episodeー3

 ほんの少し生まれて来のが先だと言うだけで、こんなにも違うものだろうかと思わされる事がある。

 美姫みきが連れて来た綿貫一哉わたぬきいちや瀬良常陸せらひたち空晴そらはるから見たら自分より遥かに大人で、要所で秀雄ひでおや自分に話を振って来ては美姫の暴言を上手くフォローしてくれて、普段は人見知りをする秀雄も少しばかり酒がすすんでいる様に見える。


「メイグイチュウ、頼まないの? ピーカン」

「いや、それ俺が言ったんじゃない。秀雄が……」

「飲みたいの?」


 隣に座る常陸にそう聞かれて、呆けた様に秀雄はコクリと頷いた。

 それが本心では無い事に気付いたのは多分空晴だけだ。

 ただ漢字が読めるか? と言う会話をしていただけで、酒に強くない秀雄はそれを飲みたかったわけではないだろう。

 断り辛いのかも知れないと思って、助け舟のつもりで空晴は口を開いた。


「もう止めとけば? お前、酒、強くないんだから」

「……だ、大丈夫だよ」

「あぁ、じゃあ秀雄くん、僕が頼んだヤツ少し飲んでみる?」

「あ、じゃあ瀬良さんの一口貰って良いですか? へへっ……」


 何故だろう。今までだって男と喋っている秀雄は何度も見て来たはずなのに、男子校で男の中にいる秀雄なんて気にも留めた事無かったのに、常陸と言う美形の隣で頬を赤く染めて甘えた様に笑う秀雄に、空晴はモヤモヤしたものを感じていた。

 

「お前は、何でそんな顔して睨んでんのよ? ピーカン。別に良いでしょ? ヒデだって社会人なのよ。酒でちょっと踏み外したくらいじゃ死にゃしないわよ」

「な、何だよ!? 美姫姉ちゃん! 頭触んなっ! 別に……俺は何も言ってねぇじゃん」

「玩具とられた子供みたいに不貞腐れてんじゃないよ」

「ちげーって!」

「あ、空も飲みたい? なら、俺頼むよ?」

「だから、ちげーってばっ!」


 訳もなくイライラした。

 よく分からない感情が空晴の胸の辺りをグルグルと徘徊している。

 頭が悪いから、空晴にはそれが何なのかなんて分かる筈もなかったけれど、妙に絡んで来る美姫のせいで、眩しい年上のお兄さんのせいで、空晴の中には名前も知らない感情が我が物顔でうろついていた。


「甘い香りがするよ」


 店のオヤジが出して来た鼈甲色の酒はコリンズグラスに入れられていて、常陸は細い指で綺麗にそのグラスを秀雄に差出した。


「ホントだ……いい匂い……」

「ハマナスの花を漬け込んだ酒だからな。味も甘めで香りが良い」


 常陸の隣に座る一哉がすかさずそう付け加えた。

 男らしい低い声なのに、少し甘く感じるのは酒のせいなのだろうかと空晴は一哉の顔を見遣った。節の目立つ大きな手や少し掘りの深いハッキリとした顔立ち、長身で物腰も柔らかく、一哉を見ていると自分がガキに見えてしまう。

 中肉中背、何をやっても普通の粋を出る事はなく、自分よりおバカな秀雄と一緒にいるのは自尊心が保てるから心地良い。

 なのに今の秀雄は全く知らない男の様で、やっと名前も知らない感情が何なのか分かりかけた所に美姫が不躾に割り込んで来る。


「ピーカンはハマナスの花言葉、知ってる?」

「し、知るわけないだろ……」

「だよねぇ」

「何だよ……バカにしやがって……」

「実際バカなんだから、気にするな」

「おい、委員長……お前、飲み過ぎだ。真島くんに失礼だろうが」

「ワタイチは? 知ってる? ハマナスの花言葉」

「俺が知ってる様に見えんのか?」

「見えるわけない」

「じゃあ、聞くんじゃねぇよ」


 何で自分がこんなに肩身の狭い思いをしなければならないのだろう。

 どうしてこんなに淋しいのだろう。

 親友が恋をしたのなら応援してやるべきだし、勿論軽蔑なんてしているつもりはないのに、上手く言葉が出ないのはやっぱり自分がバカだからなのだろうかと、空晴は鬱々と沈殿するヘドロの様に沈んで行く。

