4.魔儀刻匠の工房
「熱砂の風に 冷たき川面
白亜のあらか 彩る花園
砂漠の黄金 果て星の君よ
栄華の国の 麗しき女王……」
……歌が聞こえる。
控えめながらも清らかな声が、覚める意識に染みていく。
「黒き西風 運ぶは病
地を覆う骸 枯れ落ちる栄華
砂漠の黄金 果て星の君よ
そなたの終わりを 知る者もなく……」
いきなり無常だ。
ボクは瞼を擦りつつ上体を起こした。
最初に視界に入ったのは、器具を満載にした大机だった。
様々な形状のガラスの容器。金槌や鋸などの工具。小型の火箸。製図用具一式。ぐるぐる巻きになった針金。
他にも挙げ切れないほどの物で満ちた作業場――その主は椅子に座って、何事か手を動かしている。
長い金髪を後ろで纏め、ひらひらの寝間着の袖を捲った、集中状態の我が妹。
「それ、何の歌?」
ボクが問いかけても、彼女は止まらなかった。
こういう時のユナに邪魔は効かない。手元に視線を注いだまま、言葉だけでの答えが返る。
「南方の古い伝説だそうです。この宿のかたに教わりました」
「ふーん」
南には行ったことがないな。暑くて乾いた土地だというけれど。
ボクは反対に顔を向け、小さな窓から外を見た。まだ暗い。
……だんだん眠気が抜けてくる。
ここは、そう、〈一夜郷〉のユナの部屋だ。客の相手をするために、遊女各人にあてがわれた個室。
ボクは寝台に横たえられて、折れた足には添え木がされ、ご丁寧に外套も脱がされている。ずいぶん深く眠っていたらしい。
「……まだ夜だよね?」
「はい。でも、出かけては駄目ですよ」
「しないよ……」
と言うか、さすがに無理だ。
……無理だよな? 試しに折れた足先を振ってみる。
あっ駄目だ痛い。やっぱりまだ治ってない。あと思ったより痛い。
やめときゃよかった。
で、ユナは何をやっているんだろうか。
自分の馬鹿さ加減から目を逸らし、涙に霞む視界でそちらを見る。
我が妹はその時ちょうど、複数の蓋が付いた箱から、光沢のある鈍色の石を取り出しているところだった。
掌に収まる大きさのそれを、金具で挟んで固定して、平たい面を上向ける。
どうやら魔具の作成中らしい。
儀文字によって神秘を行使する魔儀使いには、大別して二つの系統がある。
一つは儀文字を発声し、その場で魔法じみた現象を起こす者。もう一つは儀文字を物体に刻み、魔法じみた性質を持つ道具――すなわち、魔具を作り出す者。
どちらの場合も、求められるのは正確さだ。正確な発声、正確な刻印。そして前者はそれに加えて、術者自身が霊気を溜め込むことに長けていなければならない。
ユナは生憎、霊気を多く保持できる体質ではなかった。
だから魔儀刻匠になった。“刻む”手法に特に長けた魔儀使いのことを、そのように呼ぶ。
この手法の利点は、術者自身の霊気が必要ないことだ。素材が持つ霊気を使ってもいいし、自分が使う魔具でないのなら、使用者の霊気をその都度吸い上げて動く形にしてもいい。
もちろん、魔儀刻匠だって誰でもなれるわけじゃない。
儀文字の刻印は寸分違わぬ精密さが必須である上、複写では効果を発揮しない。
それに道具や材料の調達も、並の財力ではなかなか困難――
ん? ちょっと待て。
その時、ボクは重大なことに気付いた。
「おいユナ、それ――まさか、大岩蠍の血塊か!?」
鈍色の石。
そう何度も見たことはないから、記憶から浮かぶまでに時間がかかった。
「そうですよ」
ユナは事もなげに答えながら、彫刻用の小刀を手に持ち、血塊をさっそく削りだそうとしている。
ああああ、止せって!
