1-2.女と犬

 酒場というのは、どこの大陸の国でも宿も兼任するところが多く、料金によってその質は変わる――それは、男がようやく思い出せた知識であった。大陸や国、その名前は一向に思い出せないままだったが。女に連れてこられた『蜃気楼の酒場』という名称にも心当たりはない。黄色い煉瓦でできた酒場は閑散としていたけれど、灯された蝋燭の火はじんわりとした暖かさを感じさせる。何人かいた客はこちらに目を向ける様子もなく、たまに赤や紫色の飲みものを口にして何事かをささやきあっている。


 女は酒場の中央にいる細い体の青年へ声をかけ、腰につけた帯の内側から数枚の紙切れを渡した。


「こっちよ」


 女が選んだのは、角を曲がった先にある一番奥の席だった。無言で女についていくと、そこには木でできた四角い机と二つの椅子だけがあった。客の声がいっそう小さくなり、先ほどまでいた森の木々がこすれる程度にしか聞こえない。


「座って。あ、あなたは奥ね」


 言われるがままそうすると、みしりと木の椅子が鳴って一瞬驚いた。それでもしっかり、己を支えてくれはしているが。手にしていた大剣は、これまたいつの間にか持っていた鞘に、しまっておけ、と女から言われたので腰にくくりつけてある。


 女が持っていた戦斧はどこへ行ったのだろう。気付いた時にはすでに見えなくなっていた。道具をしまったときのように、影にでもひそめているのだろうか。どうやったらそんなことができるのか、やはり男にはわからない。


 座ったまま、少し沈黙が続く。女は頬杖をつきながらこちらをじっと見つめていた。無表情なおもてにどことなく体がそわそわする。かと言って、何を話せばいいのだろう。黙ることを選んだ男の鼻に、胃をつくような香りが漂ってくる。芳ばしい匂い。肉の焼ける匂いだ、と男は思った。思い出した。


 青年が笑みを浮かべて皿を数枚、それから筒盃フィッザを三つ運んでくる。きゅう、と胃が締めつけられるような音を出して、慌てて腹部を押さえると、女の固く閉じられた唇がほころんだ。


「食べることも忘れてたの?」

「多分……」


 青年が去った後、皿や筒盃の中身を覗いてみる。薄い肉に草のようなものが乗っているやつ、野草と花びらに、黄色の何かがかかっているやつ。丸っこい掌ほどの大きさをした小麦色のやつ。筒盃の中身はそれぞれ、透明なものと、酒場にいた男たちが飲んでいたのと同じ色の液体が浮かんでいた。


「……葡萄酒と水と、麦酒……肉。あとは卵と麺麭ブケだ」

「食べ物は正解。わかってるものもあるのね」


 うなずく。腹か先ほどから変な音を出していて、口の中の唾液が止まらない。そしてこれが空腹であるのだと理解する。


「食べていいわよ。葡萄酒は私が飲むから」


 お金は上乗せ、と付け加えて、女は静かに筒盃を取る。上乗せの意味が気になったが、こみ上げてきた食欲が勝った。


 三つ叉の食刺を使って肉を選び、口にする。固いが、噛んでいくうちに臭みと独特の甘さがある肉汁があふれ出てくる。それからはただただ食べ続けた。野草と花びらのものは歯触りが良く、卵の素朴な味わいが気に入った。麺麭も柔らかく、液体状になった卵につけると旨さが増す気がした。一気に食べ物を口にしたせいで喉がつまる。慌てて麦酒へ手を伸ばし、流し込むと、ほろ苦い味わいが口腔の中を刺激した。


「いい食べっぷりね。お腹がすいてたのもあるんでしょうけど。嫌いなものはない?」

「肉が少し食べづらかった。でも、美味い」

「へえ、馬肉は食べ慣れてないのかしら。だとすると、神権国ガライー群島国ダーズエ辺りの出身なのかもね」


 麦酒を飲み干し一息ついてから、女の言葉に目をしばたたかせる。


「出身?」

「食べ物でわかることってあるでしょう。例えばここなら葡萄酒が基本。麦酒はあまり飲む人がいないわ。馬肉に抵抗があるのは、家畜として飼ってるところが極端に少ない場所なのか、とかね」

