第3話 松五郎

 広い奉行所内は、様々な部屋に別れている。しかし、小典が探している人物がいる部屋は大概決まっていた。

「桃鳥様、おられますか?」

 目当ての部屋の廊下で問うたが返事がなかった。部屋の中を見る。目当ての人物――黒葛太郎右衛門桃鳥くろつずらたろうえもんとうちょうは、部屋の反対側、狭い庭というよりも、板塀と部屋の空き地に生えている南天の木の前に立っていた。

「桃鳥様」

 小典は、廊下に座して威儀を正してから呼びかけた。

「桃鳥様」

 再度、声を低くして呼びかけた。

 明らかに聞こえないふりをする桃鳥に業を煮やした小典は、部屋の中に入っていった。もっと近くで呼びかけてやろう、と思ったからだ。

「桃……」

「これをごらん、小典」

 桃鳥は小典のほうを見ようともせずに南天の木を指さした。やはり聞こえていたのだ。腹が立ったが、しぶしぶ、視線を桃鳥の指し示すところへ動かす。ここで桃鳥を無視すれば、後々まで何かと言われるだろう。

 幹から枝分かれしている部分に何か白いものが纏わり付いていた。

「何かの繭ですか?」

 部屋の中からでは、細部までよくわからないが、枝のところに白い繭が連なっているように見える。

「ふむ。これは何かの病かもしれないわね」

「病?ここは北側の日陰。そうなっても不思議はないですね」

「勘三が庭木に詳しかったわね。後で見てもらえるように言っておいてちょうだい」

 勘三とは、この奉行所で働く下男のひとりである。

「ちょ、ちょっとどこへ行かれるのですか?」

 桃鳥は、さっと部屋に上がるとひとり部屋から出て行こうとしていた。

「髙気様から聞いたのでしょう?松五郎の事なら道すがら話すわ」

 そう言うとわんぱく小僧のようにニヤリと笑った。


「松五郎はね」

 と桃鳥は奉行所からやや離れてから話し始めた。

「わたしが使っている放免ほうめんの者のひとりなのよ」

 放免の者とは、王朝時代の検非違使庁けびいしちょうで、囚人の刑期が終わった者を下僕として使役していた者を指す言葉だ。今の世も与力同心は、個人的な繋がり、もしくは契約で公私にわたって下僕を使役する。公に認められているものもあれば、必要悪として目こぼしされているものもある。もちろん、小典も例外ではない。目明かしの卯之介と知り合う前は、幾人かの放免の者、もしくはいぬと呼ばれる下僕を使ってはいた。

「桃鳥様の?!なれば、どうして髙気様からのご依頼なのでしょうか?しかも、その松五郎が欲している白玉水を探してこい、などという奇妙な話しは今まで聞いたこともありませんよ」

 そうなのだ。髙気様からの依頼というのは、

〝松五郎なるものの欲している白玉水を探せ〟

 であった。

 驚く小典を尻目に、髙気様は、詳しくは黒葛桃鳥が知っている、と仰った。てっきり、複雑な背景の事件なのかと思いきや、松五郎は、桃鳥の使役している放免の者であるという。そして白玉水を探せ、である。もしほんとうに白玉水を探すだけならば、桃鳥から直接、小典に言えばいいだけだ。わざわざ、髙気様を通す必要はない。そもそも、なぜ、白玉水を探すのか、そこが一番の謎だ。

「まぁ、それはおいおい話していくわ」

 含みのある言い方をして、桃鳥は話を逸らした。

 小典は、内心、不満であったが、ここは桃鳥についていくしかない。

 桃鳥の足に迷いはない。颯爽と歩くさまは、まるで錦絵から飛び出してきたようだ。小典も背は高い方だが、桃鳥はさらに背が高い。よって目立つのである。道行く婦女子が振り返るのも無理からぬことである。当の桃鳥本人は、知ってか知らずか、時折、町人や商人に片手をあげて挨拶をしていく。顔見知りなのだろう。

「桃鳥様、一体どちらに行かれるのですか?そろそろ教えて下さい」

 すでに日本橋大伝馬町や小伝馬町を過ぎている。このままいけば……

「両国よ」

 桃鳥はいった。

「そこに松五郎がいるわ。江頼屋こうらいやという小間物屋の一間を借りてるのよ」

「江頼屋?江頼屋といえば、確か最初に桃鳥様と事件を解決した、あの江頼屋ですか?」

「よく覚えてたわね。そうよ」

 桃鳥は首肯した。

 一年半ほど前、新たな与力として赴任したばかりの桃鳥とはじめて解決した事件の舞台だった店だ。

「それは覚えていますよ。なにせ珍しい屋号でしたし、事件の内容も少し変わってましたから」

 それは、二朱銀だけが盗まれるといういっぷう変わった事件で、用心棒を雇っていても盗まれてしまうという事態を受けて、桃鳥と小典たちにお鉢が回ってきたという次第であった。

