第Ⅰ幕:なくした記憶の残響

1-1.出会いは偶然か、必然か

 深緑が集う森に陽の光は届かない。それでも男の目に、明るい青紫の髪色は鮮やかすぎた。何もかもを覆い隠し、丸ごと飲みつくしてしまうかのような広く大きい樹木の中、女が走っているのを見た。女というには純朴すぎて、少女と呼ぶには厳格すぎる不思議な魅力を持つ顔は、狼みたいな鋭さを保ちながら前を向いている。獣道の藪を素早く掻き分ける音が、規則正しい音楽のように男の耳をなでた。


 心地よい音の中、ふいに甲高い子供の声にも似た叫声が届く。男が目にしたのは、女の後ろ姿をとらえて離さない異形の姿だ。鳥を擬人化させたような顔と翼と、長いかぎ爪を持った存在が、三体。それがなんなのか男にはわからない。わかるのは、女が襲われているのではないかという鈍い臆測だけだ。


 女が動きを止めた。振り返る。手に持つ白銀の戦斧がきらめいた。迎え撃つつもりなのだろう、と男は思う。思った瞬間、男は木の上から跳んでいた。

 女と異形の存在の距離が寸前までつめられそうになった、その絶妙な間に大きな音を立てて着地する。


 いつからか手にしていた両刃の大剣を構え、男は異形たちに向かって走り出す。一匹目、最も素早く女を狙っていた異形に刃を叩きこむ。重い手応えと共に骨が砕ける音がした。絶叫と共に緑の体液が宙を舞う。男は力をゆるめず、そのまま真っ二つに頭から体までをたたき割る。


 淡い緑の輝きを背に、男は近くにいた二匹目へ間合いを詰めた。突っこんでくる異形の両目を剣の切っ先でなぎ払うと、勢いを殺さず背後を狙ってきた三匹目の片翼を逆打ちで奪い取る。均衡を崩した相手の体の中心へ、大剣に体重をかけて押しつぶすように剣を突き刺す。


 視力を奪われた残りの一匹が、豪風の中でかぎ爪を突き立ててくるのを目の端にした、刹那。


「そこまで!」


 鋭い叱咤が空気を割る。すると木々のそこここから飛び出した細い線――鉄線だろうか――が、見事視力をなくした異形のものへ突き刺さり、空中へ吊り上げていた。


 ついでに男も浮いていた。地上から出てきた鉄網が、閉じられた揺りかごみたいに男の体を包んでしまっている。


「何をするんだ」

「それはこっちの台詞よ、泥棒」


 女は男を一瞥することすらなく、異形のものたちへ歩みを進めた。


「危ないぞ」

「これは目が切られてる。だめね、使い物にならない」


 男の忠告を女は無視した。無視というより相手にすらしていないといった感じだった。


「羽は片方無事か。かぎ爪もいいわね。で、残りの二匹は……消滅。これもだめ、と」


 女の独り言だけが耳に届いて、そこでようやく宙で暴れている異形のものが声を上げていないことに気付く。さきほど不意に現れた鉄線が、喉と翼のつけ根、かぎ爪のある足首にも刺さり、絡み合い、動きと耳障りな叫声を止めているのだろう、と男はなんとなく思った。


 女は呆れと怒りを交えたような複雑な表情でそれぞれの異形を確認した後、宙吊りになっている男へとようやく向き直った。


「人の獲物横取りしといて、謝罪もないんだ」

「獲物?」

「森の入り口に『狩猟中』って立て札、置いてあったんだけど。見てないの?」

「狩猟中……立て札」

「戦闘商業士の紋章も描き入れておいたんだけど。見てないの?」


 まるで聞き分けのない子供へ言い聞かせるような口調に、男はただ困惑した。そも、なぜ己はここにいたのか。狩猟とはどういう意味か。戦闘商業士とはなんなのか。それが全く頭の中から消え去っている。記憶が靄の中にあるのではなく、空虚の小穴に落ちたみたいに暗い底へと沈んでいて、到底取り出せそうにない。


「黙ってないで何か言ったら?」


 何をどう言えばいいのだろう、と男は思った。白い甲冑に身を包んだ女が、目をすがめて己を見ている。その後ろでは、未だ緑の血を流した異形が宙でもがいている。男も同時にもがいていた。この状況を打破するための手段を探して。