生物の血塊は霊気を含み、液体に溶け込ませやすいことから、霊薬の材料として人気が高い。
そして大岩蠍というのは、岩場に棲息するでかいサソリだ。
それほど凶暴ではないが、力が強くて殻が硬くてその殻を鉱石で補強するため、狩ろうとすると難しい。
用途の多い血や毒には、おかげで大変な高値が付く。
そんなものが。
よりによって、ボクの薬にされようとしている?
「やめろ、勿体ない! 知ってるだろ!」
ボクは叫んだ。
どうせあと数刻もすれば治る――治るんだけど、くそ、今は治ってないので素早く止めに行けない。
どこから手に入れたんだか知らないが、そのちっこい欠片一つだけでも一万ゴーツはするんだぞ。
「大丈夫です。ディアドリンさまからいただいたものですから」
「……はい?」
返答は、やはりどこまでも淡々としていた。
寝台から下りようとずり動くのをやめ、ボクは物で溢れた机を見渡す。
「……それも?」
「ええ。実際の効き目が知りたいとおっしゃっていたので、いい機会だと思って」
……考えてみれば、そうか。それ以外に無い。
そもそも、仮にも遊女の部屋が、どうして魔儀刻匠の工房になっているのか。
それは娼館の主人たるディアドリンの意向だ。ユナにその技術があるのを聞き、興味を持ち、腕を振るう環境を整えた。
ボクは後からそのように聞いた。ボクがニラロに着いた日には、既にそうなっていたからだ。
奇矯なことをする、と思った。しかし単なる気まぐれにしては、いよいよ金をかけすぎじゃないか。
あいつ、何を考えてるんだ……?
一方、そんなこと気にしないユナは、小刀の切っ先に集中する。
高価な素材を相手にして、僅かにでも狂えば効果を発揮しない儀文字を、一発勝負で刻み込む。そんな魔儀刻匠の仕事にとって、あいつの動じなさは理想的だ。
ものの数分も経たないうちに、血塊には精緻な刻印がされた。それを金具から取り外し、次は別の素材を固定する。
効果の安定した魔具のためには、儀文字はいくつか必要になる。
なぜかと言えば、儀文字の意味はゆらぐからだ。
同じ語を唱えたからと言って、同じ働きをするとは限らない。他の儀文字との組み合わせによって、あるいは術者が誰であるかによっても。
“炎”を意味する儀文字があったとして、その作用が火球を発生させるか術者の体を火だるまにするかは、使用者によって違うのだ。だから他人の詠唱を聞いただけで、その性質を見抜くこともできない。……普通は。
だが何が起きるか分からない魔具など、危なっかしくて使えない。
そこで良識ある魔儀刻匠は、複数の儀文字を用いることで、魔儀のもたらす作用を絞る。
そうして初めて誰にでも使える、誰が使っても効果の同じ魔具ができる。
ユナは一応良識ある部類の魔儀刻匠なので、それなりの時間をかけて彫りの工程を終えた。
次は素材を混ぜる溶媒の準備だ。机の下から鉄鍋を取り出し、薄紅色の液体を注ぎ、小さな炉の上で火にかける。
ひと煮立ちしたら一旦炉から外し、儀文字の素材をまとめて投入。
血塊の色素が強いのか、一気に銀色に染まった液体を、再び熱しつつかき混ぜる。
……なんだか魔女の釜じみてきた。臭いも鼻の奥に来るものがある。ボクはそっと寝台脇の窓を開けた。
「完成です」
そうこうやっているうちに、ユナの霊薬が出来上がった。
陶器の鉢に盛られたそれは、ぐつぐつ煮えたぎる水銀めいている。
「熱いので、よく冷ましてから飲んでくださいね」
「料理かよ」
まあ、飲むよ。飲むけどさ。
ボクは受け取った鉢に視線を落とした。銀色の水面に反射して、黒い髪に赤い瞳の、非常にげんなりした顔の娘が見返してくる。それから顔を上げた。ユナはボクの正面に立ち、微動だにせずじっとこちらを見下ろしている。
しばらく必死で息を吹きかけて、どうにか冷まして飲み干すまで、たいへん気まずい思いを味わった。
「お味はどうですか?」
「……知らん」
気まずかっただけでなく、飲めるギリギリの温度で流し込んだので、味なんて感じてる余裕はなかった。
