を帰らせた後、ベリシュカはアガニを簡素な小屋の住処へと招き入れた。


「さて、と。私に聞きたいことは何だい?」


 アガニは語った。

 自らの身上と、子供を奪った悪霊のこと。そして、旅に出た目的を。

 静かに見えない目を向けてアガニの話を聞いていたベリシュカは、やがて口を開いた。


「あんたの子を奪った悪霊、このマスカダインには居ない」

「もう、誰かが滅したの?」

「いや、この本土にいない、という意味さ。その彷徨える悪霊はオレア島にいる」

「海を越えたの?」

「らしいね。半端な悪霊にしては大した執着心さ。あんたの子供の魂を誰にも取られたくないらしい」


 彷徨える悪霊は子持ちの母親であり、アガニとは気心の知れた仲だった。


「ありがとう。幾ら払えば良い?」

「おや現金かい?」


 ベリシュカは、供物を受け取る方が都合が良かった、と話した。街まで足を運ぶ手間が省けるからだ。

 下調べしなかったことを謝り、一人でここに暮らしているのか、と聞いたアガニにベリシュカは微笑んで答えた。


「人が密集してる所は生きにくくてね。ネママイア様の力をいただいた途端、以前にも増して感じなくてもいいことまで感じるようになっちまって。此処だと落ち着くのさ」

「ベリシュカ、いるかい! ちょっと水おくれよ!」


 背後の戸を盛大に打つ音と共に、老婆の大声が響いた。


「フォルテナだね。居るよ、入っておいで」


 ベリシュカが言い終わると同時に勢いよく戸が開かれ、一人の老婆が入ってきた。

 アガニは目を見開く。

 テロロツでアガニが会った炎使いのワノトギだった。


「あんた……あら、何てまあ……何て格好してんだい。そりゃ、考えたね」


 フォルテナはすぐにアガニの正体に気付くと、呆れた声を出しつつも賞賛した。


「此処に無事に来れたんだね。心配してたから良かったよ。あたしも此処にくることになったんだからどうせなら一緒にくれば良かったねえ」


 フォルテナはあの後すぐに死霊付きの女に会い、試練を受けさせるため、ワノトギのナギニーユという老人と共にその女を連れてきたのだという。


「ナギが今、フラサオ様に祈りを捧げたところさ」


 フォルテナの背後で湖に突き出た足場に背の高い老人が一人の女と跪いているのが見えた。丁度日が落ち、登り始めた月が白く輝き始めたところだった。

 風も無いのに、湖面がさざなみ始めた。

 夕暮れの空を映した青紫色の湖面が大きく揺れたかと思うと、突如それは水を割って出現した。

 沈める神殿、ヒヤシンス。

 アクアマリンの涙型の屋根は、優美なラインを描き、デュモンド湖と同様に冴えて透き通っている。同じく美しい青の壁肌には湖底の水草が絡みつくように螺旋を描いて這い、独特の装飾になっている。

