episodeー6

 エレンの店から出たのは十二時を回った頃だった。

 少し強いと言われていた酒を暖かい所で飲み過ぎて、足元がふわついていた。

 心配そうに送ろうか、と声を掛けてくれた一哉いちやを丁重に断って冷たい夜気の中を駅までフラフラと歩く。


 会いてぇな。秀雄ひでおに。

 今までそんな事思った事なかったのに、いや、あったのかも知れないけれど寝たら忘れてしまうから記憶にない。

 あの日の秀雄の「ごめん」が頭から離れてくれなくて、何も言えてない自分が酷く薄情に思えて、結局の所、秀雄がどんな気持ちでいるのかが気になって仕方がない。


「何で謝ったんだろ……」


 空晴そらはるの独り言は裏路地の如何わしいネオンライトを避ける様にして、暗がりへと吸い込まれて行く。

 秀雄がバイトしているコンビニの灯りが見える所まで来ると、空晴は遠くからそれをボンヤリと眺めた。

 酔った眸は熱を帯びて潤んでいて、視界が滲んでしまう。

 これじゃあまるで自分がセンチになって落ち込んでるみたいじゃねぇか、と思いっきり鼻から息を吸った。

 冷たい排気ガスの埃っぽい匂いに眉間の皺が寄る。


 硝子越しに見えるコンビニのレジには秀雄が呆けているのが見えた。

 暇過ぎて欠伸でもしそうな間抜けな面で、視点の定まらない眠そうな顔をしている。

 両手をポケットの中で握りしめた空晴は「怠そうな顔しやがって」と苦笑した。


 なぁ、秀雄。

 どんだけ悩んで、どんだけ無駄に足掻いて、電車の中で言おうって決めたんだよ。

 お互いの家だと俺が逃げ出すと思ったのか?

 それとも沈黙に耐える自信がなかったのか?