口の中がひりひりする。せめてもの抗議に仏頂面を作りつつ、空になった器を突き返す。
もっとも、効き目は劇的だった。
喉を下って胃に満ちた熱が、体中に広がる感覚。とりわけ折れた左足は、内から燃えるかと思うほど強く、しかし決して不快ではない。
やがてその熱が抜け去ると、ボクは試しに左足を振った。添え木の上から負傷箇所を叩き、最後に床に立って片足で跳ねる。
問題ない。
「治りました?」
「ああ」
寝台の縁に座り直して、お役御免の添え木を外す。
粗悪な霊薬を飲んでしまうと、変な形に治ったり、治るのに時間がかかった挙句、その間ずっと痛みや痒みに苛まれたりするらしい。
その点、ユナは優秀だ。短時間で作った薬で、その手の問題を起こさない。
火傷した口の中からも、ついでに痛みが引いている。
……うん。たまには褒めてやるか。
「……さすがの腕前だ。助かったよ」
「まあ」
頬を掻きながら投じた一言に、ユナは大袈裟に口を覆った。
足早にやってきて隣に腰を下ろすと、ボクを抱き上げて膝に座らせ、後ろから額に手を当てる。
「チオチェ、熱でもあるんですか? いつもより温かい気がします」
「何やってんだお前」
失礼だし、それは決して他人の熱を測る姿勢じゃない。あと温かいのは霊薬の影響です。
後ろから抱きつかれている関係上、背中には無意味に立派な二つの弾力が当たる。
嫌みか。どっちが年上か忘れてんじゃないだろうな。ほんと調子に乗りやがって。
「だって、チオチェがわたしを褒めるなんて、おかしいです。異常です」
「そんな褒めてな――いかもしれないけど、それはお前がいっつも馬鹿なことやってるからだろ。いいから離せ」
「離しません。きっとわたしのご機嫌を取って、また外で危ないことをしてくるつもりなんです」
「だから行かないっての。調査の続きは明日からにする」
「じゃあ、このままでもいいですよね」
「いいわけあるか」
溜息をつく。
……いや、分かってるよ。もう足だって治ったんだし、引き剥がそうと思えば簡単にできる。
でもこいつは、前はこんなにべたべたしてこなかった。村で暮らしてた時は少なくとも。それがこういう風になったのは、この娼館で再会してからだ。
何かあったのかと、そりゃ思いはする。ディアドリンが下手な嘘ついてるんじゃなきゃ、まだ誰にも手は出されてないはずだけど、だとしても。
だから、手頃なぬいぐるみみたいな扱いを甘んじて受け入れつつ、ボクは懐に手を伸ばした。
取り出すのは例の半分の金貨だ。案の定、ユナが肩越しに覗き込んできたのが気配で分かる。
「それ、さっきの人の?」
「そう。遊女誘拐犯の手掛かりだ」
ブラフの可能性も高いんだけど、それは伏せておく。
さらに言えば今回の事件は遊女の失踪であって、まだ誘拐と決まったわけでもない――が、この点は良いか。十中八九誘拐だろうし、そうでなくても関わってる第三者はほぼ確実にいる。
「明日からはこれと、あのごろつきどもの親玉の人相を当てにして調べていく。少しは進展もするだろ」
「しますか?」
「するさ」
金貨の断面の凹凸をなぞる。
頭の中身の整理も兼ねて、自分の思うところをユナに述べる。
「だいたい、今までディアドリンが調べてきて、何も分かってないってのがそれはそれで糸口になるんだ。それだけ上手に隠れられる奴ってことだから」
隠蔽の技術か、権力か。そうした強さを相手が持っていること自体は歓迎できないが、絞り込みの条件にはなる。
まあ、ディアドリンの調査がよほどお粗末だったとか、あいつがボクに隠し事をしているとかの場合はその限りじゃないが。本当は、まだまだ確かめなきゃいけないことだらけだ。
「そういうわけで、ボクの仕事も直に片が付く。そうなれば、こんな場所ともおさらばできるからな」
それでもあえて言い切って、ボクは横目でユナの様子を窺う。
……特に嬉しそうでもないな。こいつが期待に胸躍らせるところなんて見たこともないけど。
別にこの土地が嫌なわけじゃないんだろうか?