「なるほど……」


 放心したように男は感心した。たった少ない食事で、相手をそこまで観察できる女の知恵と頭の良さに。いや、もしかしたらそれは一般的なことなのかもしれない。けれど己が驚嘆したのは確かで、それと同時に思う。女が己を試しているのではないかと。


「だとすると、ここは、その二国ではないのか」

「私たちがいるのは天護国アステール。その領地の一つよ」


 天護国アステール神権国ガライー群島国ダーズエ。出てきた単語を頭の中で反芻する。淀に沈殿した記憶を必死にかき回していると、小石に触れた程度の手応えがあった。


「国は確か、五つあるはずだ。残りの二つは連邦国キュエトゥーン統合国ネルゲイオ

「正解。少しずつ思い出せること、出てきたんじゃない?」

「む」


 挑むような、からかうような女の口ぶりに男の思考は止まる。


 思い出せること。ここには国が五つある。それぞれの大陸を分かつ五大国――その名前には聞き覚えがあって、だがその国にどんな特徴があったのか、そして己はどこにいて、どこへ行こうとしていたのか。それらを思い出そうとしてみても、今度は砂粒程度の感覚すらなかった。


「あとは、そうね……ここでそういう服、珍しいわよ。毛皮に長袖の胸衣? 見てるこっちが暑くなるわ」

「そうなのか?」


 言われて初めて、男は己の姿を確認してみることにした。


 確かに女が言う通り、己は首元に毛皮がついた腰までの胸衣を着用していた。腕から手の甲の表面にかけては、くすんだ金色の籠手もつけている。肌に密着しているのは、薄茶色と鮮やかな青の中衣。


 うつむいて注目するとよくわかったが、どうやら己は髪が少し長いらしい。さきほどまでいた森をもっと暗くしたかのような深緑で、肩より少し先まで雑草のように無造作にあちこち飛びはねている。女の髪が首まで綺麗に、滑らかな曲線を描いて切りそろえられているのと比べると、なんとなく落ちつかない気持ちになる。けれど女の視線にはいやな感情は微塵もなくて、むしろどこか楽しそうな雰囲気すらあった。


「外見から察するに、まあ、剣士か傭兵だったってところじゃないの。さっきの戦いぶりも凄かったし、意外と名の知れた誰かだったりして」

「覚えていないんだ」

「でしょうね。剣の他に何か持ってないの? 組合の証明書があれば一番手っ取り早いんだけど」

「組合、とは、なんだろうか」


 思い出せないこと、覚えていないことが多すぎて、口の中が乾く。残っていた筒盃を取り、水を飲む。ほんの少しまろやかな舌触りと冷たさが、動悸と混乱で逸る胸中をいくばくかは静めてくれる。女も中身を飲み終えたのだろう、白い指先で手元の筒杯をつつきながら、何回目かのため息をついた。


「率直に聞くけど、あなたの名前は? それも思い出せないわけじゃ」

「思い出せない」

「そう……筋金入りの記憶喪失ね。どこかで頭でも強く打ったのかしら」

「頭を打つと、俺のようになるのか」

「たまにそういう話を聞いたことはあるけど、詳しくは知らないわ。に、しても名前まで忘れてるとなると……」


 少し薄いが形のよい唇を尖らせ、女はうなる。子供っぽい顔だと男は感じた。獣みたいに勇ましい顔を見せたり、童女のような素直なおもてを見せたりと表情が変わる様は見ていて飽きず、むしろ胸の奥を優しくくすぐられる心地よさがあった。