「まさか下手人が鼠を使うとは夢にも思わなかったですよ」

 そう。犯人は、信じられないことだが、鼠数匹を訓練し、二朱銀だけを盗ませていたのだった。

「しかも、〝鼠のお銀〟と呼ばれる女が下手人だったとは」

 お銀の年齢も齢六十はとっくに過ぎていると思われる老婆であった。小典は何度も驚かされた事件だった。

「ふふん。お銀婆さんは牢屋でも元気だそうよ」

 桃鳥が楽しそうに言う。

 捕まえたときのあのふてぶてしさ、開き直りは、いっそ気持ちのいいくらいであった。

「殺しても死なないとは、あの婆さんの為にある言葉ですね」

 お銀婆さんの強情そうな顔が目に浮かぶ。

「それでは、松五郎は、江頼屋と何か関係かあるのですか?」

「いや。まったく関係はない」

「ではどうして」

「わたしが江頼屋に松五郎の身元を引き受けてくれるように頼んだのよ」

 桃鳥が話す松五郎と江頼屋の関係はこうだ。

 松五郎は、元々、京の生まれ育ちであったが、訳あって江戸に出てきた。しかし、年のせいか体も弱り、とうとう床に伏せったきりになった。家族もなく、身寄りもない。そこで、思い出したのが江頼屋の主人、吉太郎であった。吉太郎も京の出身である。

「同郷のよしみというわけですか」

 人通りが多くなってきた。行き交う人々も旅支度の者が目につくようになった。もう少しで両国橋が見えてくる。両国橋は、武蔵と下総をつなぐ橋だ。そろそろ、江頼屋に行き着く。

 人々の活気のある喧噪の中に紺色に白地の江頼屋の江を染め抜いた暖簾が見えた。すでにお客とおぼしき人が数人、軒先の商品を眺めている。江頼屋だ。

「吉太郎殿はいるかしら?」

 桃鳥が、奉公人らしき女に声をかけた。女は、すぐにお店の奥に引っ込むと吉太郎を連れてきた。

 吉太郎は、この江頼屋の主人で壮年の人の良さそうな人相の男だ。一年半前とさして変わっていない。

「これは黒葛様」

 そう言うと頭を下げた。

「それと今日は鞍家様までご一緒で」

 桃鳥のことは当然だが、小典のことまで覚えていたことに少々面食らった。顔に感嘆の色が出ていたのだろう。吉太郎は、

「あれだけお世話になりましたお方のご尊顔は忘れませんよ。それに商人ですから人様のお顔を覚えないことには仕事になりません」

 と笑顔でいった。

「ささ、こちらへ」

 そう言って店の路地へと移動した。桃鳥、小典と後に続いた。すぐに、少し開けた庭らしい場所に出た。広くはないが、きちんと手入れされている庭だ。その奧に、真新しい小屋のような建物が建っていた。

 吉太郎はそこへ向かう。

「松五郎さん、黒葛様と鞍家様がお見えになられました。入りますよ」

 そう声をかけると、引き戸を開けた。そこは、八畳ほどの広さの一間があるだけだ。しかし窓が大きくとっているためか暗い感じはしなかった。その畳の上に布団が引いてある。老人がひとり半身を起こしてこちらを見ていた。

「急に訪れてすまないね、松五郎。体の調子はどう?」

 桃鳥は、部屋に入りながら聞いた。

「へい。おかげさまでなんとか生きながらえております」

 輪郭は丸く皺が深く刻まれた顔は、笑顔であった。どこにでもいる好々爺と言った風情だ。ふと、小典に視線を移す。

「これは、鞍家様。わざわざおいで下さいまして恐縮です」

 老人――松五郎は頭を下げた。この松五郎は明らかに小典を深く知っているような素振りであった。だが、小典自身は、初めて見る顔であった。

 桃鳥は、スルスルと部屋に上がると、松五郎の横にあぐらをかいた。小典も上がる。灰の臭いと何かを焼いた食べ物の匂い。そしてすえた老人の体臭。微かだが、木材の臭いもする。

「この建物は、まだ新しいのか」

 小典が聞いた。

「へい。そちらにいらっしゃいます吉太郎さんがわざわざ建て直して下さったんで」

「いやいや。たまたま建て直そうと思っていた時に、黒葛様からのお話があっただけですよ」

 吉太郎が笑って言う。

「松五郎が母屋で暮らすのは申し訳ないってきかなくてね。それならばってこの離れを吉太郎殿がわざわざ建て直してくれたのよ」

 桃鳥が言った。

 松五郎に限らず、すねに傷のある者は、概して堅気の人間と距離をとりたがる。それが、再犯を生んでいる要因のひとつなのであるが、桃鳥はその辺りを心配したのであろうか、などと考えながら、なぜ松五郎がこうまで大事にされているのかがいまいち分からなかった。

「失礼します。ご主人様、松橋様がお見えです」

 小屋の外から奉公人らしい女の声が聞こえた。

吉太郎は、今いきますよ、と声をかけてから、小典たちのほうに向き直り、ではどうぞごゆっくりと頭を下げて出て行った。

「それで松五郎。思い出したかい?白玉水のこと」

「白玉水……はて」

 桃鳥の問いに、松五郎は、一瞬考える素振りを見せたがすぐに顔を歪めた。

「あっしは、何か大事なことを忘れてしまったようで」

 ガックリと肩を落とすと下を向いた。泣いているのかと思ったくらいに顔を歪めている。

「いいのよ。松五郎」

 桃鳥は、子どもをあやすように優しく言った。

「そのうちに思い出すわ」

 桃鳥が背中をさすっている様は、歳を重ねた父親を慰める息子然として見えた。そして松五郎は、とうとう嫌々をする子どものように頭を振って抱えはじめた。

「さあ。そろそろ横になりなさい」

 松五郎は、桃鳥に抱かれるように抱えられて横になった。

「何も気にする必要はないわ。きっとすぐに思い出せる。さぁ、目を閉じて」

 桃鳥は、横になった松五郎の胸を赤子にするように優しく叩きはじめた。そのうち、松五郎から寝息が聞こえはじめた。

 桃鳥は、小典に目配せするとそっと部屋から出た。小典もそれに続いた。



















 








 


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