第6話 白玉水を食す

 「これを……」

 小典は、陶器の器を松五郎の前に差し出した。

 松五郎は、震える腕で椀をとり、自分の顔の前に近づけた。何かを見るように器の中の水をジッと見ている。そして、椀を傾けて一口飲んだ。味わうように目を閉じている。しかし、すぐに首を左右に振る。

「違う」

 一言そう言うと椀を床に置いた。同じような椀がすでに数個並んでいる。

「しかし、松五郎。一体何が違うのか教えてくれぬか?ここに並んでいる白玉水はどれも桃鳥様と江戸中を探し回ってきた評判のよいものだぞ。それを一口飲んだだけで」

「違うものは違う」

 松五郎は、きっぱりと言った。

「な、なに?!」

 いきりたつ小典に桃鳥が手でまあまあとなだめる。

「小典も松五郎も落ち着きなさい」

 そう言いながら、チラリと小典に目で合図した。抑えろ、とそう言っていた。小典は、不満だったが咳払いをひとつして、従うことにした。

「松五郎。小典の言うことも一理あるわ。もう少し、あなたの飲みたい白玉水に近づきたいから、なんでもいいから覚えていることはない?」

 桃鳥は優しくそう言った。

 松五郎は、かぶりをふった。

「申し訳ねぇ」

 肩を落とした松五郎は、この前、会ったときよりも一回り縮んだように見える。

「おれが覚えているのは、味だけだ。あとは、

 知ってはいるが覚えてない――その言葉に小典は、衝撃を受けた。松五郎のむき出しの哀しさを見た気がしたからだ。その衝撃は、小典の中にあった不満や怒りを霧散させた。代わりにどうしようもない侘しさのようなものがいっせいに胸に広がっていった。



「どうすれば松五郎の探している白玉水を見つけられますかね」

 江頼屋からの帰り道、小典は言った。

 陽光が斜めに全てのものを橙色に染めていた。立ち並ぶ商家は、奉公人らしき人々が店じまいの支度をしている。子らが走っている。それぞれの家に帰るのだろう。旅籠屋は、すでに提灯に火を灯している。軒下だけすでに夜の雰囲気だ。心なしか、風が冷えてきた。

「あら。さっきまで不満顔だったじゃない。一体どういう風の吹き回し?」

 桃鳥が面白がるように言った。小典の口調が変化したことに気がついたのであろう。

「切なくなってしまいましてね」

 小典は、正直に答えた。

「最初、松五郎に会ったときは、病の気配はありましたが、眼光の強さで堅気でないのは分かりました」

 日常的に犯罪や罪人と接していると、堅気かそうでないかは直感的に分かる。そのきっかけは、眼光の強さであったり、言葉使い、または、ちょっとした仕草などである。どんなに上手く隠そうとしても、必ずどこかにあらが出る。小典たちは、そういった兆候を見逃さない。

「それが、数日のうちに一回り縮んでしまったように感じましたし、眼光の強さも消えていました」

 桃鳥は、黙って聞いている。

「でも、一番堪えたのがあの言葉です」

「『知っているのに覚えてない』でしょ?」

 驚いて桃鳥を見た。心なしか、桃鳥の表情もどこか陰りがあるような気がした。

「松五郎は、そのことで苦しんでいるわ。己の求めているものをわかってて伝えることができないのは、さぞや歯がゆいだろうね」

「ええ」

 小典は、それっきり言葉が出なかった。

 桃鳥も無言だった。

 二人は、そのまま暮れゆく町の中を奉行所に向かって戻っていった。


 

 小屋の中が異様な緊張感に包まれていた。

 松五郎のいる部屋の中に、都合、五人の男がいる。

 松五郎、江頼屋の主人である吉太郎、桃鳥と小典、そしてもうひとり、紺色の羽織に大きく丸に香の字が染め抜いてある職人風の男だ。男の横には、引き出しが幾つもある縦長の箱が置いてあった。もうひとつは、桶だ。

 男は、柄杓で真鍮製の椀の中に水を入れる。そして、次は、縦長の箱の引き出しを開け、匙で白い砂のようなもをすくう。白砂糖だ。匙の上で砂糖の量を調整する。そしておもむろに器の中に入れる。次は、砂糖の下の引き出しを開け、同じく匙で白い玉をすくう。白玉だ。それも器の中に入れる。

