72.耐える




 私は耐える。

 それが最善の方法だから。


「さっさとしろよ!クズが‼こんな事も出来ないのかよ!!」


 結婚した時とは全く変わってしまった夫を、支え傍に寄り添うのが私の役目。

 間違ってはいけない。


 ただ耐えるのみ。



 随分昔に歯向かってしまった事がある。

 その時は、後が大変だった。


 病院や親への説明。

 近所の目を隠れての生活。

 しばらくの間、少しだけ優しくなった夫は、すぐに元に戻る。



 それから何も期待しなくなったし、自分から何かを行動する気もなくなった。

 そうすれば平和といえば平和だ。



「申し訳ございません。ただいまご用意致します。」


「ちっ。」


 丁寧な言葉遣いで、丁寧に対応すれば舌打ちをもらうだけで終わる。

 私は難癖をつけられないように、そつのない動作に気をつけてその場から離れた。



 あんなのでも、昔は良い人だった。

 優しくて格好良くて、みんなが羨ましがっていた。


 それなのに、どうしてこんな事に。

 後悔したところで、今の状況が変わるわけではない。



 だから私は今日も、夫の望む人形に成り果てる。





 それがどうやら変えられようとしているようだ。


「あなたは騙されているんです。我慢に慣れちゃ駄目です。」


 久しぶりに来たカウンセリングで、私はカウンセラーの男性に両手を握りしめられていた。

 この人は何をしたいんだろう?

 握りしめられた手を他人事のように見つめながら、内心で首を傾げてしまう。



 ここに来たのは、たまたまだった。

 夫の急な出張で暇になってしまい、そういえばしばらく来ていなかったと思い出し、気が付けば予約を入れていた。



 そして今に至る。

 さて、どうしようか。


 この状況になるとは思っていなかったので、私は困ってしまう。

 目の前の彼は若く、人生の中で困った事が無いような雰囲気を感じる。



 きっと正義感が強いのだろう。


「えっと、でも悪いわよ。」


「いやいや。あなたの様な女性を助けられるのならば、僕は本望です!だから助けさせてください!」


 私は微笑んで遠慮したのだが、彼は諦めてくれない。

 結局はっきりと断れないまま、その日は病院をあとにした。





 それが悪かったのか。


「助けるって言ったでしょ?」


「あ、ああ。ああ。」


 私の目の前で夫が倒れている。

 その背中を踏みつけながら、彼は笑う。


 突然だった。

 出張から帰ってきた夫を労わっていたら、チャイムの音が響いた。


 慌てて見に行ったインターホンのモニターには宅配業者らしき姿が映っていて、何か頼んだかと疑問に思いながら玄関を開けたら、勢いよく開かれた扉から私の脇をすり抜けた人影。

 止める暇なく、その影は奥へと言ってしまい、その背中を追いかけたらすでに終わっていた。


 ピクリとも動かない夫は、もう死んでいる。


 私はそれを見て、力が抜けてしまう。



「あなたの為に。全てはあなたの為に。だから、俺とここから逃げましょう?」


 自然とうつむいていたら、視界に彼の手が差し伸べられた。

 顔を上げると、彼は微笑んでいて。



「さあ、手を取って。」



 私はその手と顔を交互に見て、勢いよく彼の胸の中に飛び込んだ。


















 そして隠し持っていた包丁で、彼のお腹を思いきり刺した。


「が!?」


 彼は予想外だったのか、驚いた声を出してその場に崩れ落ちる。


「な、何で?」


 私の服の裾を掴みながら死にそうなのに、いまだに理解できていないようだ。

 だから優しい私は、メイドの土産に丁寧に説明をしてあげる。



「私、この生活気に入ってたのよ。DVの夫を献身的に支える妻。でも裏で操っているのは私。もうしばらく楽しもうとしていたのに。耐えて耐えて耐えて。面白く終わらせてやろうとね。」



 彼の頭を撫でて、その体を夫の隣りに並べる。

 段々と、裾を引っ張られる力が弱くなっていく。


「あなたは本当に、余計なお世話をしてくれたわ。まあでも良いわ。これはこれで楽しめそうだし。……て、もう聞いていないか。」


 彼の目から光が失われたのを確認すると、私は辺りを見回してこれからやるべき行動を頭の中でまとめる。




 全ては私の為。

 可哀想な私が一番好き。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る