88.マンション(上)
「ここのマンションはね。他とは全く違うの。」
そう言って明美は笑った。
彼女の住むマンションは、見た目はお化けが出てきそうだ。
住民の質が悪いのか、ごみがそこら中に散乱している。
そんな環境の場所でも、彼女はもう3年近く住んでいた。
何でここがいいの。
そう聞いた時に彼女は、最初のセリフを言った。
「住めば分かるわ。」
それ以上は言わなかったが、私は興味をひかれた。
だから連休の時に、彼女の家に泊まる事に決めた。
「ようこそ。」
「お邪魔します。」
部屋に入ると私は隅々まで見回す。
こんなマンションに住んでいるからどんだけ汚いかと不安に思っていたが、予想よりもきれいだった。
持っていた荷物を床に置き、軽くくつろぐ。
その隣に座ってきた明美は、テレビをつけた。
「今日はちょうど、このマンションが違うって事が分かる日だから。タイミングが良かったね。」
「そう。」
テレビに顔を向けながら、何てことないように言う。
私は少し緊張したが、軽く返事した。
それから特にこれといって何もなく、時間は過ぎる。
明美の手料理に舌鼓を打ち、お風呂もいただいて至れり尽くせりだった。
後はもう寝るだけ、そんな状態の時に突然電気が消える。
「え?何?」
「しー。」
驚いて大きな声を出すと、明美に口をふさがれ静かにするように言われた。
何が何だか分からなかったが、素直にそれに従う。
「そうそう、良い子。そのまましばらくは何があっても、静かにしておいてね。」
声を出す代わりに頷いて、了承を示した。
それから何分経ったのだろうか。
全く何も起こらず、私は同じ体制でいるのに疲れ始めていた。
今、私はいったい何をしているのか。
疑問に思い、明美に抗議をしようとする。
その時、カチャリと玄関の扉が開く音がした。
驚きで声が出そうになったが、それを察してか明美にまた口をふさがれる。
その間にも、玄関から何かが入ってきてこちらに近づいている。
ズル
ズル
ズル
歩いているはずなのに、引きずっているような音。
何が入って来たのか。
私は自然と息をひそめていた。
それはどんどん私たちのいる部屋に向かってくる。
近づくにつれて異臭が鼻につく。
ズル
ズル
ズル
とうとう私達のいる部屋に入ってきた。
暗闇に目は慣れてきているが、何なのかよく分からない。
人の形を模していない。
それなのに大きい。
私よりもずっとずっと大きい。
ズルズルと音を立てて、動き回ってすぐ近くまで寄ってくる。
気持ち悪さに声が何度も出てきそうになるが、その度に明美が手でおさえた。
そしてどのぐらいの時間が経ったのだろう。
数分とも、数時間とも思えた。
それは来た時と同じようにゆっくりと去っていった。
ガチャリ、扉が閉まる音。
ようやく口から手がはなされる。
私は大きく深呼吸をした。
明美は何も言わず立ち上がり、そして電気をつける。
急に明るくなった部屋に目を細めた。
部屋の中を見渡す。
何かが来た痕跡は全くない。
それは無いが、電気を消す前よりも物が増えた気がする。
「どういう事か、説明してくれるよね。」
私は明美と目を合わせて、はっきりと言う。
「まあ、そうなるわよね。」
彼女は苦笑して、コーヒーでも入れようかとキッチンへと行った。
「他とは全く違うって言ったでしょ。ここね、家賃は無いの。」
「嘘でしょ。」
「いいえ。ここはあれが出るのもそうだし、他にも色々おかしなことが起こるから。随分前からそうらしいわ。」
明美に入れてもらったコーヒーを飲みながら、私達は向かい合って話す。
しかし信じられなくて、合間合間に突っ込んでしまう。
「本当よ。ここはね、置いたものは夜になると無くなっているし、ベランダから落としたものは戻ってくるわ。今日の朝、あなたが来るから色々落としておいたの。だからそれが今は戻っているのよ。」
「そう、なの。」
3年近く住んでいるからか、何てことないように明美は言う。
しかしこの状況は明らかにおかしいだろう。
私は状況が理解できなくて、戸惑ってしまう。
「今の奴は毎晩来るけど、息をひそめていれば何ともならない。それに家賃が浮くのは、貧乏な身にとってはとてもありがたいわ。」
「あれ、毎晩来るの?怖いでしょ。それにあれは何なの?」
あのズルズルと何なのか分からないあれが、毎晩来るなんて私だったら気が狂ってしまう。
彼女の口ぶりからきて、最近の話じゃないのだろう。
明美は少し首を傾げながら、コーヒーを一口飲んだ。
「んー。慣れるわよ。3年も住んでいたらね。」
「あと、あれは大家さんよ。」
「はあ?あれが大家さん?」
私は驚きから声が裏返ってしまう。
しかし、目の前の明美は普段通りだ。
それが逆に恐ろしい。
「そう。少し前まで住んでいた人はそう言っていたわ。そしてその人は運悪く見つかってしまったの。だから今はいない。どうなったのかも分からない。ここに住んでいる人達はね、みんなリスクはあるけれど家賃がタダっていうのにひかれているの。」
そんなにも家賃がタダなのは魅力的なのか。
私には気持ちが分からなかった。
「そう、私は無理みたい。今日帰るね。」
「えーっとそれは駄目かな。」
「何で?」
荷物をまとめてさっさと帰ろうとしたら、明美がなぜか止めてきた。
私は出鼻をくじかれて、嫌な顔をしてしまう。
こんな場所にはいたくない。
早く帰りたい。
そう思っているのに、どうしてなのか。
「あなた気に入られたみたいだから。」
明美は私の脇の方を指した。
示す先を見ると、持ってきていた荷物がある。
「何言って……これ……。」
何を言っているのか確認するため、私はしゃがむ。
そしてすぐに気が付く。
そこには見覚えの無い紙が、1枚のっていた。
私は恐る恐る手に取り、中身を見る。
『入居届』
一番上の行には、それだけ書かれていた。
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