 男は、器を松五郎に差し出した。

 松五郎は、震える腕でその椀を受け取ると、ゆっくりと自分の顔の前までもっていき、しばらくジッと見てから、口に運んだ。

 桃鳥も小典も、その場にいる四人の男たちが固唾を飲んで見守る。

 松五郎は、椀から口を離すと、首を静かにふった。そして、椀を床に置いた。

 その場にいる皆に失望の色が広がった。


松五郎以外の人物は、全員小屋の外に出ていた。

「わざわざ来てくれてすまなかったね」

 桃鳥は、職人風の男にむかって言った。

 男は、桶と縦長の箱を持って恐縮するように「滅相もございやせん」と頭を下げると吉太郎に先導されて、小屋から離れていった。

「『丸香まるこう』でも無理でしたか」

 小典は、遠ざかっていく丸香の職人、つまり料理人の背中を見送りながら言った。

「四ツ谷で茶屋として名高い『丸香』の白玉水ならあるいは、と期待したのですが」

 四谷の『丸香』の職人に限らず、茶屋の料理人を小屋に来てもらって、その場で白玉水を砂糖の量を調整しながら、松五郎に飲んでもらうという案を考え出したのは小典であった。

「これで確か……」

「三件目ですね」

 丸香の料理人に来てもらって、三軒目だ。他の店にも来てもらえるように交渉はしたのだが、なにせ、呼ぶこと自体、御足がかかるのに加え、季節が冬である。この季節、白玉水を扱っている茶屋自体が少ない。それでもなんとか、見つけて来てもらえるように頼んだのが三軒だった。それでも、松五郎の望む白玉水を出すことができなかった。

「やはり、〝白玉の貞八〟しか作り出せない隠し味でもあったんですかね」

 小典は、下を向きながらいった。

「……いえ。違うと思うわ」

 桃鳥は何か考えるようにいった。

「おそらく、小典の目の付け所は正しいわ」

「目の付け所といいますと?」

「店の者に作ってもらう、ということよ」

「しかし、現にこうやって失敗しています」

「いえ。失敗ではなくて、何かわたしたちが、まだ気がついていないところがあるだけ」

「気がついていないこと、ですか?」

 桃鳥はまだ何か考えているようだ。

「そうよ。〝白玉の貞八〟は、その名が示す通り、白玉作りが上手かったはず。なのに、松五郎は、一口飲んだだけで椀を置いているわ。つまり、白玉は食べてないの」

「そういえばそうですね」

 小典も、これまでの事を思い出していた。確かに、松五郎は、

「白玉を求めてないとすれば、松五郎は、一体何を求めているんでしょうか?砂糖の水だけですか?」

「ううん。それもまた違うわ……」

 桃鳥が、さらに何か言おうとしたその時、

「黒葛様!松五郎さんが!」

 戻ってきていた吉太郎の叫び声が、小屋の中から聞こえた。

 桃鳥も小典も小屋へ駆け込んだ。


「ひとまずは安心ですね」

 小典は、わざと声を励ました。

 すっかり日が暮れていた。

 江頼屋から借りた提灯の明かりが、辺りを茫然と照らし出していた。すでに通りには人っ子ひとりいない。いるのは桃鳥と小典の二人だけだ。隅田川からの風が強く吹き始めている。その風音が、一層、何ともいえない侘しさを小典の胸の中に作り出していた。それを振り払おうとしていた。

 慌てて小屋の中に駆け込んでみると、松五郎は、胸を押さえて苦悶していた。急遽、江頼屋の奉公人が医者を呼びに行って、その医者の投薬でひとまずは落ち着いた。しかし、眠っているその表情は、青白く、呼吸は浅く、とても安心とはほど遠いように見えた。小典も人の生き死にには日常的に関わっている。医者に言われなくても、その命の炎が尽きかけているのはわかった。この数日中がやまだろう。

「わたしに考えがあるわ」

 桃鳥が言った。

 この期に及んで一体どのような手立てが残されているのだろうか。小典には想像もできなかった。

「ある人物に協力してもらわないといけないけれど、これがわたしたちができる最後の手立てになるかもしれないわ」

 いぶかる小典に桃鳥は、己の考えを言った。


 



 


 



 



 

 


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