第5話 眷属ミラルディ

「朝ですから起きてください」


 ミラルディはその声にパッチリと目を開けた。

 いつの間にか、頬を押し当てていた男の温かな胸はそこには無く、自らの目の醒めるような紫の髪の上にミラルディは裸で横たわっていた。


「眷属とはそんな暇なものではないのでしょう?」


 既に神官の白い衣を着た男は傍に立ち、微笑んで自分を見下ろしている。

 ミラルディは差し込む朝日に目を細めながら胸を手で隠し、起き上がった。


「あっちを向きなさい、ヨシュア」

「……私には見せてくれないのですか」

「後ろを向いて!」


 ゆっくりと背中を向けるヨシュアを確認し、ミラルディは自身の衣を足元から探し出して身につける。


「あまりアランを長時間独占しないでくださいますか。次の日、私が辛い」

「……貴方は私よりも五十も下の若者でしょう」

「貴女も私より五十も年上の女性でしょう」


 揶揄するようなヨシュアの言葉がミラルディには非常に癇に障った。


「失礼だわ」

「ああ、それから。アランが何も言わないからと言って背中に爪を立てるのも程々にしてください。この前、一日中背中が染みて何事かと思いました」

「早く部屋を出て行きなさい」

「……お言葉ですが、ここは私の部屋で忍び込んできたのは貴女ですよ」


 苦笑しつつ、部屋の外に行きかけたヨシュアは振り返って片眉と口の片端を上げる。


「アランがそんなにいいですか」

「早く出て行って!」


 鋭くミラルディが言い放つと、ヨシュアは肩を竦めて大人しく去る。

 ミラルディは寝所の上で膝を抱いて座ると悔しそうに下唇を噛んだ――。



 * * * * *



 眷属の朝は早い。

 神霊が一度降りた身体は三大欲求が薄れ、睡眠は時間を要さなくなる。

 ……のはずなのに、日が昇るまで自分が寝入ってしまったのは昨晩がとても良かったからだ。


 いつもは夜明け前に真の神殿に戻るのに。


 ミラルディは足早に森を抜け、真の神殿へと急ぐ。

 霊力のあるものにしか見えない霊界と物質界の狭間の空間。神霊の器と眷属の住み家。


 神殿に足を踏み入れた瞬間、自分がたちどころに浄められるのを感じた。

 清浄な空気に身体が隈なく染められ――ミラルディは元の眷属に戻る。

 他の眷属と同様、感情の抑制された人間、または動く人形のように。


 ――眷属たちは阿呆なのかしら。


 神殿の外で、ミラルディは時折、仲間たちのことをそう思うことがあった。

 何の楽しみもなく、長い年月を黙々と神霊の世話に費やす。ただ、それだけ。

 その生活を当然のように受け入れ、毎日飽きもせずに同じことを繰り返すなんて。


 それとも私がおかしいのかしら。――


 ミラルディが器になれず、眷属になったのは十歳の時だ。

 器候補として選ばれた時、名誉なことだと家族を含め周囲の皆がミラルディを褒めそやし、喜んだ。

 十歳の自分には状況が何も理解出来ていなかった。

 そのまま言われるままに神殿へと連れてこられ。

 そして、見事に失敗した。


 あとは神殿で神霊に仕えて余生を過ごすものだと教えられ、それを受け入れるしかなかった。


 眷属になったばかりの仲間たちの中には、俗世への思いを諦めきれず、たまにおかしくなるものも現れる。

 幼かった自分にはしばらくそんな彼らを理解できなかった。しかし、年月がやがてその意味を諭してくれた。


 暇を持て余し、好奇心で男と寝たのは十九の時だ。

 森の中で里の娘と乳繰り合っていた若い神官に興味本位で話を持ちかけた。

 その神官はあっさりと乗った。

 まあ、悪くはなかったと思うが、最初は何が良いのか分からなかった。


 ちなみに、その初めての男は今や大神官として紫の神殿で偉そうにのさばっている。それがミラルディには可笑しくて仕方ない。


 一度覚えた快楽は面白くて、その後も気に入った何人かの神官をミラルディは誘った。

 お互いに気楽な関係を結び続けたつもりだ。

 それでも、繰り返し関係を持った神官の中には、里の娘と所帯を持つために辞めた者もいて、ミラルディはもやもやと妙な気分になったこともある。


 私が眷属じゃなかったらあの娘は私だったかしら。


 真の神殿にいる間だけは、そんな自分をきちんと遮断でき、ミラルディのバランスが崩れることはなかった。

 数日後にはその感情は薄れて、やがて無くなった。

 それを繰り返し、ミラルディは今に至る。――



 朽ちた木の橋を駆け足で渡り、岩棚の陰にある神霊ユシャワテインの部屋に飛び込むと、彼の器は日課を待って座っていた。

 器の名前はウィッツフォン。


「おはようございます」


 ミラルディが器として失敗したのち、目の前にいるこの男がユシャワテインの器となった。

 外見上は、二十代後半の若者。

 赤銅色の長髪に、緑の瞳の恐ろしいほど美しい男である。


 早速、ウィッツフォンの髪を梳るという毎朝の仕事にとりかかりながら、ミラルディはぼんやりと考えた。


 どうして、私は神殿の中に居る者にはそそられないのかしら。


 器も眷属も自分を含めて、浮世離れした美しさだ。なのに、ミラルディはそんな器と眷属たちに何の興味もわかなかった。


 紫の神殿に若い男がいなかった時には、かなり不細工な神官にも若さだけでその気になったこともあるのに。

 不思議よねえ。

 生命力の差かしら。人間から漲る生命力が私たち器や眷属には無いからかしら。

 それともこれも神殿の空気が成せるワザかしら。


 神々しいばかりの美青年であるウィッツフォンの世話役をしているが、彼の素晴らしい身体を水浴の際に洗ってやったり、香油で手入れしてやってもついぞそんな気なんて起きない。