「一つ聞きたいんだが」

「どうぞ」


「俺は、誰なんだ?」


 梢がそよぎ、微かに空気を動かす。微細な変化がますます心をざわつかせ、男は眉をひそめた。


「どうしてここにいて……いや、そもそも俺はどこから来たんだろうか」


 女のおもてがますます硬くなった。悩み続ける男の方へ近付き、顔をまじまじと見つめてくる。女から薫る微かに甘く、清涼な香りは何かをつけているからだろうか、それも男にはわからない。匂いの元がなんなのかすら、知らない。


 男は見た。清徹極まる女の瞳を。藍色と空色が濃淡を描く目はどこまでも透き通っており、綺麗だなと場違いな感想を抱く。


「下手な嘘は嫌いなんだけど」

「嘘じゃない」

「くだらない冗談かしら」

「冗談を言える状態じゃない」


 鉄網は頑丈に編まれていて、手にした大剣でも容易に切れそうにはなかった。身も心も、そして記憶ですら檻にとらわれている。こんな状況をいったいどう打破すればいいのか、男は知らない。わかっていることだけを述べて、女は信じてくれるだろうか。濃い森の影へと沈んでいくような気持ちになる。


 女は天を仰ぎ見て、ため息をついた。盛大な、あきらめたかのような息。青紫の頭を左右に揺らして男へ背を向ける。


「少し待ってて」

「わかった」


 ゆらゆら揺れる鉄網の中で、男はうなずいた。心も同時に揺れている。心臓をかきむしりたくなるような衝動に身を任せながら、でも黙って女の行動を観察する。


 女が小声で何かをつぶやくと、その身の影から多数の刃物や小瓶が地面に浮き出てくる。細いもの、長方形のもの、尖ったもの、ともかくたくさんあって、男には形以外に見分けがつかない。だが、女はためらわずに長方形の刃を選んだ。


 片手で小瓶の粉を振りかけると、手に取り、浮いている異形の翼、そのつけ根を切り落とす。ぬるりとした体液だけが体へと垂れていく。異貌なるその口が痙攣し、多分叫びを上げていたであろう唇が閉じられる。


「何をしているんだ」

羽女人ハルピーの翼は安くても売れるから」


 鋼のような口調と声音だった。


 女はそれらを繰り返し、刃物や小瓶をつぶさに変え、異形なる存在――羽女人とやら――の体を丁寧に解体していった。翼とかぎ爪をなくし、顔と胴体だけになっても羽女人は動かない。まるで深い眠りについたように。


「あとは動物たちの餌」


 女は奪った部位を緑色の液体が満ちた瓶へ小分けにした後、地に置いていた戦斧で全ての鉄線を切り落とす。羽女人の地に伏した音がざわつく心にやけに大きく響いた。体液が獣道をゆっくりと流れていくまで、男はただ、女の丁寧な所作だけを見つめていた。


「そうか」


 再び女が何事かをつぶやけば、それぞれの道具が影に戻ってゆく。それがどういうことなのか理解はできなかったが、男には少しだけわかったものがあった。


「俺はきっと君の邪魔をしたんだな」

「そうね。私の仕事の邪魔はしたわね」


 ふっと女の顔が緩む。


「でも、助けてくれようとしてくれた心意気には、感謝するわ」


 男が初めて見た女の笑顔は、どことなく不遜さをも交えたものだけれど、やわらな優しさに満ちていた。


「さて、あとはあなたのことなんだけど、そろそろ夜にもなるし」


 斧の刃は木の幹に突き刺さった鉄線だけを上手く切り落とし、男の体を解き放つ。


「ゆっくり話せるところで話した方がいいわね。その様子だと」

「……わかった」


 一瞬、己がどんな様だったのか聞きたかったが、男にはそれ以上に尋ねたいことがありすぎて、ただ同意した。


「夜は<妖種ようしゅ>が多く出るから危険だし、一度町に戻りましょう」


 女はもう一度、男を定めるように見てから笑みを深めた。


「どれだけあなたに価値があるのか、見極めさせてもらうわ。商売人としてね」

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