シンギュラリティ

 こんなにやり場のない怒りに打ち震えたのは久々だった。僕は唯一つの欲求を満たしたいだけだった……。


 うんこがしたい!

 ただそれだけだったのに……。


 ある大型書店で立ち読みをしていた。そして便意を催した。よくある日常だ。

 僕は読んでいた本を棚に戻し、トイレに向かった。


 最近のトイレは随分とハイテクになったものだ。便座の蓋が自動的に開いてLED照明が便器の内側を照らす。水が弧を描くようにひと流れする。

 水面に青白く輝く光が煌いている。水と光のハーモニーが僕の尻を誘っている。まあ、さっさと用を済ませたいだけの僕は、便座がヒヤッとしないことだけで充分なのであるが――


 ひと通り済ませたところで水を流そうとした。操作パネルが右手側の壁にあった。スイッチが沢山付いているそのパネルから『大』と書かれているボタンを押した――これで水が流れるはずだ。


 だが、流れない。


 水を流すボタンかどうかは書いていなかったが『大』と『小』のボタンが並んでいるのだから、押したら水が流れると思うのが自然だろう。

 何度か押した。長く押してみたりした――


 だが、流れない。


 壊れているのか? 実はさっきから何かピーピーと音が鳴っているのが気になっていた。

 何かがおかしいのかもしれない。だけど、こういった時の為に手動でも流せる装置があるはずだ――後ろ手にタンクをまさぐった。


 ――あった!


 手動レバーを探し当てた僕は、ようやく水を流すことが出来て、ほっと一息ついた――ほっとしたのも束の間だった。


 ――あつぅい! しかもこれはビデ!?

 

 あわてて右手側パネルの『止』ボタンを押すとシャワーノズルは引っ込んで攻撃は止んだ。


 なんという不意打ち……。やっぱり壊れているのか? サービスなのか?

 そんなに熱かったわけじゃないが、不意にあの刺激を受ければ誰だってあのような反応になるだろう――望んでもいない過剰サービスなどはすぐにやめた方が良い。


 最善なのはすぐにこの場を立ち去ることだろう。ただ、僕はまだ出し足りなかった――最後まで出し切ってはいなかった!

 

 残り全部を出し切って、早くさっきの続きを読みに行くんだ――けど2回目なのでさっきよりは時間がかかる。


 ――!? またくる!?


 さきほどは不意打ちだったが、僕の尻はあの1回でシャワーの出る兆候を読んでいた。

 とっさに便座から腰を浮かす――シャワーノズルが引っ込んでいった。


 もう一度便座に座る。


 ――!? またかよ! しつこい野郎だ! もうお前の攻撃は読めているんだよ! 当たるかっ!


 浮かす――座る。


 それを数回繰り返す。


 いまだ! 僕の尻を舐めるなよ!


 隙をついて投下成功。思わず笑みがこぼれ、誰にともなく親指を立てる。

 さあ、もう終わろう。あとは拭いて終わりだ。


 余計に濡れたところも拭かないとな――ってくる!?


 ちょっと遅かったか!――っつぅ! 手の甲が少し濡れた。


「くそったれ!」


 吐き捨てるように言って、その場で中腰になって尻を拭く――もう拭き終わるというところで便器の中を水が流れる。


 なぜ今流れるんだ……。


 便器の内側はただ青白く光っていた。

 拭き終わったペーパーを苦い思いで便器に捨て、手動レバーを押す――水は流れない。そうだろう、この手のトイレはだいたい一回水が流れた後には、またすぐに水を流すことはできない。タンクに水が貯まるまで待たないとならないのだ。


 パンツとズボンを履いた僕は、便器の中でゆらゆらと漂うペーパーを見ていた。


 そのまま立ち去ることもできただろう。ペーパーくらい残っていたってどうということはない。匂いがこもるわけでもなし。


 だが僕はそうしなかった。全てを水に流して無に帰すことこそが本当の勝利となり、立つ鳥跡を濁さずに魚心あれば水心……そろそろ流すか――そう思った刹那、光の演出と共に流れた水。トイレットペーパーは溶けて、便器の奥へと消えていった。


 壊れてはいないのか?

 スッキリとはしたがモヤモヤする。便器から一歩退いて、僕は透明な水面を眺める。

 僕は初めてこのトイレに入った時からの事を思い返していた――水と光に誘われて奏でる尻のハーモニー……ちょっと違うか――


 その時だった。


 ――くる!? 完全に油断した!


 僕はすぐに便座の蓋を閉めて攻撃を防ごうとしたが無理だと悟った――速い! この距離じゃ間に合わない! 便座の蓋を閉めるよりも早くこちらがオダブツだ!

 パニックに陥る僕を嘲笑うかのように、奴は何の攻撃もせずに帰艦していった――


 なぜ……。


 僕はただ……ただ、シンプルにうんこがしたかっただけなのに……。


 脱力した僕の頭にある言葉がよぎった――


「シンギュラリティ……」

 

 そう僕はつぶやき、トイレを後にした。

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