「名前を教えてくれないか」


 気付けば口から、そんな言葉が飛び出ていた。


「名前って、私の?」

「そうだ」


 女は心持ち、どこか自信に満ちた笑みを浮かべる。


「私は、ノーラよ。ノーラ=プラセオ」

「ノーラ」


 女の名前を繰り返してみる。ノーラ、と。これ以上なく女に合っているような、そんな気がした。どうしてそう感じたのかはわからない。けれど確かに男はそう思い、ノーラという名前をつぶやく。


「あのね、人の名前連呼しないで」

「忘れるといけないから」

「それより思い出すべきことの方が多くない?」

「確かに」

「抜けてるわね、色々と」

「それほどでもあるな。何から思い出すべきなのか、わからない」


 正直にそう告げてみると、女――ノーラの顔から一気に力が抜けたような気がした。


「ちょっと待って……採算が本当合わない……」

「それはどういう意味だ?」

「商売を邪魔してくれた分のことよ!」


 はじめてノーラが声を荒げて、男は驚く。声を上げたと同時に、一気に顔を近付けてきたせいもあるだろう。


「いい、羽女人ハルピーが三体でちゃんと部位を採れてたら三十万ペクにはなったの。特に目は貴重。加工すれば鉱石の代わりになるからね。でも、あなたが助けてくれたおかげで瞳は全滅。採れたのは一匹からのかぎ爪と羽だけ! 加工分を差し引いて売っても十万ペクの減算よ! 十万よ、十万。下手したらその分で結構な武器の一つも買える程度に、赤字なのっ」

「な、るほど」

「わかったふりしてるんじゃないっ。その分あなたに働いて稼いでもらおうと思ったのに、名前も出身地もわからないだなんて、組合にも入れやしないじゃない!」

「俺が、働く」

「そうよ、だから連れてきたっていうのにまさかこんな……ああもう、完全に計算が狂ったわ」


 ノーラの言葉は男の胸を抉った。連れてきた、というのは己を救ってくれるためでも、困っている存在に手を差し伸べる慈悲からくるものではなかったのだ。こういうのを確か。


「打算……で、俺を連れてきたのか」

「言ったはずですけど、見定めるって」


 きっぱりと言いきられて、男は己の心がゆるく、それでも確実に沈んでいくのを感じた。閉ざされた記憶と同じ大きい穴底へ。そうだ、確かにノーラは言った。己の価値を見定めると。どういうことかわからなくて、それでもまるで消えない暗闇に光が穿ったような、そんな思いを抱いたのに。己の存在を否定されて、眉毛がほんの少し下がった気がした。


「あのね、犬みたいな顔しないでよ」

「犬」


 己は結局それ以下の存在か、と体から力が抜ける。犬の方が利口なはずだ。主人に忠実で、愛玩動物としても人気が高い動物。狩りをするものもいる。己はそれにもなれない。


「何をまた考えてるのか知らないけど、私、別に査定を終えたわけじゃないんだけど」

「……どういうことだ?」

「あなたの剣技。あれは凄かったわ。傭兵とも組むときはあるけど、その中でも珍しいくらいにあなたの動きは速くて、正確だった」

「剣……」

「身ぐるみ剥いでも一万以上にはなりそうにも……いや、なるかな。あの剣いい鉱石ついてたし。だけど、うん。もったいない」

「もったいない、とは、どういう」

「あのねえ、少しは自分の頭を使ったらどう? 思い出すんじゃなくて、思考するの」


 もう一杯もらってくる、とノーラは乱雑に立ち上がり、男を置いていく。一瞬このままになるのではと思ったけれど、もらってくる、と言ったのだから戻ってくるはずだ。


 男はノーラの言葉の通り、手探りで記憶のまどろみを揺さぶるのを止めた。代わりに今ある情報を頭の中で素早く整理する。多分、このままでは持ち物全てを奪われてごみを捨てるようにされてしまうだろう。もしかしたら出会ったのがノーラでなければ、さっさとそういう状態になっていてもおかしくはなかった。その時点で己は運がいい。


 残っていた水をゆっくりと飲んで、頭にある靄を払う。情報の整理をするために。

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