71.催眠術




 私の知り合いで、少し変わった人がいる。

 本当かどうかは分からないが、催眠術が使えるらしいのだ。


 どうせ嘘だろう。

 そう思っているけど、試してみたいという気持ちはある。



 だからその日、私はその人の元に訪れた。

 休みなのに時間を持て余していた時に、彼の存在を思い出したのだった。


「やあ、こんにちは。」


「突然ごめんなさい。電話で話した通りなんだけど、催眠術をかけて欲しいの。」


 案内された部屋は、別にこれといって変な所が無かった。

 最初は緊張していた私も、段々とリラックスする。


 目の前に座った男の本当の名を私は知らない。

 人によって呼び方が変わり、私は一郎さんと呼んでいる。


「本当に良いのかい?かけた後の事は保証できないよ?」


「えっと軽めのものでお願い。」


 何かあると怖いので、一応支障が出ない範囲のものをかけてもらう。

 一郎さんもそれに了承してくれて、私の隣りに座った。


「じゃあかけるよ。目をつぶって力を抜いて。」


「はい。」


 目を閉じると両肩に手を置かれる感覚がする。

 少し驚いたが。されるがまま体を預けた。





「はい。出来たよ。」


「……え。もう、ですか?」


 何かされたという感覚もなく、終了と言われ私は戸惑ってしまう。

 しかし目を開けた先の一郎さんは真剣な目をしていて、文句も何も言えなかった。


 そしてふらふらと歩き、気が付いたら家にいた。


 何も考えられず、しかし体が勝手にいつもの行動をして次の日を迎える。




 それから何日かが過ぎたが、変わったと思える事は無い。

 本当に催眠術をかけられたのだろうか。


 いつも通りの日々を送りながら、私は疑問に感じる。



 あの日、何かを特別な事をされたわけでもなく、全く何も覚えていない。

 気づいたら終わっていて、そこそこの料金を支払っていた。


 騙されたのではないか。


 そう考えるのが自然で、どんどん怒りが沸き上がってくる。



 そして、私は一郎さんの家に来ていた。





 チャイムを何度も鳴らしていれば、苦笑しながら扉は開く。


「やあ、そろそろ来るかなって思っていたところだったんだ。」


「それは、自分のやった事を認めたんですか?」


 私が何を言いに来たのか分かっている様子なのに、彼の様子は普通だ。



「本当に、私に催眠術をかけたんですか?」



 その顔を変えてやりたいと、すぐに本題に入る。

 しかしそれも分かっていたのか、ただただ一郎さんは笑った。



「そうだよ。ちゃんと僕は君に催眠術をかけた。そして今もかかっている。」


「そんなわけないじゃないですか。」



 あくまで認めないつもりなのか。

 ひょうひょうしている態度に、怒りのボルテージが上がっていく。



「だから君はここに来たんじゃないか。」


「はあ?」



 そしてその言葉に私はついにキレてしまった。

 彼の胸倉を掴み、揺さぶる。



「何言ってんのよ!」



「じゃあ聞くけど。ここに来る前まで君は何をしていたの?仕事は?家族は?思い出せないでしょ。」



 どんな事があっても許さない。

 そう思っていたのに、私の手から力が抜けた。


 一郎さんの言った通り、思い出せなかった。



 私は何をしていて、そして誰なのか。



「僕がかけたのは、『何事も全く気にしなくなって、ここに来る。』っていう感じのものかな?だから君がここに来たのも初めてじゃないよ。このやりとりだって。」



「何で、そんな事。」




「君が望んだからじゃないか。」



 私が望んだ?

 これが初めてじゃない?


 頭の中がパニックになって、処理が追い付かなくて私は座り込む。

 そうするとちょうど椅子だった。


 これもたまたまじゃないのか。



 何もかも信じられなくて、私は椅子に寄りかかる。

 そこに近づいてくる気配。



「頭がぐちゃぐちゃになっているんだろう?大丈夫だよ。それもすぐに楽になるから。」



 目元を手で覆われ、優しい声が耳から脳へと入ってくる。

 私は自然と力を抜く。



「次に目が覚めたら、元通りだ。」






 目覚ましの音で、私は起きた。

 いつもと変わらない日。


 今日は休みなのだが、何も予定が無い。



「何をしようかな。……そうだ。ずっと気になっていたあれを試してみようかしら。」



 久しぶりのすっきりとした目覚めが気持ちよくて、何でもやれる気がした。

 だから知り合いにいる変な人に、会いに行くのも良いかもしれない。


 今日の予定を頭の中で組み立てると、私は勢いよくベッドから出た。






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