episodeー2
自宅近くの駅で降りてまだ発作を起こしかねない程忙しない心臓を抱えて
隣では
「居酒屋で良いよね」
秀雄は分かり切った事を敢えて聞いて来る。
いつもそうしているし、行く店は決まっている。
喋る事に困っていると言う事を匂わせないつもりで無駄に足掻いた結果、逆に不自然な会話を投げてしまった様だ。
「あぁ……」
空晴は短くそう答えて、どうせいつもの自宅近くの小汚い居酒屋に行くのだろうとそれきり黙る。
流石にシレッとした風を装ってはいるが、突拍子のない事を言っている自覚くらいはある様だ。いつもなら糠に釘、暖簾に腕押しを体現している秀雄も僅かに緊張しているのだと分かる。
そしていつもの自分なら「冗談だろ、バーカ」で済ませて話を聞きもしないのに、今日ばかりはどう対するのが正解なのか分らないほどに空晴は動揺していた。
お互いモテる方じゃ無かったし、エロいDVDを貸し借りしても、グラビアアイドルに賛否両論繰り広げても、今まで何の違和感も感じた事は無かった。
空晴にとって秀雄はどうしようもなく学習能力の低い天然系のダメな男だったはずなのに、唐突に恋の話を持ち出して来た挙句、その対象が同性であると宣ったのだ。
一体いつから? 何でそんな事に? そしてそのエレンと言う男とどうやって知り合った?
家も近い上に職場も近い。
一緒にいない時間はお互い仕事かバイト。
一人で何処かへ行けばお互いすぐ話題に出すし、空晴は自分の知らない秀雄がいると言う事に一番驚いていたのだ。
しかもそれが、予想もしない方向から降って湧いたお蔭で空晴の単純且つ短い思考回路は綺麗にプッツリ途切れた。
お互いの家からほど近い「
店の前にはゴミの収集場所があり、烏を呼ぶなんてシュール過ぎる名前を付ける居酒屋のオヤジは堅物で仏頂面の癖に、昔は戦場カメラマンをしていたと言う驚きの経歴を持っているオヤジだ。
「いやっしゃい」
「ばんわぁ……」
「何だ、お前達か。奥の席空いてるぞ」
「ありがと、オヤジ」
空晴は背負ったリュックを小上がりになった奥の席に放り込み、スニーカーを乱雑に脱ぎ座敷へと這い上がった。
ついでに肩の辺りまで伸ばしている髪を無造作に括って、邪魔にならない様に緩く纏めた。
秀雄は妙な所で律儀な所があって、空晴が脱ぎ捨てたスニーカーと自分が履いていたスリッポンを綺麗に並べて置いている。
常連と言って良い程、秀雄と一緒に通っているこの居酒屋は築四十年近い古い木造の小さな店だ。
空晴の自宅は去年の暮れに離婚して戻って来た姉と甥と姪がいて家の人口密度が相当高く、秀雄の家には頭の螺子がぶっ飛んだような母親がいる。
母子家庭と言うヤツで、昔から夜のお勤めをしている秀雄の母親は、昭和の古い映画に出てくる様な貞操観念の低いホステスを思わせる緩さがある。
家には母親の彼氏がいたりして、秀雄もまた家には居づらい事情があった。
だがその割に秀雄の母親はバカな息子を溺愛していて、社会適応出来ない息子を過剰に心配したりする。
空晴は秀雄の保険の様なもので、空晴と一緒だったと言えば母親が安心するのだとずいぶん前に聞かされた事があった。
二十五になった男二人、家に居づらい事も多くて良くこの店で晩飯を食って帰る。
「今日、俺、おでんにしよっかなぁ」
空晴は努めて冷静に、普通に、切り出した。
またさっきの話に立ち戻れば、自分が何を言うか自分でも皆目見当がつかない上に、黙っていると秀雄の方から切り込まれそうな僅かな恐怖感があった。
「あ、うん、いいねぇ……夜ちょっと冷えて来たしね」
「もう九月も終わりだしな」
「なのに冷やし中華とか買うから、温めますか? とか聞いちゃったっつの」
「いやそれはお前が悪ぃだろ、どう見ても」
うん、いいぞ。この調子なら、いつもの感じで飯を食ってほろ酔いで帰れそうだ。
「あー、でもネバネバ系も食べたい」
「食ったらいいじゃん」
「空は? 食べない?」
