2-4.デューの秘密、殊魂の在り方

 人を殺さずしかし戦意を失わせるためには、ある一定の、確実な打撃を与えることが手っ取り早い。それはカインもよく知るところだ。記憶のどこかで染みついた戦い方には確かにいくつか急所を狙える動きもあって、目の前に無言でたたずむ木製の人形ひとがたには剣で打ち付けた後がいくつもある。全部カインがつけたもので、でも壊さずに原形を保てているのはこれがはじめてだ。


 カインは手にしていた鉄の剣を置いて、額ににじんだ汗を軽く拭う。林の中、風は涼しく曇りということもあってか陽の暖かさは微塵もない。近くにあった手頃な石に腰かけ、麦酒の袋をつかんで中身がないことを思い出しため息をついた。


 転がした剣を見て、もう一度息を吐く。模擬戦や闘技会で使われる刃を潰した両剣は思った以上に軽く、下手をすると力を込めすぎてしまうのが悩みどころだ。おかげでだめにしてしまった練習台の人形がそこら中に散らばっており、これを買ってくれたノーラに申し訳なく思う。そのノーラも今はいない。稽古に付き合ってくれていたが、水を汲みにと近くの小川へ行ってしまっている。離れることに多少の不安はあったが、エペーサについても未だ刺客が来る様子は相変わらずない。


 闘技会まであと二日だ。それまでに交術を編み上げて、同時に殺さぬ程度の技術を磨くこと。それが己に課せられた当面の目標で、両立するのはなかなかに難しい。でも投げ出すつもりはないし、逆に目標がわかりやすいためか、カインに充実した日々を過ごさせていた。


「……遅いな」


 辺りを見回してつぶやく。ノーラが川へ向かって一刻は経過している。林の中は相変わらず静かで、小鳥の鳴き声くらいしか聞こえてこない。昨日、この練習場に来たときついでに川も見たが、そこまで時間がかかる距離ではなかったはずだ。たまに訪れる木こりとは会釈する程度の関係で、長話をする間柄ではない。何かあったのか、そんな焦りがカインを不安へ追い立てる。


 万が一に備え、小声で隠しの術を発動。模擬用の鉄の剣ではなくいつもの大剣を取り出して腰に結わえ、ノーラが消えた方角へ向かった。林は町から鉱山側に続いて広がっており、奥にまでいかないところに川はある。土についた、ノーラのものと思しき足跡を確認して進んでいく。時折見かけるリスやらをにも目をくれず、せせらぎが耳に入ってきた頃には藪も見えてきた。


「ここには……いないのか」


 藪を掻き分け小石と砂が混じった川の近くまで行ってみたけれど、そこに求める姿はない。ノーラが酒場から借りた木桶だけがぽつんと、取り残されたようにあって、疑問に小首を傾げながらカインは耳をそばだててみる。とりたてて剣が打ち合うような音は聞こえてこず、争いに震える大地の響きも感じられない。冷気を伴った風が吹いてくる中、上流と下流、どちらに行くかで少し悩む。腕を組んだ拍子に下を向けば、藪にまぎれる形で小さな足跡を見つけることができた。やはりこれはノーラのものだろう。下流に続いているのを確認しながら、つぶさに足跡を追ってそちらの方へ進む。


 しばらく歩いて同じような草むらを歩いていたとき、見覚えのある蛇が草の影から出てきてカインを見つめていることに気付く。ノーラの蛇だ。蛇は迷ったように体をくねらせながら、それでもそこから動こうとしない。少し悩んでから近付いてみたと同時に、川の水面が勢いよく波立った。


 飛沫を上げ、川の真ん中辺りに姿を現したのはノーラだ。潜っていたのだろう、赤紫の髪までしとどに濡れている。こぼれる水滴を弾く乳房、姿勢良く反った背中から尻までの輪郭線は絶妙の均衡がとれており、全体が引きしまっている。ところどころに戦いの痕跡、切り傷の残りが表面を彩るようにあるのだけれど、それでも体付きの美しさを損なうことはない。初めて見るノーラの裸体に頭の中が痺れ、声をかけることもできずに思わず呆けたカインの足下で、蛇はまるで悩んでいるように小さな唸りを発している。両手ですくった水を肌に押し当てるノーラが、流し目でこちらを見た。


「覗きの趣味があるの、あなた」


 言われてその意味を繰り返してから、ようやく慌ててカインは近くの幹に背中を付けた。どうしてだろう、心臓が早鐘のように脈打ち、体全体――とりわけ下腹部が重い熱を帯びている。もつれそうになる舌を必死で正し、言い訳をする子供みたいな口調でつぶやく。