 きっと、そういうものなのよね。

 私以外の眷属が性欲の一欠片もないのと同じようなものね…………ってどうして私、神殿でこんなこと考えてんのかしら。


 昨夜の余韻がまだ身体から消えないせいだ、とミラルディは思う。


「紫の神殿の香の匂いが貴女の身体に染み付いてますね」


 ウィッツフォンが珍しくミラルディに話しかける。硬質な金属のように鋭い透明感のある声だった。


「ええ、昨夜ある神官と神について問答していましたの。徹夜してしまいましたわ」

「そうですか」


 いけしゃあしゃあと答えながらミラルディはウィッツフォンはとっくに自分の行動に気が付いているのだろうと思う。


 ウィッツフォンは自分のことを哀れんでいる。

 神霊ユシャワテインを身体に降ろし、失敗した少女。一歩間違えれば立場は逆で、この少女は私自身だったかもしれない。

 そう、ウィッツフォンは思っているのだろう。

 だから、眷属の中でも私だけに丁寧な敬語を使うのだ。


 でも、それは私も同じ。

 私の方こそ、ウィッツフォンを哀れんでいる。

 一歩間違えれば私こそ、この神殿の囚われ人として眷属よりも更に長い時を過ごす器となっていただろうから。


 器と眷属。

 私たち二人の関係は異様だ。

 お互いを憐れみ合うことでしか納得出来ない、不健全で、歪な関係。



 * * * * *



 闇の中、アランがミラルディの耳のそばの髪をすくように撫でた。

 アランの指の感触と体温をミラルディは心地良く感じ、溜息を漏らす。

 アランは自分の好みをすぐに覚えた。

 それは当然かもしれなかった。

 トギであるアランはワノトギのヨシュアの身体に入ったとて、自らが感覚を感じることはない。

 彼の楽しみは自分の反応を見ることだけだ。

 それがミラルディには分かっていたから、ミラルディは常に大袈裟に振る舞った。


「ねえ」


 アランの首に腕を絡ませ、ミラルディは甘えた声を出した。


「この前のように」


 アランが急に動きを止めた。


 ややあってから、アランは身体を離した。


「すみません」


 突然、宙ぶらりんになったミラルディは呆気にとられた。


「何、どうしたの……続きは?」

「今日はもう。ヨシュアの身体に障りますから」


 無感情な声で答えるアランに、ミラルディは当然ながら気持ちが収まらず、ねだるつもりで隣に横たわった彼の上に乗った。


 アランはもう去った後だった。

 深い眠りに落ち込んで、規則的に息を吸って吐くヨシュアがそこにはいた。


 ミラルディは呆然とした。

 どうしたのだろう。

 今までこんなこと無かった。

 ワノトギであるヨシュアがトギであるアランを憑かせるのは負担がかかる。

 ヨシュアの負担の限度を考えて、自分は決して節度を超してないつもりだ。

 なぜ。


 閃いた考えにミラルディは目を見開いた。


 まさか。


 それが真実なら、と思うとミラルディは足元からぞわぞわと這い上ってくるような焦燥感に襲われた。

 その夜は眠れそうになかった。



 * * * * *



 夜明け間近、身動きして微かに目を開いた隣のヨシュアに、待ち構えていたミラルディは逃すまいと彼の両耳をつかんだ。


「ちょっと。起きなさい」


 ヨシュアは眠そうなまなこをこじ開けて、隙間からミラルディを見る。


「……お早うございます。帰らなくていいのですか?」

「答えて」


 ヨシュアの耳を力を込めて引っ張ると、ヨシュアは眉を顰めて、薄暗い中ミラルディの顔をはっきりと見返した。


「三日前の夜は貴方だったの?」


 問いかけた質問にヨシュアは微笑みで返した。

 その意味にミラルディは卒倒しそうなほど腸が煮えくり返った。


「信じられない……なんて男……! もう二度とやらないで!」

「あれが初めてだったとお思いですか?」


 ヨシュアの返事にミラルディは息をのむ。


「貴女が私のことをアランだとすっかり思い込んでいるものですから言い出せなかったことが度々ありまして。でも、貴女は満足されていたから黙っていれば問題は無いかと」

「……うそよ」

「私もアランもお互いのフリは得意なんです。ずっとやってきたことですのでね。まあ、アランはあなたを騙していると気が乗らないようでしたが」


 ヨシュアは漆黒の美しい目でミラルディを見つめる。


「ちなみに私とアランは、一般的なトギとワノトギの関係をはるかに超えることを貴女はご存じだと思いますが……実はアランが私の中にいるときも、私には貴女が見えるのですよ」


