第2話 彷徨へる悪霊〜コトトキ ライズリの回想録〜
あれは十五年前の秋、
私はマスカダイン島の北にあるオレア島に滞在してゐた。
私が神官への夢を諦めてコトトキとしての道を歩み出してから、はや一年が
私は、人の三倍は勉学に励んだが、神官になるには今ひとつ
また、持つて生まれた
己の力量を把握しながら、夢を諦めきれずにロウレンテイア神殿の神官登用試験を受け続けた結果は七回もの落選であつた。いづれも一次にさえかすりもせずに。
そんな私のやうな神官への道に夢破れた多くのなれの果ては「コトトキ」であつた。
民に神霊の大いなる力と恵みを語り、祭時には司を引き受け、時には人々の
それは間違ひであつたと思ひ知らされたのは、若さゆゑの奢りと冒険心から、故郷以外の地へ赴いたときである。
現実を知つた私は、逃げるやうにその地を去り、素朴なオレア島へと来たのであつた。
島の人間とも
一人の
その
島に訪れた乞食そのものの
なぜなら、私のなけなしの感応力で
トギを
「コトトキのライズリ樣。貴方は
およそワノトギとは思へない
***
あまりにも酷い有り体に、私は
真つ黒な垢を落とすと、意外にも白くきめ細やかな肌が現れ、
女――アガニは
アガニの本来の姿を目にした私は、激しく
つまるところ、アガニはそれほどまでに
出自やこちらに来た理由などを問ふとアガニは、
「 私はダフヲデイル
と答ゑた。
だういふ意味か分からない、詳しく話してほしいと私が請ふとアガニは語りだした。
ダフヲデイルの
三年前、アガニはある悪霊を滅するのに失敗し、悪霊を逃した。その際、悪霊は彼女が宿してゐた胎内の赤子の生命を
その悪霊は滅する途中で逃げた為、通常の悪霊と異なり、人に憑かうとせず「
その後すぐ、アガニは抜け殻となつた赤子を死産した。
直ちに悪霊の後を追いたかつたのはやまやまだつたが、ときに
「それは気の毒に」
私は心からさう述べた。
そして自らの
実は私の母も、アガニと同じ「ワノトギ」であつた。私の母も
それ故、母は私が八つの時に
「貴方のお母樣は幸せだつたのね」
アガニは私の顔をよくよく見て、さう告げた。
それは、だういふ意味であつたのか。
ワノトギが
神霊の欠片を体内に取り込み、寿命が五十年近く延びるワノトギは、愛するものと時間の流れが異なる。また、畏怖の
そのやうな存在でありながら私といふ子まで成した母のことを幸せな女であつた、とアガニは云つていたのだらうか。
子供と共に逃げた悪霊の行方を追うため、アガニはヒヤシンス地方にゐる透視
ヒヤシンス。
さう呟いた私の顔を見て、
「
とアガニは聞いた。
ええ、少しだけ。
さう答えた私の顔を見て、アガニは片眉と口の片端を上げる
南部ヒヤシンス地方の人間がロウレンテイアの人間を厭う
私はすぐに顔に出る性質であつた。
アガニは私の
そして私はアガニの求める
***
実は私はオレア島へ来たときに、ある
今まで感じてきたワノトギが宿すトギとも自然精霊のナトギとも違ふ存在である。
それは
離島には離島の変わつたナトギが存在するのかもしれない。さういふ楽天的な考へで私はその存在を無視してゐたのだ。
「その存在を感じる場所へ私を連れて行つてください」
アガニに乞はれ、私はアガニと連れ立つて直ちにその場所へと赴いた。
オレア島の岬には島民たちが建てた素朴な神殿があつた。石を組み立てた神殿のその奥の山道を登つていくと、小さな
私はその場所に変わつた存在を感じていたのだ。
島民の主な信仰
人口が少ないせいか、この島では
私はその生活こそが本来の人の生き方ではないかと思ひ始めていた。
祠への道すがら私がさう語ると、アガニはまた片眉と口の片端をあげて私に
アガニの
あのときの
「子供を感じます」
「分かるのですか」
母親ですから、とアガニは答えた。
祠が目に見えて来たとき、私自身も悪霊の気を強く感じた。悪霊は私たちの存在に気付き、明らかに反応してゐた。
『コナイデ、コナイデ、ココニイサセテ』
私は初めて聞いたその「声」に
私は
『コナイデ、コノコトイサセテ、コナイデ』
祠の後ろから
悪霊は黒色、死霊は白色をしてゐるものだが、その彷徨へる悪霊は不思議な色をしてゐた。淡い灰色でありながら
その悪霊はゆらゆらと儚げに搖らめくだけで私には無害に感じた。
『コノコトイサセテ、コノコトイサセテ』
「私の子を返して、ホナミ」
アガニは
「それは私の子よ。あなたの子ぢぁない。……私が貴女を取り込んだとき、あなたを感じたわ。あなた、残した子供が心配でせうがなかつた。子供が愛しくてたまらなかつた。だから私の子を取り込んでしまつた」