 一階のアーチに囲まれた廊下は氷のように冷ややかで滑らかだった。中央に構えられた門は、荘厳でありながら透明感がありどこか懐かしい。

 何よりも美しいのは、光を増した月がそれらを透かすように幻想的に照らし出していることだ。

 氷の中を銀の蝶が飛び回っているように。

 神々しい程にヒヤシンス神殿を輝かせる。


「あんた、泣いてるのかい?」


 ベリシュカの問いにアガニは自らの頬に涙が流れているのに気付いた。


 この世に美しいものがあるということさえ忘れていた。

 毎日、砂と岩の枯れたダフォディルの赤い大地で生きることに必死で。

 心が洗われるように魂がうち震えたことなんて、久しく無かった。


「……私、美しいものを久々に見たの」

「あら、良い目を持ってるってのに」

「この神殿を見るたびにわたしゃ幸運だと思うよ。世にはこれが見えない奴の方が多いからねえ」


 ベリシュカとフォルテナの言葉を空で聞き、アガニはつぶやいた。


「……この私に神殿が見えると思わなかった」

「なにを言うのやら」


 フォルテナが屈託無く笑う。


「あんた、ワノトギじゃないか」


 その言葉を聞いた途端、アガニは身体の奥に込めていた感情が一気に噴き出した。

 たまらずに膝を折り大声を出して泣いた。

 止まらなかった。

 ワノトギとして生きてきた日々を認められた気がした。

 今まで、理不尽さを感じながら求められたことを遂行するだけだった。

 私はワノトギである自分自身を肯定したかったのだ。


 咽び泣くアガニの背中をベリシュカとフォルテナが優しく撫でた。



  * * * * *



「あんた、いい顔になったよ。初めて会ったときは美人なのに枯れ井戸みたいな印象だったからね」


 涙と声を出し尽くしたアガニを見下ろし、フォルテナが頷いた。


「さっきの続きで、あんたに言ってないことがあるんだよ」


 傍らのベリシュカがアガニの肩に手を置き微笑む。


「あんた、オレア島でいい人に会える」


 アガニは驚いてベリシュカの顔を見た。


「運命の男さ。間違いない。……おまけにもうひとつ、とびっきりのことに。あんた、その男の子を産む」

「まさか」


 アガニは呆れた声を出した。


「死んだ夫以外に肌を合わせたいと思う男が現れるとは思えない」

「未亡人は皆そう言うね」


 お約束、とベリシュカは笑った。


「あんたが産む子だけど。特別な子だよ。すごく特別。でもすごく危うい。両極端にどちらでも何処までも振れる子なんだ」


 ベリシュカは眉を寄せた。


「そのうえ不思議だけど……その子の未来はどうしても見えないね」


 何かを見るように見えない目で焦点を合わせる。


「でも、大丈夫。片割れの子がとても良い子だから。まるで天使のような子。その子が楔になってくれる」

「片割れ? 私は双子を産むの?」


 アガニの問いにベリシュカは微笑んだまま答えなかった。


「あんたは今まで我慢しすぎて生きてきた。これからは自由に生きなよ。時には、衝動的に気に入った男に身を委ねるときがあってもいいんじゃないかい? えぇ?」

「馬鹿言わないで」

「あんた、真面目なんだねぇ」


 聞いていたフォルテナが感心したように息を吐いた。


「私なんか、あるんだかないんだか分からないもの追い求めて、あっちこっち行って。回り回って最初の男んとこに戻ってやっと落ち着いたんだよ……あ、ナギ、終わったみたいだね」


 いつの間にか試練が終わったのか、ヒヤシンス神殿からナギニーユに連れられた女が出てくるところだった。試練は成功したらしい。


「今のあんたなら恋が出来るさ」


 ベリシュカがアガニの肩を軽く叩く。


「……あんな島にそんな良い男が居るようにはどうしても思えないわ」


 むっつりと眉間に皺を寄せた顔で答えるアガニにアハハ、とベリシュカが笑う。


「それもお約束。相手に会わないうちは皆、そう言うんだから。……さて、と。お二人さん、これから飲むかい? この前来た豪商がとびきりの酒を置いていってね」


 フォルテナが口笛を吹いた。


「良いね、ベリシュカ。アガニ、あんたも飲めるんだろう、一緒にやろう。……ただし」


 フォルテナは顔をしかめる。


「その汚れを落としてからね。酒が不味くなっちまう。フラサオ様のふところに飛び込みなよ」

「服は貸してあげるから。水気たっぷりの女になっといで」


 二人の言葉にアガニは頷くとデュモンド湖の湖面に視線を移し、そのまま飛び込んだ。


 聖なる湖水の冷ややかな心地よさが全身を覆う。透明な瑞々しさが満ちる。


 生き返った。


 身体の隅々が息を吹き返す感覚にアガニはゆっくりと息を吐いた。仰向けに浮かんでいたアガニは四肢を広げ静かに身を沈める。


 水面越しの夜空には、つかみどころのない美しい銀の月が揺蕩っていた。


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