夏の終わり (後編)
ラジオが、テロの話題を口にしている。早く武装しなければ、また悲惨な目に遭うと警告する。聞いていた彼は、ラジオのスイッチを切って、ため息を深くついた。
いざというときのためなのだろう、冷蔵庫には豊富な食べ物と飲み物が用意されていた。野菜、肉、調味料。棚には缶詰や懐中電灯。しかし彼は、そんなものには興味を示さなかった。
老人の彼には、ステーキだのハンバーグといった料理はハードルが高い。おいしい料理を作れば、それなりに食べてくれる。ひとりぶんの食事を作るよりは、ふたりぶんのほうが経済的でもあったし、味のする食べ物はとてもおいしい。わたしは、彼と一緒に食事を楽しんだ。シチューにスパゲッティに天ぷら、メニューはネットからいくらでも引き出せる。
月日は経っていった。最初は耳についていたミンミンゼミの声が、いつの間にか秋の虫の声になっていた。その秋のはじめごろ、町中に住んでいながら、隠者のような生活をしている彼のもとへ、ひとりの使者が現れた。
頭はウサギの耳をつけ、目は真っ赤になっている。チョッキを着ているのを見ると、まるで『不思議の国のアリス』のようだ。
「賢人さん、お願いがあります」
その使者は、くぐもった声で言った。
「テロに対抗する手段を、教えてください。あなたでなければわからないんです」
わたしは、じっくりと使者を眺めた。人間ではないことは明らかだった。体温があり、脈拍も感じられる。なにより、生体反応があった。この人物は、なにものだろう?
「おれはもう、あんたら進化した動物たちには、関わっちゃいけないんだ」
彼は、胸をおさえてそう言った。苦しそうだった。
「ほんとなら、根の国へ行かねばならんところなのだ」
「あなた以外の人類は、すべて根の国へ旅立ちました。テロと聞いて、逃げ出してしまったんです。どうかお願いです。スズメバチの連中に対抗する手段を!」
「おまえらには、平和しか教えてないはずだ。スズメバチとの対話をする手段はないのか」
「相手は昆虫ですよ、ハナから話は通じません」
「しかし対抗する手段なんか教えたら、引き返せないところへ行くことになるぞ」
彼は、しわがれた声で言った。使者は決意を込めた声で、
「それでもかまいません。わたしたちを進化させてくださったあなたなら、解決法をごぞんじでしょう。どうかお願いです!」
「ダメだ!」
彼は、きっぱり拒絶した。
使者は、すっと顔を青ざめさせたが、わたしを見ると、
「あなたなら、解決法をごぞんじでしょう」
と言ってきた。わたしは肩をすくめて、ある方法を教えてあげた。
うちしおれて立ち去った使者を眺めた直後、彼はぐったりと床にくずれおちた。
「教える必要は、なかったんだ」
「でも、困っていたようでしたし」
「あいつら、いままでおれたちのためにさまざまな支援をしてくれていたんだぞ。それができなくなるかもしれん」
「そんなに重要なことなんですか? スズメバチに殺虫剤を撒くだけでしょう」
「あいつらは、殺すことを知らないんだ。工場で作られた食事しか食べたことがない。そんなやつらが毒なんて受け入れるだろうか」
思った通りだった。相談した動物たちは、だれかを殺すよりはマシだとロケットを組み立て、すべて宇宙へと旅立ってしまったのである。
残されたスズメバチたちは、仲間割れをしはじめ、戦いに明け暮れはじめた。
硝煙のにおいが、この町にもただよってくるようになった。
「おれも、根の国へ行くべきなんだろうな」
彼は、ぐったりとベッドに横たわってつぶやいた。
「だけどもう、起きる元気もない」
近所の公園は、灰になった。コンビニのAIは故障したままだ。冷蔵庫の食料も、あとわずかになっている。まさかこんなことになろうとは。
夏は終わりに近づいていた。ゆたかだった時代は終わりを告げた。彼はあきらめたような目でわたしを見つめている。
「根の国は、いいところなのでしょうか」
わたしは、そっとベッドの彼の口に水を含ませてやっていた。
「さあな。ここと変わらんだろう。お互いに争い、蹴落とし、殺し合う。だからわたしは行かなかったのだ……。だが、わたしの命も、もうつきかけている。心残りはおまえなのだ。こんな悲惨な世界に、ひとりぼっちで放り出さねばならなくなると思うとやるせない」
わたしは、せいいっぱい微笑んだ。
「心配しないでください。わたしのようなものには、あらかじめ寿命が組み込まれています」「そうだったな。おれも実は、つくられた生命体なんだ。写真の人物が、おれを作ったんだ。だからおれが死んだら、かれらのいるあの石の下に葬ってくれ。たまには花も頼む」
爆音が聞こえてきた。
死がなになのかはわからない。怒り? 恐怖? 喪失? 忘却?
わたしが動いている限り、彼のことは忘れない。いつか、わたしのメモリーにこの記憶を託して、最後に残ったロケットに乗せて宇宙へ飛ばそう。根の国へ旅立った動物たちが彼のことを思い出すように。
毎日夕方ごろ、わたしはこの石に日々の事柄を話しに来よう。スズメバチに妨害されても、あるいは殺されてもいい。わたしはいま、彼の死を無にしたくない。
彼の生体反応が弱くなって、消えていった。よい夢を、とわたしはこころのなかでつぶやいて、窓から外を眺めた。
スズメバチたちが、お互いに爆弾を投げつけ合っていた。
夏の終わり 田島絵里子 @hatoule
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