アガニの身体の周りが柔らかな紫色に変化し始めた。私はそれが彼女がトギに身体を明け渡さうとしてゐるのだと理解した。
「あなたを許しはしないけど、あなたの気持ちは分かるわ。同じ母親だもの。あなたも私の気持ちを分かつてくれる筈よ。だから、返して。……あなたの子は元気よ。あの年、あなたを含め、多くの皆が
彼女――アガニが代はつたのを私は感じた。
トギが彼女自身に乗り移つたのだ。
彼女を中心にして風が舞い起こり、私は舞い上がつた埃に思わず目を閉ぢた。
彼女は搖らめく灰色の
『ふう、手間をかけさせおつて。はた迷惑な
アガニ、いやトギはさう云ふなり、地面に膝をついた。私はあわてて彼女を支えた。
彼女は私の腕の中で苦しさうに私を見上げた。
『……アガニはこれから此の悪霊を滅するにあたり、数日、苦痛に
トギの言葉に私は頷くしかなかつた。
『かわいさうなアガニよ。
トギの顔が突然輝いた。
『子供の霊はあの頃のまま、元気で居るではないか! なんと! なんと! ……これは
自分の身体を抱くやうにしてはしやいだ声を上げ、笑みを浮かべたトギは、見下ろしてゐた私の顔をはたと見上げた。
『……なんと、お前か』
途端に不快さうにトギは眉をひそめた。
そこまでが限界だつたのだらう。
次の瞬間、ガクリと脱力して私に身体を預けた。
***
それから三日、アガニは
私は、額に汗を滲ませ歯を食ひしばつて苦痛に耐えるアガニの手を握り、声をかけ汗を拭き水を飲ませてやつた。
そんなことしか出来ぬ自分をもどかしく感じた。
それが三日目の晩、アガニはそれまでの痛みが嘘のやうにケロリと
この苦痛は
驚く私の前で、アガニは用意した食事をさも
食後の茶を飲みながら窓から見える月をアガニは眺めてゐたが、やがて口を開いた。
「ライズリ様。今夜は月齢が良ひ。子を成すのに
それは残念です、次の月までに貴女がご
「私の主人はとふに
それはお気の毒に。では、懇意にしてをられる男性のもとへ一日も早く戻られるやうお祈り申し上げます。
さう告げた私にアガニはますます
「ライズリ様。貴方にその相手をつとめていただきたいと申し上げてゐるのです」
それを聞いた私の
わア、わア、私はア、
そのあまりにも大きく美しい黒目がちの目は、若かつた私の意志を溶かすのに
――その夜は、私の人生において
「貴方はとても
私の下で柔らかなアガニは何度も私にさう囁いた。
「貴方が
男女の
しかし私は彼女の腕に抱かれ乳房に顔を埋めながらその言葉を聞き、此世のものとは思へぬ甘さと温かな
その後、
翌日、アガニは再び
その様子に私は、昨夜のアガニはトギだつたのではないかと疑つた。
トギがワノトギの
トギなら何ゆゑそのやうな行動に出たのだらうかといふ疑問は残るが。
アガニはそれからその夜のことが無かつたかのやうに私と
私は信じたかつたのである。あれが、アガニ自身であつたと。
――それから本土に戻り、各地を
再びオレア島に来た私はここで
緩やかな島の時間が流れ、回想録を記してからさらに数年が経とふとしてゐたときである。
青年はワノトギであつた。
***
「コトトキ、ライズリ様。いつぞやは、私の母アガニがお世話になつたと聞いております」
顔を伏せてさう云ふ、青年の片眉と口の片端が上がつてゐるのを見て私は
この青年は、全てを知つてゐるのだと。
凍りついたやうに門口で立ち尽くす私に、ある「声」が頭の中へと
『おい、ヨシユア。
その声に反応した私に、目の前の青年は目を見開いた。
「なんと、ライズリ様。私のトギの声が聞こえるのですか」
『そりや、話が早い。
ついでトギの愉快さうに笑う声も聞こえた。
青年は語り出した。
自分は生まれた時から霊――自分の兄――に憑かれた
私は、そのときに十数年前のアガニのトギの思惑をやうやく理解したのだつた。
この
「母は
『
「
『お袋自身の希望だつたんだヨ。気に入つた男の子供が欲しいといふ、ナ。なのに、後になつて恥づかしくなつてトギに乗つ取られたふりをしたんだつてヨ』
アガニの息子たちの言葉に、私は後ろめたいあの夜の思ひ出がたちまち甘やかに
「積もる話があります。立ち話もなんですので」
『さうさう。長旅で疲れてんだヨ、
二人に急かされて、私はゆつくりと頷くしかなかつた。
――この人を
そののち彼は、優れた人心
ただ頷いて、彼を家の中に招き入れるのが私には
戸を閉めるときにふと見上げた
あの夜と同じ月齢の月が白く昇つていた。
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