「チオチェは」
「ん?」
「ここにいるのは嫌ですか?」
予想外の質問だった。
そのせいで一拍間が空いたが、どう答えるかは決まり切っている。
ニラロは陰気だし、物騒だ。より狭い範囲で言うならば、この宿はそもそも娼館だ。幸い防音はしっかりしてるけど、今もすぐ隣の部屋ではきっと、爛れた夜が繰り広げられてるんだぞ。
「……当然だろ」
ただ、そう訊ねてくる理由は気になった。
折しも考えていたこととも重なる。
「お前は違うわけ?」
「わたしは、まだ分かりません」
ユナは思案気に言った。
「この宿の人たちは親切にしてくれます。ディアドリンさまは、わたしのために工房を整えてくださって――燃料も、自由に使っていいと」
白い指が、先程まで鍋の加熱に使っていた炉を差す。
ああ、あれも梅燈か。この街ではほんとにどこでも見るな。
魔儀刻匠が作業をする上では、小型で高温の熱源は確かにありがたいだろう。
「……そうやって懐柔する気かもしれないぞ」
「分かってます」
だと良いんだけど。
こっちの不安なんてどこ吹く風で、ボクを抱く両腕にぎゅっと力がこもる。
「でも、それに、チオチェと一緒のベッドで寝られますし」
そのままユナは後ろに倒れた。
捕まっていたボクも必然、一緒になって寝台に転がる。
本当にどうしたんだ、こいつ。
「おい、ユナ」
「……劇のお稽古は、明日からも続けるんですよね」
「は? ……ああ」
「チオチェの初舞台の時は、わたしもきっと見に行きますからね……」
背中側から聞こえる声が、徐々に不明瞭になっていく。
最後にむにゃむにゃと何事か言って、それもやがて静かな呼吸に変わった。
「……来なくていい」
だいぶ間を置いて答えても、反応はもう返ってこない。
寝付きが良いのは血筋なんだろうか。……まあ、ボクが呑気に居眠りしてる間も、こいつは神経を使う作業をしてたんだしな。
しょうがない。
ボクはもうとことん好きにさせてやることにした。思い切り手を伸ばして窓を閉め、シーツを引っ張り上げてユナと自分の上に掛ける。
遊女の寝間着は不健全の一歩、どころか半歩手前くらいに薄いが、とりあえずこれで寝冷えはしないだろう。
……役者の練習は、一応続ける。
実際のところ、今日手に入れた情報だけで解決に辿り着けるとは限らないわけだし。だったら同じく不確実でも、他の手段も並行して使う。
やれることはやっておく。それだけだ。
あとは――そういう方針で動くことにするなら、あれもすぐ持ち出せるようにしておくべきだろうか?
部屋の隅に目を走らせる。
目立たない地味な布に包まって、長大で無骨な輪郭が見える。
また荒事をしなきゃいけないなら、あった方が助かるだろうけど。
「……ふあぁ」
欠伸が漏れた。
まあ、追い追い考えればいいか。
おやすみ。
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