2-5.ハンブレの来訪

 エペーサの町は高台の上にあり、大半の道が坂となってうねっている。その端を彩るナナカマドの実は煙と空の灰色の中にあっても赤く色づきはじめており、カインの目を奪った。実は食べられるらしく、昨夜食べた食事にも使われていたことを語るのはノーラではない。ハンブレだ。昨日の夕方、あちこちに点在する広場の一つに衆人があったものだからノーラを引きずる形で興味本位に近付いたら、中心にハンブレがいて自慢の美声を響かせていたのだ。ノーラは兎もかくやといわんばかりに逃げ出したが、彼の目をごまかす真似はできなかった。結局三人で食事をし、宿も同じくした彼は今はまだすることがないようで、カインとノーラにくっついてきていた。


「よく回る口だ」

「何か言った? ベリ」

「少しは口を閉じていられないのか」


 ノーラとハンブレの間には冬の寒さにも似た静かな冷気が張り詰めていて、でもそれを出しているのはノーラの方だ、とカインは気付く。こういうとき、どうすれば場を和ますことができるのだろう。祈祷所に借りた本を返しに行くところを共にし、その際神官たちが送ってきた値踏みするかのような奇異の視線も気になったが、今やそれどころではなくカインは内心、一人でうろたえるばかりだ。


「だって退屈じゃあないか。誰かといて何もしないなんて。ねえ、カイン?」

「……いや、そういう意味ではないと思う」


 宿を出て、それからずっとハンブレは喋りっぱなしだ。領都であった他愛のないことから、それこそ食事の内容についてハンブレの口は止まることを知らないように動き続けていて、ノーラは無言を貫くものだからカインが聞き手となっていた。神話に関して披露してくれた知識だけはありがたかったけれど、返答を気にせず語る内容に意味があるのかわからなかったし、何より彼の美貌はいやでも人目につく。砂利でできた道を歩いて大分経つが、男女問わず、奇妙に神秘的とも呼べるハンブレの顔立ちに振り返る人間は後を絶たない。ざわめかれるたび、心が落ち着きを失っていく感じがする。


「その、ハンブレは慣れているんだな、人の視線に」

「当然だよ。そうでないと琴弾きなんてやっていられないからね」

「あまり目立ちたくないのに。領都へ帰れ」

「明日の闘技会で歌を披露する仕事があるからね、それまではここにいるしかないんだよ」


 肩を震わせて小さく笑うハンブレの言葉は喜色めいており、ノーラの不機嫌が己の楽しみ、とでも言わんばかりだ。実際そうなのだろう、ノーラがため息をつく都度、逆にハンブレが輝いていくようにカインには見える。


「君の歌を作ろうかな、カイン。闘技会で良い成績を残せたらだけど」

「別に俺の歌など、聞いていて楽しいものではないだろう?」

「そこを上手く作るのが琴弾きの仕事さ。ああ、君がどういう成績でもいいや。悼歌にも献歌にもできる」

「カインをだしに使うな」

「それを君が言うの? ベリ」


 薄い氷の膜が張ったような沈黙。後ろについていたノーラが足を止めたものだから、カインも慌ててその場で止まり、すれ違う旅人とぶつかりそうになった。最初にこの町に来たときより人が多くなっているのは間違いなく、町の中にも賑わいがある。闘技会のことが領都で大々的に知らされており、そこから訪れる見物人も増えているとはハンブレの言だ。


「僕はこれから鍛冶屋に行く。カインは明日本番だから、体を休めておいた方がいい」

「わかった。宿で交術をもう一度見直してみる」

「夜にまた会おう。別にハンブレはいなくていい」


 鋼みたいな固い声音でノーラは言うと、あっという間に人混みにまぎれて消えてしまい、それからカインは気付いた。ハンブレを押しつけられたことに。ちらりと横目でハンブレを見やれば、蛇のような微笑みを浮かべている彼と目が合う。やられた、とカインは心の内だけで嘆息し、でもハンブレとの間に取り立てて探り合うことはないと思い直して空を見上げた。濃い灰色の雲と、少し白さを残している雲が混ざり合い、この様子では日光を拝めるのは当分先になりそうだ。


「少し町を見て回ろうよ。それとも、疲れてる?」

「いや、特には」

「君は素直でいいね。ベリにも見習ってほしいよ」

「素直なベリ」


 再び歩き出しながら、腕を組んで想像してみる。できそうになかった。ノーラはきっとあのままでいいのだろうし、ハンブレみたいに饒舌になっている彼女は全く別人にも思えて思わずハンブレの顔を見つめてしまう。ハンブレが浮かべる、悪戯好きの子供のような顔はどことなく、似ているとは感じるのだけれど。


「闘技場にはもう行った? 見に行こうよ」

「そういえば行ったことがなかったな」


 ここに着いてからというものの、林の中にある稽古場と宿の部屋、そして酒場くらいしか見ていなかったなとカインはうなずく。闘技場までの道のりをカインは知らなかったが、歩き始めたハンブレの足取りはしっかりとしたもので、彼に続いていけば迷うことはないだろう。