「俺はいいや。ガッツリ食いたいから、肉頼むし」
「じゃあ、冷奴とネバネバ三種盛り合わせ頼んじゃお」
「おー、頼め頼め」
ハタとメニューを見て秀雄が固まった。
「ねぇ、空。これ何て読むの?」
そう言ってメニューをテーブル越しにつき出して来る。
「シンルチュウだろ。そんくらい読める様になれよ」
「じゃあ、これは?」
攻瑰露……。よ、読めねぇ……。
下手に上から物を言った手前、そんなもん分かるかとは言えずにまた黙り込んでしまった空晴をバッサリ切るかのように、聞き覚えのある声が割り込んで来た。
「メイグイチュウよ、ウマシカコンビ」
「み、美姫姉ちゃんっ!?」
「よ、ピーカン」
空晴の隣の家に住んでいる香坂家の一人娘、
市役所勤めと言うお堅い仕事の癖に、ブラウスの釦がはち切れんばかりの豊満なバストと細い体躯がエロDVDの女性教師物を彷彿させる。
縁の細い真面目そうなメガネがそれに拍車をかけ、美しい容姿の割に口が悪くて空晴と秀雄の事をウマシカコンビと呼んで憚らない。
そして空晴はいつの頃からか「ピーカン」と呼ばれていた。
「その呼び方止めてってば……」
「じゃあ何、ウマの方がいい? あ、それともアッパレとかの方が良い?」
「普通に名前で呼べよ!」
「ピーカンがウマなら、ヒデはシカ担当だわね」
「美姫ちゃん、お帰りぃ。俺、小鹿がいいな」
「大丈夫よ、ヒデ。お前は常に生まれたてだから」
「ぷるぷるじゃねぇかっ!」
いつものやり取りに気を取られていて、美姫の後ろに男が二人怪訝そうな顔で立っている事に気付かなかった。
スーツを着た細くて色白の綺麗な顔立ちをした男と、いかにもモテメンといった風貌の身長の高い男が緩いモカブラウンのロングカーディガンを羽織って口から砂でも吐きそうな顔で美姫を見ていた。
「あ、おやっさん、ここ良い?」
「あいよ」
「何で相席なんだよっ!? 美姫姉ちゃん! 空いてんだから、そっち座れば良いだろ!? 連れがいんだろうがっ!」
「まぁまぁ、そう照れるなよ、ピーカン。ほら、詰めろ」
「ちょ、美姫姉ちゃんってば……」
六人席に成人男性四人と女性が一人。
大柄なのはロングカーディガンを着た男だけとはいえ、狭い上に何故か自分の隣を陣取って来た美姫に空晴は壁へと後ずさる。
「いいのか? 委員長……彼ら、知り合いか?」
「いいの、いいの、近所の子だから。ほら、ワタイチもセラヒタもそっち座って!」
「ごめんな、隣いいか?」
大柄なワタイチと呼ばれた男は、思いの外物腰柔かく空晴の向かいに座っていた秀雄にそう断りを入れる。
「あ、はい……」
ほんの少し秀雄が頬を赤らめた様に見えて、空晴はその表情に息を飲んだ。
男が好きだと聞かされたばかりで、追い付いてない思考は役に立たないが、常に本領発揮する空晴の動物的勘が言っている。
今、秀雄は照れた。このワタイチと言う男相手に、照れたのだ。
今までもこんな顔していたのだろうか?
いつから男相手にこんな頬を赤らめて照れる様な男になった?
空晴は唐突に秀雄が知らない人間になった様に感じて、その微妙に躊躇ったような表情から目が離せなかった。
「常陸、お前真ん中座れ。デカい俺が挟まると、彼が窮屈だろ」
「あ、うん……お邪魔します」
女と見比べても引けを取らない様な綺麗な顔立ちをしたセラヒタは、小柄だがクールな美形だった。
美姫いわく高校の同級生で、今日は三人で飲みに来たらしい。
美姫と同じ高校と言う事は、県内で一番偏差値の高い超進学校出身で、自分達とはデキが違うのだと空晴は狭い空間で更に小さくなる様な錯覚を覚える。
同じ男でも出来る男と言う雰囲気を駄々漏れさせている男は苦手だ。
別に彼らは偉そうでも強そうでもなく、どちらかと言うと紳士で優しそうなのに、自分がバカだと自覚しているが故に気が小さく萎んでしまうのだ。
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