 ミラルディは言葉を失う。


「見えるだけ、ですが。最初から、アランの前の貴女を私も見てきました。……私の前では決して見せてくれない、いろんな貴女を」

「……っ!!」


 怒りと羞恥心のあまり真っ赤になって、彼の顔面にめがけて振り下したミラルディの拳をヨシュアはつかんで強く握りしめる。


「痛い」


 骨が軋むかと思うほどの強さに悲鳴をあげたミラルディをヨシュアは身体を反転させ、自らの身体の下へと押さえ込んだ。


「……何故、私では駄目なんです?」


 脳髄が痺れそうなほどの低くて甘い声。


 わかってるくせに。


 ミラルディは自分の顔のすぐ上で笑みを浮かべている男の顔を睨みつける。


 自分がどうしようもなく溺れるのが分かっているからよ。

 五十も年の違うこの男に。この私が。


 押し黙るミラルディにヨシュアは目を細めて囁いた。


「貴女は、いつも泣いてますね」


 ミラルディはその脈絡も突拍子もない言葉に思わずあっけにとられた。


「は? 何?」

「アランは貴女を慰めようといつも必死ですよ……アランは貴女に首ったけのようですから」


 アランやヨシュアの前で泣いたことなんて一度もない。それ以前にこの神殿に来て眷属になってから自分は滅多に泣いたことはないのだ。


「あなたには同情します」

「だから何の話よ?」

「可哀想な少女の話ですよ。あなたは十歳でここに連れてこられた」


 見下ろすヨシュアの表情にミラルディは胸が鷲づかみにされたような感じがした。


「あなたは両親の言葉は正しくて絶対としか思えない年齢でした。神霊や眷属の意味さえあやふやだった。まだ、恋さえ知らなかったでしょう」

「そんな目で私を見るのはやめて」


 哀れみ。

 ヨシュアがミラルディを見る目はウィッツフォンの目と同じだった。


 自分が哀れなことはとっくに承知している。哀れな眷属たちの中でもこの自分は特に哀れな存在だということなんて。


「貴女が怒りを覚えるのはもっともです。何もわからない……年端もいかない少女を眷属にさせた何かに」


 彼の黒光りする目の奥にミラルディは吸い込まれそうになる。


「……貴女が憎む相手と私が厭う相手は同じだ。違いますか」


  彼の声はどうしてこんなに心地良いのか。

 この声を聞くためなら何でもしてしまいたくなるほどに。


「貴方は……私に何を望んでいるの……」

「何も」


 ヨシュアの笑みは壮絶なほどに美しかった。


「私は何も望んでいません。……貴女が望むままに」


 この男は恐ろしい。

 きっと、この男の言いなりに、私はなんだってやるだろう。

 真の神殿では保っていた眷属の自分。

 それすらも保てなくなるほど私はバランスを崩すかもしれない。


 この男の手を取ってしまえば、私は二度と戻れない。

 何処までも際限なく。 この男について行く――――




「……ねえ、離してよ。届かないじゃない」


 ミラルディは媚びを含んだ声で訴えると、ヨシュアの顔から身体の下へ、ゆっくりとなぞるように視線を這わせた。

 その視線を戻し、再びヨシュアと目を合わせ艶然と微笑む。

 ヨシュアは少し目を見張ったあと、若干にやけた表情であっさりとミラルディの手首を解放した。

 ミラルディは上目遣いでそろそろと彼の身体に触れながら下方へと身を滑らせた――



「――――っっっ!!」