 そこだけ目印のように薄黄色の石畳になっている広場は大きく、旅の一座と思われる大道芸人たちが妙技を披露しては観衆に声を上げさせている。気晴らしができたことに微笑む女や目を輝かせている少年たち。芸人を見ながら闘技会の話題を繰り返す町人たちは盛りあがっているけれど、どこか薄ら寒い。まるで力一杯、無理をして固い膜を持った果実の汁を搾る程度には、持てる元気を体の底から引き出しているように。


「酔狂だよねえ。結構強力な<妖種ようしゅ>がいるのに行事を優先させるなんて」

「俺も、そう思う。だが町長補佐の申し出だ。意地を通せば後で何を言われるかわからない」

「町がなくなれば闘技会も開けなくなるのにね」


 過激だが道理の通る発言に、しかしカインは言い返せなかった。こうしている間にも、鶏冠竜コクトルスは成長を続けているかもしれない。ノーラが言っていたように飛べるほどまでになれば、この町は瞬く間に死人の墓標と変わるだろう。稽古に熱中していたから考えることを敢えてしなかったけれど、その危険を冒してまでも闘技会という形で力を示す必要はあったのか。でも、イグローの言う言葉にも説得力はあったし、どちらが正しいなんて、己では判断がつきそうにない。


「僕からすればありがたい限りだけど。仕事が増えたからね」

「君じゃなくても良かったのではないか?」

「使いから指名がきたんだもの。よっぽど成功させたいみたいだね、闘技会を。そういやデューにも声がかかってたっけ」

「何?」


 突然デューの名前が出て、カインはついハンブレを見た。軽い笑みを浮かべているハンブレの様子は変わることがなく、なんてこともないように小さく肩をすくめた。


「ここで優勝したでしょう、彼。だから客人として招かれたみたい」

「来るのか、デューが」

「そこまでは知らないよ。客人待遇にあまりいい顔はしてなかったけど」

「そうか……」


 デューが来て、もし参加者として闘技会に出るのなら、きっといい経験になったろうと思いながらハンブレとの距離を保ったまま進む。デューと仕合いをすることは願ってもないことだ。彼も仕合いをしたがっていた。カインも今なら、その重要さがわかる。木の人形ひとがたを相手にしても躱し方までは想像で補うしかなく、ノーラと手合わせしてもどことなく遠慮が入り、叱られてしまっていた。もちろん彼女の対人戦の技能に文句があるわけではないのだが、ノーラの技術はどちらかというと本気で相手を殺しにいくものが多く、想定の差が激しいのが原因だ。


「そういえばどうなったの、あれ」

「……あれ?」

「彼女を追ってた刺客」

「ああ」


 ちらちらとこちら――いや、ハンブレを見ていた数人の町娘に、彼が手を軽く振って返せば黄色い声が飛ぶ。愛想を振りまくことも琴弾きの商売なのか、それとも人柄からの行為か、カインにはわからない。


「領都を出てからまったく来なくなった。だからこうして、彼女と離れて君といる」

「ああ、そうか。護衛だもんね、君は。ふぅん。やっぱり領都にいられると困る誰かがいるのかな」

「そこまではわからないが……」

「どのみち領都に戻るんだし、君の出番はそのときだろうね」

「追っ手が来てほしそうな言い方だな」

「うふふ、さてどうだろう」


 そしてハンブレは口を閉じた。今までの饒舌さはどこに行ったのか、とんと口を開かない。今までの会話は全てノーラに聞かせて、苛立たせたかったのかもしれないと邪推してしまうくらいには、ハンブレとのやり取りが途切れてしまった。カインも取り立てて話すことはなく、気楽とも呼べる穏やかな沈黙が二人の間を包む。人の声、ほんの少し冷たさを孕んだ風、そんなものを体全体で感じながら坂を上り続け、町の一番高いところにある小丘まで来たとき、丸い形の建物が見えた。


「あそこが闘技場」


 いつの間にか歩道は石に変わっていて、人も多く集まっていることに気付く。闘技場へ続く道を歩いて丘を登り切れば、その全容が見えてカインは小さくため息を漏らした。


 闘技場は円形をしていて、大小様々なまだら模様を描く石でできていた。入口と思われる場所には警護をするためなのか、二人の男が退屈そうに揃って立っており、ぽっかりと空いたその入口の上部には銅で作られた大きな金属板がはめ込まれている。エペーサ闘技場と彫られた板はきれいに磨かれていて、日差しもないのに金属特有の冷たい輝きを保っている。広場の通路はこれも石造りだ。少し汚れ、欠けたりしている円柱が左右対称にいくつか並んで立っていて、その周りでは席を売る転売屋、賭け事を誘う賭博屋の声音が大きく響き、妙にここだけ熱気が渦を巻いていた。


 中に入ることは叶いそうにないので、せめてその近くまで行ってみる。カインほどの身長があってもまだなお高い入口の奥は暗がりで隠れ、でも不思議と不安はない。明日戦うとわかっているからだろうか、体の中からわき上がってくる力強いものがあって、これが闘志というものかと思う。強く、同時に身が引きしまる感覚。そこに一片の恐れがまぎれていないのが己でも奇妙だった。もしかしたら、とカインはそっと唇を舌で湿らせた。己という人間は、思った以上に好戦的な性格をしているのかもしれない。