「の、覗いていた、わけではない」

「そんなに時間、経ってる?」

「一刻は」


 カインは女性がするように頬へ手を当てた。熱い。覗きと間違われたのは心外だが、それでも垣間見たなめらかな素肌が脳裏から離れず、うろたえた言葉を発することしかできない。


「その、どうしたのかと思って……」

「ちょっと汗が気になってね。水浴びしたくなったの」

「冷たくないのか?」

「少しはね。でも野宿してるときはこれが普通だから、慣れよ、慣れ」

「誰かが来たらどうするんだ」

「もう来てるじゃないの、あなたが。影蛇あるから平気よ」

「そ、そうか」


 熱くなった体を冷ますように手で己をあおいでも一向に体の内からこみ上げてくる熱は止みそうになくて、カインは大きく息を吐きながら空を見た。梢が宙を覆い隠すここには、確かに他の人間の気配はない。だからノーラは元の口調で話しているのだろうし、仮に誰かがここに来ようとしても、足下でとぐろを巻く蛇が威嚇することだろう。見張りを続ける蛇を刺激しないようにそっと、カインはその場に腰を下ろした。


「稽古の方は順調?」

「ああ。初めて一体、なぎ倒さずにすんだ」

「よかった。後は交術だけね」

「いや、まだ少し力の加減がわからない。喉笛や耳の後ろを狙うときに押しつぶす癖が出ている」

「大剣使いの癖か。私の獲物は槍だし、戦い方が違うから教えられることは少ないわ。誰か大剣使いでいいのがいれば、見本になるんでしょうけど」


 ノーラの言葉に少し考え、知り合いに誰一人、大剣使いがいないことに思い至る。一体己は、いつどこで戦い方を知ったのだろう。体が覚えている記憶とノーラから教えられた格闘術で少しは人との戦い方を学べたと思うのだけれど、闘技会でどの程度使えるかは未知数だ。


「誰もが戦い方の師事を受けるのだろうか」

「そうね、独学ってことは少ないと思うわ。デューも拳闘士と一緒に旅をしていた時期があったみたい」

「デューもか……よくあの公爵が許したものだ。跡継ぎなのに」

「ああ」


 吐息のような言葉が返ってくる。少しの間。


「デューは、跡継ぎじゃないわ」

「何?」

「彼は跡継ぎから外れてる。後を継ぐのはフィージィよ」


 跳ねるように振り向いた。ノーラはたゆたうように流れに身を任せていて、水に浮いた胸や腕を見てしまい、また慌てて座り直す。そして言われたことを反芻して、どうして男で嫡子なのに、跡継ぎでないか考えてみる。傭兵だから? ハンブレが言っていたように放蕩しているらしいから? 長子ではないから、だろうか。記憶をまさぐっても答えは出てこなくて、軽く眉をひそめることしかできない。水が弾けた音が聞こえる。多分にノーラが体勢を変えたのだろう。


「デューの殊魂アシュム、知ってる?」

「緑のはずだが」

「そう。一色。歴代キュトスス家の中で唯一彼だけが、普通の――しかも基礎の殊魂」

「……それがなんだというんだ?」

「フィージィもキュトスス公爵も、その妻だった女性……これはデューとフィージィの母親ね。彼女も含めて、もちろん全員が混石を持ってる。でも、デューは違った」

「まさか、それだけのことで跡継ぎを外されたのか?」

「それだけ、じゃないのよ。血を尊ぶ天護国アステールの公爵は、キュトススでなくても混石を殊魂に持っていなくちゃあならない。だからデューは、例え養子になったってどこの公爵にもなれないの」


 平淡としたノーラの返答を聞いて、カインは己の体から急速に熱が失われていく感覚を抱いた。殊魂は、確かに両親の持つ鉱石が子に強く影響する。本で読んだからそれはわかる。でも例外だって少なくはなく、両親のどちらも強を持っていたとしても、子が弱の殊魂を産まれ持つことだってあり得るのだ。それとも産み分けでもできる術を何か持っているのだろうか、カインには見当もつかず、けれどデューが浮かべたあきらめたような笑顔を思い出し、ひっそりと嘆息した。