 声にならない声をあげて自分の身体の上から離れたヨシュアから、ミラルディは飛びさすった。


「次は折り曲げるわ。いいわね、二度とこんなことしないで!」


 寝台に突っ伏するヨシュアの背中にミラルディは鋭く叫ぶ。


「そんな話で私を懐柔出来るとでも思った? 三十年前なら少しはよろめいたかもしれないけどね、私はもう今年で七十五歳のおばあさんなのよ! もうそんなことどうでもよくなっていい加減悟りに入っちゃってる域なのよ、ばーか! ばかばーかばーかばーかばーかばーかば」

「……ヨシュアは逃げました」


 ゆっくりとヨシュアが顔だけを動かし、ミラルディの方を向いた。

 その瞳はさっきとは違い、非常に澄んでいる。


「あいつはいつも我慢できない痛みの時は逃げるんです……私と交代して」

「……アラン」


 ミラルディは一気に気まずい空気に放り込まれた。

 いまだかつて感じたことのなかった「うしろめたさ」という感情に戸惑う。


「わ、悪かったわ、アラン。その、気がつかなくて」

「あいつを選ぶのかと思いましたよ」


 アランの声の調子に非難めいたものが混じる。


「私よりあいつの方が貴女は良いみたいですから」


 ……拗ねている。


 勘弁してよ、面倒くさい、とミラルディは目眩がした。


「しょうがないでしょう! 貴方だと思ってたんだもの。貴方の声が聞こえるのなら分かったんでしょうけど、貴方の霊力が低すぎて私には聞こえない。分からないわよ」

「あいつと俺は全然違うのに」


 不貞腐れたように目をそらし、暗い声でアランは続ける。


「あいつと違って……私はいつも一生懸命です」

「……」


 笑っちゃいけない、とミラルディは必死に唇を噛んでこらえた。


「でも、貴女はあいつの方が」


 ああ、もう、どうしてこの二人はこうも違うのかしら。

 正反対もいいとこよ。足して二で割りなさいよ。


 ミラルディはため息をついて手をのべた。


「……アラン、来て」


 こっちを見るアランに微笑み、再び促す。


「早く、こっちに」


 それでも来ないアランにミラルディは焦れて近づくと、彼の頭を引き寄せ、きゅう、と胸に抱いた。彼の漆黒の髪の中に手を入れ、撫で回す。

 アランはこれが一番好きなことを知っていた。

 いつもこうするたび、ミラルディは自分が大きな息子を産んだような気がした。いや、眷属じゃなかったら、自分には今頃、こんな孫がいたのかもしれない。


「もう二度とあいつと寝ないでください」

「……はい」


 あら、いやだわ、どうして私はこの子に敬語なんか使ってるのかしら。


 答えてから気付き、ミラルディは笑いそうになりながらもアランを抱く腕に力を込めた。

 この状況もヨシュアが見ていると思うと、腹ただしくて仕方ない。


 背中を撫でていたミラルディはふと思いつき、にんまりと笑みを浮かべた。

 その手をアランの衣の下に滑りこませる。


 あれだけじゃまだ、全然足りないわよね。


 アランの感覚がないのをいい事に、ミラルディは彼の尻に爪を思いっきり突き立てた。


私を騙したこと。絶対に後悔させてやる。私は決してあいつの思い通りにはならないわ。


 死霊に憑かれた人間のミミズ腫れよろしく、そのまま背中まで一気にミラルディは引き上げたのだった。






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