「一介の町にしてはいい作りの闘技場だよ」

「他の闘技場に行ったことがあるのか?」

「もちろん。天護国アステールだけのじゃなく、他の国の闘技場にも行ったことがあるよ。奴隷を使っているところもあるし、逆に名誉をかけて騎士だけが戦う場合もある。その点、今回の闘技会は生温い分類かな」

「戦いは、戦いだろう」

「人の性格は争いの中に出る。慎重、果敢、臆病、勇猛、隠し持つ本質が曝かれることこそ戦いの在り方だよ。さて、君はどれに当てはまるのかな」


 試すような口ぶりで微笑まれても、カインに返す言葉はない。己がハンブレから見てどういう人間なのか、彼が己をどう思うのかは未知数で、でも言っていることに少し頭をめぐらせようとしたそのときだ。近くにあった円柱の影から、一人こちらに向かってくる人物がいる。見覚えがあった。イグローの後ろにいた、エペーサ専属の傭兵の一人。赤い目をした頭髪のない男だ。カインが強敵と推測していた男は、ゆったりとした、けれど隙がない歩き方でカインの側まで歩いてくる。知り合い? と訊ねてくるハンブレに頷いて、でも目は男から逸らさない。


「来たか」

「確か、イグローと一緒にいた……」

「名など必要ではない。全ては拳を交えればわかる」


 無骨なまでにさっぱりとした解答はカインの心象を良くした。デューやソズムに似ていて、でもそれより研ぎ澄まされた牙のような男の声は、静かに耳に染み入ってくる。男は半身を彩る銀色の胸板の前で隆々とした両腕を組み、鋭い眼光を向けてきた。


「明日の闘技会、一癖あるぞ」

「一癖? どういうことだ」

「そこまでは立場上言えぬ。介添人に準備を念入りにさせておいた方がいい、それだけだ」

「全部言っちゃえばいいのに。含み持たせないでさ」


 君が言うのか、とハンブレの笑い声に思わないでもないが、ともかく男はぎりぎりのところで助言をくれたことには違いない。だが、なぜ己を助けるような真似をするのだろう。小首を傾げるカインの内心を読み取ったのか、男はハンブレを無視して続ける。


「一応これでもエペーサ側の人間なのでな。だが、お前とは本気でやり合えればいいとは思っている。デューとのように」

「デューと戦ったのか」

「五戦四引き分け、一敗。こちらが唯一負けた時に、デューは二つ名をもらった」

「強いんだな」


 どちらがとは言わない。デューの拳を、蹴りを、カインは確かに覚えている。砂漠に浮かぶ蜃気楼のような感覚の中で、そこだけしっかりと重みを持って存在する記憶。稽古をするとき何度もなぞってきた速さと正確な一撃は、己の動きの一部になっている。その手腕に匹敵するのであれば、確かに難敵といえよう。


「とりあえずは伝えた。後をどうするかは、お前の自由だ」


 金属を付けた短靴を鳴らして、男はさして堂々とした態度でもなく、けれど間合いに踏み込むことを許さぬ身のこなしでカインたちに背を向け去って行く。手強い、そう思う反面、胸の奥が痺れたような感じがした。体から力がみなぎってくる。名も告げぬ男と戦うことを喜ぶ己がいた。あれほど人を傷つけることを怖れていたのに、どうして人の心は移ろいやすい。隣にいるハンブレはさして感慨を受けた様子もないみたいで、あくびを噛みしめたような、奇妙な声を出しながら髪をいじっている。


「一癖かあ。<妖種>と戦わされたりしてね」

「それならまだ楽だ」

「簡単に言うね。ずいぶん自信がついたんだ」


 坂を下りていく男を見送りながら、ハンブレの言葉を反芻する。自信がついた、と言われれば確かにそれもあるだろう。記憶を失ってからというもののがむしゃらに剣を振るってきていたが、稽古という形で己の動きを確認し、何ができてできないか知った、それらの経験はカインの実となった。


「せっかく教えてもらったんだし、ベリに言っておいた方がいいね。介添人はベリでしょう?」

「ああ」

「じゃあそろそろ戻ろうか。もう宿にベリがいるかもしれないよ」


 鳥みたいな軽やかさで先を行くハンブレに続こうとして、振り返る。曇り空の下、静かにたたずむ闘技場は堅牢を保ち、いよいよ持って冷気を運びはじめた風にも揺るがない。あの中は明日、どのようになるのだろう。多くの人前で戦うことは初めての経験で、想像がつかない。それに、男が言っていた一癖とはなんだろうか。考えれば考えるほど思考はもつれ、ぼんやりとしてしまい、払いのけるようにゆっくりと頭を振る。どうであろうと、と思い直しカインはハンブレの後ろを歩き始めた。戦うことで前に進めるのなら、全力を持って当たるしかない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る