「直系の王族なんてもっと厳しいわよ。強を二つ持っていないものは嫡子であっても系譜から消される」

「……そこまでする理由がわからない」

「<神人しんじん>の誕生理由、覚えてる? あれがあるからね。いつの時代を背負ってるんだか、って感じよ」

「詳しいんだな、色々」

「言ったでしょう? お偉いさんが得意先にいるって。べらべら喋ってくれる奴らがいるのよ、ありがたくもないけど」


 王族のことはますます理解できそうにない。殊魂は命の根源そのものだ。それに貴賤や位があるというというのは、何か違うような気がした。とはいえ己の殊魂は、フィージィが述べたように強が二つの新種かもしれない鉱石で、殊魂の件でデューへ感傷を抱くのは彼に対していらない気遣いだろう。


「今着替えるから、少し待ってて」

「わかった」


 気の抜けた返事をして、カインは己の手のひらをなんとなく見た。殊魂なんてあまり気にせず、己は少なくとも生きている。デューだって【翠玉シュスドラ】しか持っていなくとも、二つ名を得るほどまでに活躍しているではないか。必要なのは、どう産まれたかではなくどう生きるかだろう。そこまで考えて、けれどデューには自らでどうにかできる選択肢が残されていないことに気付き、驕りにも似た考えを恥ずかしく感じた。背負うものがなくていい、デューはそう言っていたけれど、それは背負えるものがないという意味だったのだとようやく理解できる。


「お待たせ、さあ、稽古の続きをしに行きましょうか」


 思考に耽るカインを現実に呼び戻したのはノーラで、髪まで――多分、殊魂術アシェマトで乾かし、きちんと支度を終えて藪から出てきた彼女は影蛇を自らの影に戻している。なんてことのない動作は、身に染みついているのだとよくわかる動きだ。使える殊魂術も殊魂に左右される。彼女も己も、そこの点に関しては恵まれているのだなとなんとはなしに思った。


「水も汲まなくちゃあね。喉、乾いたでしょう?」

「ああ」

「さて、ベリに戻るか。ぼろが出なければいいんだけど」


 頭巾をかぶり直したノーラが喉元に手を当てた。小声で何かをつぶやいたのち、ん、と確かめるように発された声音は、すでに少年のそれに変わっている。


「ふむ、そうか」

「何か?」

「いや、そうしているとなんとなく、ハンブレに似ているなと思って」

「似てない」


 顔を上げたノーラのおもては、苦い虫を噛んだかのように歪んでいた。確かに、とカインはつい笑う。ハンブレなら、微笑んで受け流すはずだ。


  ※ ※ ※


 ただ獣脂の明かりだけが仄かな部屋の隅に男はいた。机にも床にも書類の類が束になっておかれており、驚くほど整理が行き届いているのは持ち主の性格を現しているからだろう。


「なるほど、彼は彼女のお気に入りですか」


 手にした書簡に記されている角張った文字を舐めるような目つきで見つめながら、男――イグローは唇の片方だけをつり上げた。手紙の内容は簡潔極まりなく、それでも要点だけはきちんと書かれていて忙しいイグローにとってはありがたい。


「カイン。いい拾いものをしました」


 イグローの頭はめまぐるしく知恵を働かせるため動く。エペーサの内情、キュトススから来た手紙、それらを結びつけて利害と損得をはじき出す。蝋印は公爵家のものではなくて神殿のそれだが、書いた人間が誰なのか、それがイグローとこの町にとっては重要だ。『キュトススの支柱』とささやかれる彼女が祈祷所に向けて出した書簡はしかし、今イグローの元にある。領主が自治権を持ち、同時に職人気質で曲者揃いの鍛冶屋全般はともかく、宿や組合、そして祈祷所他にまでイグローの息はかかっている。町長となるための手回しは水面下で順調に進んでおり、このまま進めば間違いなく次の選挙戦で自分が勝つ。


 『キュトススの支柱』――イル・フィージィと木訥としていたあの傭兵がどんな関係までは知らないが、ずいぶん気にかけているのは手紙から見て明らかだ。なんの本を借りたか、殊魂術は行使したか、どんな<妖種ようしゅ>と戦うのか、それらの確認を町勤務の神官に依頼していることから考えて、彼の力量を知りたいのだろう、とイグローは推測を立てた。髭を撫でつけるように触りながらも、内心からこみ上げる打算に口が緩んでしまう。


「さて、少し趣向を凝らしましょうか。彼女の期待に添えるためにもね」


 蝋燭の炎で手紙を燃やしながらうそぶくイグローの目は、我欲にまみれて異様なほどに煌めいていた。

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