episode―7
あの後、
置いて行かれた
あんな風に泣くヤツだっただろうか。
苛められてもヘラヘラしてたのに、失敗してもキョトンとしてたのに、ここ最近、見た事ない秀雄ばかり見せられている。
空晴は翌日休みだったが、あまりにも寝つきが悪くて昼頃まで寝入ってしまった。
起きても体は怠く、何か呆然として、窓の外が真青な秋晴れなのも疎ましい。
「狡いって……何だよ……」
拒絶しない秀雄があんな風に地味にキレて言葉を返して来た事は、今まで記憶にない。秀雄が何であんなにキレていたのか、空晴には微塵も検討すらつかない。
分かろうとしたのに、聞こうとしたのに、秀雄の方から拒否るとは何事だ。
エレンに会いに行った事が拙かったのか、そもそも男を好きになった事がない自分が単純に「分かる」なんて言った事が秀雄の癪に障ったのか。
だけど、分かんねぇものは聞くしかねぇじゃんか。
大体アイツは何が気に入らないんだ? と段々腹が立って来て、空晴は潜っていた布団から這い出した。
ウダウダするのは性に合わないとベッドから起き出し、身支度を整え、秀雄の家まで押し掛ける事にした。
プリントのTシャツにミリタリージャケットを羽織り、緩いサルエルパンツを履いて寝癖の付いた髪を半分掻き上げコンチョの付いたヘアゴムで束ねた。
踵の擦れた履き潰したスニーカーを引っ掛けて、天気のいい平凡で何の変哲もない休日。いつもなら、気分が良くなってチャリでも引っ張り出してコンビニでビールでも買って遠出しているくらいいい天気だ。
なのに、秀雄が自分を拒否るだけでこんなにも風景が煤けて見えるものかと思う。
徒歩五分、ボロアパートの二階。
錆びれた階段は今にも崩れ落ちそうだし、階段の手摺に括りつけられている「月美荘」と言う過分に上等な名前の書かれた看板が、残念な感じに傾いている。
どこからどう見ても昭和築の古いアパートなのだが、昔の大家が月見草が好きだったとかでそんな名前なのだと、秀雄が言っていた。
「あら、空ちゃんじゃない。久しぶりねぇ」
「あ……ママさん」
秀雄の母親がコンビニの袋を下げて立っていた。
ばっちりメイクしている所を見ると、今から出勤なのだろうとすぐ分かる。
空晴はこの若い秀雄の母親が家にいる時はスッピンで眉毛のない別人だと言う事を昔から知っている。
十八の若さで秀雄を生んで、夜の仕事をしながら奔放に恋をし、息子を溺愛し、いつまでも気の若い母親だ。
「もしかして、ヒデちゃんのお見舞いに来てくれたの?」
「お見舞い?」
「あの子ったら昨日から熱出したとかで、たまたま電話したら声も変だし、出勤前に様子見に来たのよ」
「様子見に来たって……どこから? ママさん、今どっか行ってるの?」
「あらやだ、聞いてないの? 私、今年再婚したのよ。ヒデちゃんも一緒に暮らそうって言ったんだけど、流石に二十五になって新しいお父さんって言われてもシックリ来ないみたいで、今ヒデちゃんはあそこに一人で住んでるの」
「聞いてない!」
「あらぁ……ヒデちゃんったら、空ちゃんにも内緒にしてるなんて、彼女でも連れ込んでるのかしら?」
「か、彼女……?」
「あの子ったらそう言うの全然教えてくれないのよ? 空ちゃん、何か知ってる?」
「……いえ、俺も聞いてない……っす」
流石に親には男が好きだとは言ってないらしい。
家にはママンの彼氏がいて落ち着かないから、と秀雄はいつも
「空ちゃん……?」
「え、あ、はい?」
「何か、元気ないわね。ヒデちゃんと喧嘩でもしたの?」
「あ、いや……そうじゃないですけど……」
「じゃあ、はいコレ」
「え?」
「プリンとかスポドリとか一応買って来たから、ヒデちゃんに渡しておいて。あんまり熱が高い様だったら、電話する様に伝えてちょうだい」