 電車の中じゃ逃げようがないもんな。

 俺が都合が悪くなるとすぐ誤魔化して逃げんの、知ってるからだろ。

 ヘタレで、暗い話とか難しい話とかされると全然聞いてねぇの、お前が一番良く知ってんだもんな。

 あの日、もっとちゃんとお前の話聞くべきだったよな。

 言葉に困ったお前が居酒屋に行くかどうかを確認して来たのは、その後も一緒に飯食ってくれるのか不安だったんだよな。

 ごめんな、秀雄。

 いつも頑張らないお前が、すげぇ頑張ってるのに……ごめん。


「うし、行くか」


 空晴は一通り反省と謝罪を繰り返し、コンビニの自動ドアの前に立った。


「いらっしゃ……」

「よ」

「空……何してんの? こんな時間に」

「飲んでた。マルボロ、ライトちょうだい」

「煙草……また吸い出したの?」

「今日だけ。飲んだら吸いたくなった。ついでにライターも」


 レジ横に置いてあるライターを一本取って差し出す。


「えと、どれだっけ……」

「99番」

「あ、これか。お会計590円になりまーす」


 小銭を渡して煙草とライターをポケットに入れた。


「上がり、もうすぐだろ……待ってっから、一緒帰ろうぜ」

「え、でももうすぐ終電いっちゃうよ?」

「ニケツで良いじゃん。チャリで来てんだろ?」

「……寒いよ?」

「お前だって寒いじゃん」

「い、良いけど……」

「寝んなよ」

「ね、寝ないよ!」


 駅から出て直ぐの所にある自転車置き場の縁石に座り込んで、約一年ぶりくらいの煙草に火を点ける。

 姉が小さい子供を連れて実家に帰って来たのをキッカケに禁煙した。

 値上がりとか、家に子供がいるとか、秀雄が煙草が嫌いだとか、色々理由は重なって、やっと踏ん切りついただけの事だったけど……久しぶりの煙草は不味い。


「げぇほっ……まっじぃな……」


 格好つけたくて煙草を覚えた。

 秀雄は口に出して言わないけれど、いつもムッツリしていい顔しなかった。

 悪乗りして勧めてみても秀雄が煙草を吸う事はなかったな、と思い出す。

 嫌いなんだな、と分かっていたけれど何も言わないからずっと吸い続けた。

 何か言われたらお前の母親だって吸ってるだろ、って言い返してやるつもりだったのに、秀雄は空晴が煙草を吸っている事に口を出して来る事は無かった。


「あいつは何も言わねぇな……」


 今頃になってそんな事に気付く。

 勝木が言っていた様に、分かっているつもりで実際の所自分は秀雄の事をこれっぽっちも分かっていなかったのかも知れない。

 何でも知っている気になって、見ている様で見ていなくて、聞いている様で聞いてない。

 一番近くにいるヤツなのに、死角にいるみたいに見えてなかったのかも知れない。


「お待たせ……」

「おぅ」

「帰ろ」

「うん」


 近くに置いてあった灰皿に煙草を投げ入れて、秀雄のチャリの後ろに乗った。

 細くて姿勢の悪い背中は、相変わらずだ。

 やっぱりあの赤いパーカー似合うと思うんだよな。

 去年買った珈琲色のダウンベストにも合いそうだし、秀雄は年中デニムだし。


「なぁ、秀雄! 公園寄ってかね?」

「はぁ? 何、公園つった? 寒いじゃん」


 耳を横切る風に負けないように声を張る。


「いいじゃん! ちょっとだけ!」

「いいけどさぁ! ちょっとだけだかんね!」


 秀雄は大抵NOと言わない。

 空晴はそう言う所が自分と似ているから、拒絶しない秀雄を安心して誘える。

 勿論秀雄が何か誘って来ても、余程苦手な所でない限りは付き合う。

 昔断固として断ったのは、スプラッタ映画くらいだ。ホラーまでなら許せるが、血腥いのは苦手だった。


「よっと……着いた」

「テントウムシ、行こうぜ、秀雄」

「えー……冷たいじゃん」

「落ち着くじゃん、あそこ。風も通らないから寒くないって」


 自宅と小学校の間にある公園にはテントウムシを模したセメントで出来たドーム型の遊具があって、中は入れるようになっている。

 いつも学校の帰り道はその公園で遊んで帰るのが日課だった。

 昔から家に安息の地がなかった空晴と秀雄の秘密基地でもある。

 だがしかし、秋の夜長に二十五歳、成人男性二人で入る所では無い。


「何? 空の新しい恋バナ?」

「ちげーよ!」

「ここ来る時、いっつも恋バナじゃんか……」

「お前の話だよ」


 お前の話だと言われて、秀雄は無言になった。

 屈んで薄暗いテントウムシの中に入ると、懐かしい砂の匂いに、苦い煙草の匂いが鼻につく。砂場の砂が入り込んでいて、ジャリジャリと足音が響いた。

 冷たいセメントの上に腰を下ろした空晴には、隣に座った秀雄が暗がりの中でどんな顔をしているのか見えなかった。


「俺、エレンさんに、会って来た」

「……え?」

「まぁ、一哉さんも一緒だったんだけどさ」

「な、何で……?」

「何でって……良くわかんねぇけど……今日コンビニに来てた金髪の人がお前の言ってるエレンさんだろ?」

「あぁ……うん……」

「本気、なの……?」


 返事がなかった。顔も良く見えなくて、ただ空晴は「本気だ」と言うであろう秀雄の次の言葉を待っていた。

 なのに、秀雄は予想もしない事を口走る。


「どうだって良いじゃん。空には、関係ない事でしょ……」

「は? 関係ないってどういう事だよ?」

「本気なら応援するけど、そうじゃ無かったら止めろとか言うつもりなの?」

「いや……そうじゃねぇけど……」

「俺、頑張るっつったじゃん。なのに、何でコソコソ会いに行ったりすんの?」

「お、俺は別にコソコソしたわけじゃ……ただ、お前が好きな男がどんなヤツか気になっただけだろ」

「親じゃないんだからさ、ほっといてよ」

「ほっとけるわけねぇだろうがっ! お前何キレてんだよ?」

「別にキレてないよ。俺、空に彼女出来てもその子の事見に行ったりした事ないし、口出した事もないと思うけど? 相手が男だから? 普通じゃないから? それとも俺がバカだから心配してくれてんの?」

「ふっざけんなよ! お前、あのエレンって人には本命の恋人がいるんだぞ! お前が傷つくかもしれないのに、ほっとけるわけねぇ……」


 テントウムシの硬い内壁に跳ね返って来た自分の声は、煩い程鼓膜に響いた。

 言ってしまったが後の祭り。ヤバいと思っても、口から出た言葉は取り消すわけにいかない。

 

「ははっ、知ってるよ、そんな事……」

「え……知って……え?」

「たまに一緒に来るから、その恋人と……。でも、そんな事どうでも良い」

「どうでも良いって……お前……」


 本命がいても諦めきれないくらい好きなのだと言われた様で、空晴はまた言い様のない感情が蟠って行く。

 

「別に、付き合いたいとか思ってるわけじゃないから……」

「でもお前、頑張るっつってたじゃん……」

「頑張るよ……好きな事を頑張る」

「お前何言ってんの? 俺、全然わかんねぇんだけど?」

「だから空には分からなくて良い事だって言ってるじゃん……。男好きになった事もない空には、一生分からなくて良い事なんだよ」

「お、俺は! 男好きになった事はないけど、お前の事なら分かる自信がある! つーか、俺が分からなきゃ、お前の事分かるヤツなんかいねぇだろ! 言えよ、秀雄。お前の話、ちゃんと聞くから!」


 そうだ。秀雄の事なら分かる。だって、自分が一番知ってるはずなんだから。

 分からないなら、分かろうとすれば良い。

 秀雄の事で他の誰かに出し抜かれるのは、もうごめんだ。

 十八年の付き合い。親友と言う称号に値するのは自分だけだ。


「ホント……空って、バカだよねぇ……」


 秀雄の声が少しくぐもって聞こえた。

 

「お前にだけは言われたくねぇっての……」

「何でそう言う事言うかなぁ……狡いよなぁ……」

「狡いって何だよ? 別に狡くはねぇだろ」

「皆が皆さ、空みたいに真っ向勝負出来るわけじゃないんだよ。お前は自分の気になる子見付けたら勝算無くても突っ込んで行くけどさ……。フラれるくらいならただ好きでいたい事だって、あるんだって」

「そんなに好きなんか……エレンさんの事」

「……」


 返事はなかったけれど、否定しないと言う事はそう言う事なんだろうと空晴は漠然と思った。

 ただ、その漠然とした感情の中に、自分でもどう扱って良いのか分からない感情が混じっている。


 嫌だ――。

 こっちを見てない秀雄が嫌だ。

 どっかに行こうとしてる秀雄が嫌だ。


「何か……ごめん。俺、ちょっと淋しい気がする」


 空晴の口から零れたその一言は、何の計算もなく吐き出された言葉だったのに、秀雄は「なん、それ……」と零してまた、泣いた。

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