第2話 ご下知

「おい、鞍家。髙気様がお呼びだ」

 同僚にそう言われたのは、ちょうど、未の刻(14時)を過ぎた辺りであった。

 小典は、書類を書く手を止めて「はい」と答えた。

 静かに膝行して部屋から廊下に出る。立ち上がり、歩き出すと密かにため息をついた。嫌な予感がしていた。

 髙気様――年番方である髙気平兵衛景澄たかぎへいべえかげすみは、この南町奉行所の奉行である重藤図書助公連しげふじずしょのすけきみつらの右腕と呼ばれている御仁で、この奉行所を裏側で仕切っているお方だ。なんでも京都奉行所での重藤様の活躍を聞きつけた時の幕閣たちが、是非にと南町奉行所に赴任するよう働きかけたところ、髙気様を連れて行くことを第一条件にしたと言うぐらいだから、相当に信任されているのだろう。事実、髙気様が事務方の差配を始めてから滞る事は全くなくなった。同僚のひとりは、法力でもあるのではないかとその仕事ぶりに舌を巻いていたぐらいだ。

 奉行所内の廊下を歩いて行く。髙気様の部屋まで行くと廊下に座り、おとがいを告げる。

「鞍家小典にございます。お呼びでしょうか、髙気様」

「おお、鞍家殿。遠慮することない。近くまで来てくれ」

 髙気様は、そう言うと文机で書き物をしていた手を止めて、小典を招いた。

 小典は、部屋に入り、正面を外して座り平伏する。

「鞍家殿、そうお堅いことはなしにしましょう。面を上げて下さい」

 髙気様の言葉に苦笑が混じっているのが感じられる。小典は、面を上げて髙気様を見る。

 鬢に白髪が多く混じっている壮年の男が苦笑していた。

 髙気平兵衛景澄その人である。

 やや小柄な体躯であるが、弱々しい感じがしないのは、気力がみなぎっているからだろうと小典は常々思っている。そして、相対すればそれが事実であるのは誰でもわかる。圧がある。しかし、嫌な感じはしない。清浄な神社仏閣の気のようだ。歳は、奉行である重藤図書助公連様の齢五十よりも、幾つか下だと聞いているが、白髪のためか年上にも見えなくもない。だが両の瞳は満々と理知的な光を放っている。それが、一種の不可思議さを見るものに与えていた。

「して、御用向きはなんでしょうか?」

「ふむ……」

何かを思案するように顎に手をおき、髙気様は、たっぷりと間をとってから問いかけた。

「……鞍家殿は、今、抱えている事件はおありかな?」

「有難いことにこれといってありません」

 小典は、定廻り同心である。地区を割り当てられており、そこで起きた事件などは当然、小典が担当する事になる。同心には、他に臨時廻り同心、隠密同心がある。それらを総称して廻り方、三廻りとも呼ぶ。廻り方の人員は極端に少ない為、事件を抱えていないことの方が少ない。今は、その事件の少ない珍しい時期であった。

「そうか」

「はい」

「ならば、ひとつ事件を担当してもらえまいか」

 小典は、内心、やはりと思った。しかしそれを悟られないように無表情を貫いた。

「無論、鞍家殿の担当地区で事件があったら、そちらを優先してもかまわない」

「急を要する事件ではないのですか?」

「ああ。急は要しないのだが……」

 口ごもる髙気様に小典の嫌な予感は益々高まった。

「……少々、変わっておってな」

 小典は天を仰ぎたい気持ちであった。

 予感は当たってしまった。

 髙気様からのご下知がある事件は、いつも変わっているのである。





 

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