89.マンション(下)





 それから私は、マンションの住人になる事を余儀なくされた。


 他の部屋ではなく、明美と同居という形だ。

 外出は出来るが、大家が来る時間は部屋にいなくてはならない。

 毎晩、緊張しながら部屋で待っていると、どんどん精神が疲弊していく。



 最近では夜にあまり眠れなくなってしまった。

 こんな生活が、これから先ずっと続くのか。


 私はおかしくなりそうだった。

 元凶である明美はそんな私を、何の感情もなく放置している。





「じゃあ私、今日は帰らないから。」


 そんなある日、明美は朝食の席でそう言った。


「は。何で?」


 私は食べていたご飯をポロリと落としてしまう。

 彼女も夜に出られないはず。

 それなのにどういう事だろうか。


 私のそんな疑問に、明美は涼しい顔でご飯を食べ進める。


「あれ?言っていなかったっけ。あらかじめ許可を取っていれば、夜にいなくてもいいのよ。ただし一人暮らしじゃ無理だったけどね。」


 とぼけているが絶対にわざとだ。

 私は彼女をにらむが、目を合わせようとしない。


「そういうわけだから。今日は頑張ってね。じゃあ行くわ。」


 言いたい事だけを言うと、明美は席を立ちそのまま家を出て行った。

 残された私は、唖然としながらも彼女に対する怒りを感じていた。





 そして初めて一人で夜を迎える。

 電気もすでに消していた。


 後はいつ来てもいいように、私は押し入れの中で息をひそめる。



 数分後、扉が開く音が聞こえた。


 ズルズルズル


 聞き慣れた音と共に、異臭が匂ってくる。

 私は用意しておいたハンカチで鼻を押さえた。



 今日一日、明美がいない間ずっと考えていた事をやろうと思っている。

 危険な賭けではあるが、このままずっと同じ状況よりはましになるはずだ。



 タイミングが大事。

 少しでも間違えたらいけない。


 大家の動く気配を集中して感じながら、私はいつでも行けるように気持ちを整えていた。




 そしてついにその瞬間が来た。



 ズルズル


 ズルズル


 大家がベランダに出た。

 私は出来る限り音を立てずに、押し入れからベランダへと向かうと、ゴム手袋をつけた両手を勢いよく前に出す。



 ドンッ



 重くぬめりとした感触。

 そしてそれは私の思い通りに、ベランダから真っ逆さまに落ちていった。


 しばらくの間の後、鈍い音が下の方で響いた。



 私はベランダから身を乗り出して、下を見る。

 暗くて少し見づらいが、確認は出来た。



 確認を終えると私は部屋の中に戻り、急いで中の荷物をまとめ、そして玄関へと向かう。

 扉を開け部屋から出る際一度だけ振り返ると、結局何も言わずに立ち去った。





 その後、私はマンションの近くに行っていない。

 明美とも連絡を取っていない。


 大家からの音沙汰は無いので、明美の部屋で見つけておいた『退去届』を、ベランダから落とす時にねじ込んでおいたのは正解だったのだろう。



 明美はどうなったのだろうか。


 ベランダから落としたものは、戻ってくる。



 どんな形かは分からないが、部屋に戻ってきたはずだ。

 何も知らずに帰ってきた彼女が、それに対応できたのか。





 連絡が全く無いので、確かめるすべはない。

 しかし、ざまあみろと思ってしまう私がどこかにいた。




 今もマンションは、まだあの場所にある。





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