 あぁ、これって疎外感ってヤツだ、といつもより三割増しで苦いビールを口いっぱいに含んだ。


「悲しく、そして、美しく……」


 ボソリと呟かれたその言葉は、常陸の声だった。


「正解! さっすがセラヒタ!」

「何かの本で読んだだけだよ」

「ヒデには似合ってるかもね」


 ほんのりと淡く染まった頬を預ける様にテーブルに片手を付いて、伏し目がちにそう零した美姫はゆっくりと口角を上げた。


「ヒデは好きな人とどうなったの?」


 美姫から唐突に切り出されたその話に、空晴は弾かれた様に顔を上げる。


「み、美姫ちゃん……こんな所で、その話は止めてよ……」

「あぁ、大丈夫よ。こっちのオッサン二人はあんたと同類なんだから」

「おいこら、委員長。人のプライバシーを勝手にカムアウトしてんじゃねぇぞ」

「別に良いじゃない。秀雄にもゲイ友作ってあげたいだけよ」

「なっ……なんで知っ……えっ!? 美姫姉ちゃん、いつ……から……?」


 空晴にとって美姫の男前な同級生が二人揃ってゲイであった事より、秀雄がそうであった事をさも当然の様に知っている美姫の方が由々しき事態だった。

 そしてその上、エレンと言う好きな人の話を自分よりも先に美姫にしていたと言う事に、また追い打ちを掛けられる。


「え、いつとか覚えてないわよ……。あんた、何年ヒデと一緒にいるのよ? 見てりゃ分かるでしょうが」

「わ、わっかんねぇよ……俺、今日聞いたばっかだし……」

「だからあんたはバカなのよ」

「でも、気付かないでいてくれる方が秀雄くんにとっては救いだったかもしれないよ」


 そう言って空晴を見たのは、優しい顔で微笑んでいる常陸だった。


「僕らも高校くらいの時は狭い世界の中で自分がそうだと自覚したばっかりに、友達とかとても意識した覚えあるから。真島くんの様に全く気付かないでいてくれる友達は一緒にいても安心だし、居心地良かったからね」

「あぁ、確かに。変に気付かれた様な素振りあると疑心暗鬼なるよな」

「一哉は何にも気にして無かったと思うけど?」

「常陸、俺だってお前との事は隠そうと言う意思はあったぞ」

「気持ちがあっても行動が伴ってなかった気がするけど……」

「あんた達、学校でもベッタリだったもんねぇ……」


 美姫はそう言ってつまらなさそうに焼き鳥を頬張った。


「あは、でも、今日バラしちゃった……。空、黙っててごめんね」

「……いや、俺は別に」

「俺ね、好きな人出来たから、頑張ってみるから……」

「お、おう……」


 頑張れよって、何で言えないんだ。

 骨格の全てが軟骨で出来てる様な緩くて覇気のない秀雄が、頑張るって言ってんだぞ。親友の自分が頑張れって言わなくてどうするんだ。

 空晴は頭でそう思いながらも、心が追い付いてこなくて、表情筋の動かし方を忘れてしまった様に口を噤んでしまう。


「シカをウマと偽る……。ヒデ、あんた本物だったのね。恐れ入ったわ」

「……香坂、顔が怖い」

「セラヒタは黙ってて」

「美姫ちゃん、俺ね、好きな人出来たんだよ。エレンさんって言うんだ」

「ぶっ! ちょ、げほっ……けほっ……」

「大丈夫か? 常陸」


 秀雄の隣にいた常陸が勢いよく酒を噴いた。

 一哉は慌ててオシボリを常陸に渡して、何だか気まずそうに常陸と視線で会話している。その様を見て、エレンと言うのがこの二人の知っている男なのかも知れないと思い当たったが、それを明かす気はない素振りが見て取れて、空晴はそこに触れるのを思いとどまる。


 目の座った美姫に視線を合せた秀雄は、思いの外怯んで言葉を失くした。

 美姫が何で怒っているのか、秀雄がどうしてその美姫に尋常じゃ無く怯えているのか、空晴は状況が全く読めなくて黙り込んだまま手に汗を握る。

 香坂美姫は怒るととんでもなく怖い。

 それは空晴も秀雄も幼い頃から嫌という程知っている。


「ねぇ、ヒデ。馬鹿の由来を知ってるかしら? シカをウマと偽って王様に献上して、権威に怯えた家臣は王様にこれはウマだと言い張るのよ。でも王様はそれがシカだと知っていたから、ウマだと言い張った家臣を全て殺してしまうの」

「み、美姫ちゃん……あのね……」

「あんたみたいに恋じゃないものを恋だとか言い張ってたら、その内死ぬわよ」


 美姫は食い尽くして身のない焼き鳥の串で秀雄を指している。

 鋭利なその串の先に勝るとも劣らない眼力で、か弱い小鹿を睨んでいた。

 酒に焼けた咽喉から低く絞り出された美姫のその科白に、秀雄は何も言い返せず

 困った様に眉尻を下げて俯いてしまう。

 そんな秀雄を見て、空晴は僅かな安堵を感じた。

 なぁんだ、おバカな秀雄の思い込みか、と。

 好きな人が出来たつもりになって、実は恋に恋していた事を美姫に見抜かれてしまったのだろうと。


「美姫姉ちゃん、そんな怒るなよ。秀雄だってちょっと浮かれた気分になりたい時もあるって事だろ?」

「ピーカン」

「な、何だよ……」

「ヒデがバカならお前はオオバカだよ」


 不意に頬に当てられた美姫の手に、空晴は口を開けたまま間の抜けた顔で目を瞬かせた。それも束の間、容赦なく左の頬を抓られて「いだだだだだ」と子供の様に声を上げ悶絶する。

  

 美姫は怒って五千円札をテーブルに叩き付け、一人で帰ってしまった。

 抓られた頬を自分で擦りながら、秀雄を見て固まってしまう。

 何でも意に介さぬ素振りでのらりくらりと生きている秀雄が眸にいっぱい涙を溜めて堪えている。苛められたって、秀雄はこんな泣き方した事はない。

 堪えて、何かに抗って、それでも溢れてしまうものが秀雄を翻弄している。


 悲しく、そして、美しい――――。

 そんな何かが秀雄を泣かしているのだと、自分の知らない秀雄がそこにいた。

 空晴は胸に胃痛に似た鈍い痛みを覚え、眉根を寄せ歯の根を噛んだ。

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