「あ、え……会って行かないんですか?」
「私がいると話しにくい事もあるんでしょ? 一人暮らしの事、空ちゃんに黙ってるなんてよっぽどなんだから、二人でゆっくり話すと良いわ」
四十過ぎには見えない秀雄の母親は、そう言って綺麗にデコレーションされた長い爪のついた人差し指を頬に当てて「じゃーね」と笑って帰って行った。
軋む階段を上がって秀雄の家の前に辿り着いても、すぐにインターフォンを押せない。一人暮らしなんて始めたのなら、秀雄の事だからすぐにでも言いそうなのに、今の今まで黙っていた事が空晴の中で一抹の不安を生んだ。
「俺、もしかして嫌われてんの……?」
一人暮らしを始めたと聞けば、多分きっと自分は秀雄の家に入り浸るだろう。
ほぼ毎日のように顔を突き合わせているわけだし、小さい子供が走り回る自宅に帰るより、よっぽど秀雄と二人でいた方が楽しい。
そうなる事は空晴だけじゃなく、秀雄にだって想像出来たはずだ。
だけど、秀雄はそれを隠していた。
そこまで考えて空晴は、それ以上考える事を拒否した。
嫌われているなんて、微塵も掠った事ないのだ。
この十八年、もしかしてそうかもしれないと疑った事すら無い。
空晴は錆びて塗装の剥げた安っぽい鉄扉の前で、微動だに出来ない程のショックを受けていた。
一緒にいれば同じ様に楽しいのだと思っていたし、それを改めて考えたりした事はない。秀雄がゲイだとは知らなかったけど、それなりに仲良くやって来たつもりも十分にある。なのに、どこかで何かがずれていたのだとしたら、今感じているのが本当の疎外感と言うヤツだ。
あの時、烏呼者で
自分以外の誰かが、自分より先に秀雄の事を知っていたり、秀雄の気持ちが分かってしまう大人な男が秀雄の横で笑っていたりする事に、苛ついていた。
何で俺じゃないんだって、ずっと思っていた。
それに輪をかけて秀雄から「分からなくて良い」などと言われて拒否られ「狡い」と罵られ、挙句泣かれた上に、隠し事まで出て来たのだ。
じんわりと秀雄の存在が遠い事に気付いてしまった空晴は、ただただアパートの古い扉の前で佇むしかない。
ドアノブにコンビニの袋を掛けて立ち去ろうとした時、ガコンと言う情けない音を立てて扉が開いた。
「……何してんの? 空」
「……別に」
「ママンからライン来た。家の前で空ちゃんに会ったから、食料渡しておいたって……」
「あ、そ……。これ、ママさんがお前にって買って来たヤツ」
「あがってけば?」
「いい、帰る」
「空……?」
額に冷却ジェルシートを貼った間抜けな秀雄は、よれたスウェットの裾に片手を突っ込んでボリボリと腹を掻く。
「熱、あんだろ。ゆっくり寝てろよ」
「別に、知恵熱みたいなもんだから
「でもキツイんだろ? 俺は別に用があって来た訳じゃねぇから」
「……用もないのに、人んちの前で何してたの?」
「悪かったよ。もう来ねぇから」
逃げ出したくなった。
泣き出したい衝動もあった。
今すぐここから走り去って、嫌われている現実から一歩でも遠ざかってしまいたい。秀雄に嫌われたら生きて行けない。そんなバカな事すら真面目に思う。
そんな事あるかと言われたって、今はそう思えてしょうがないのだ。
身を翻し階段を駆け下りようとした時、ジャケットの背中を引っ張られて後ろに仰け反った。
「空! お願い……帰んないで……」
秀雄のその科白が、空晴の涙腺の熱を上げる。
ギリギリ堪えていた物が、滔々と溢れ出して、空晴は俯きがちに瞼を伏せた。
「うん……」
詰まった喉の奥からようやく転がり出て来た短い言葉が、ヘの字に曲がった口の端から情けなく零れた。
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