5.娼館の童女
翌朝。
ボクが目覚めると、目の前に豊かな胸の谷間があった。
「…………」
視点を引く。
着衣をしどけなく乱したままで、すうすう寝息を立てるユナが顔を見せる。
よっぽど鼻でもつまんでやろうかと思ったが、ここは姉らしく寛大に済まそう。
起こさないよう、そっと寝台を抜け出す。
適当に身支度を整えて、部屋を出た。
ユナの個室は娼館の二階だ。廊下に並ぶ窓からは、建物の屋根の隙間を通して、朝日にきらめく海が見える。
表通りに視線を向ければ、潮騒のような賑わいの気配。夜はふさぎ込むこの都も、明るい間は港町らしい活気を披露してくれる。
「――あーっ! あんた!」
そうして外を眺めていたところ、横から甲高い声が飛来した。
そちらを見る。少女がボクを指差している。いや、指差すのはやめた。代わりにずんずんと歩いてくる。
夏の葉のような鮮やかな緑髪。活力に満ちた金色の瞳。
なんとも人目を引く容姿をしている。直接見るのは初めてだが、南の方の人間だろうか。
それ以上に意表を突かれたのが、その小ささと幼さだった。
背はボクよりさらに二回りほど低く、体つきもまったく未熟。
あからさまに子供だが、ひらひらしていて生地の薄い、ユナと同じ形の寝間着を着ている。
どうやら彼女、こんななりで遊女らしい。世も末だ。
「あんた、チオチェでしょ! ユナから聞いたわ!」
ボクの隣まで来たそいつは、腰に手を当て、狭い胸を張ってふんぞり返った。
何やら怒ってでもいるのか、その両目の端は吊り上がっている。いちいち大きく開く口から、尖った八重歯がちらりと覗いた。
「そうだけど、まずはそのきんきん声をちょっと抑えろ。寝てる奴もいるんだぞ」
対するボクはと言えば、相手の事情より声の大きさの方が気になって仕方なかった。
たった今出てきたばかりの扉を横目で見る。ちょっとやそっとの音なら通さないのは確認済みだけど、それでも朝に騒がしくするのは落ち着かない。
「あ……そ、そうね! なかなか気が回るじゃない!」
少女は意外と素直に非を認めた。
慌てて両手で口をふさぎ、今しがたまでの威勢が一転、上目遣いに見上げてくる。
「……で、チオチェなのよね?」
「……そうだってば。お前は?」
「ふふん。よくぞ聞いてくれました!」
いや、そこまですごい興味があるわけじゃないんだけど。
一瞬抑えた声を再び張り上げながら、また腰に手を当てて胸を張る。忙しいな。
「わたい、プーカ! これでもユナの教育係なんだから!」
「……教育係ぃ?」
聞いたことはある。
遊女の質に気を配る娼館の場合、新入りをいきなり客には出さない。
しばらくは見習いの期間を設け、先輩の遊女を宛てがって、諸々の……まあ、技術を仕込むわけだ。
この宿――〈一夜郷〉は割とお行儀のいい店のようだし、そういう部類なのは納得できる。ボクがここに来るまでユナが仕事をせずに済んでいたのも、まだ半人前だったからなんだろう。
しかし……。
「な、なによその顔! 本当! わたいはヒャクセンレンマのクロートなの!」
自分でも分かる。プーカに向けたボクの表情は、さぞかし胡散臭げな半眼になっていただろう。
その返礼は激しい抗議だ。だが悲しいかな、必死に並べた難しめな語彙の発音がどうにもあやふやで、およそ逆効果にしかなっていない。
ひょっとして、ディアドリンはボクのような追手が来るのが分かっていて、あえて指導役に向いていない娘をユナに付けたんだろうか……?
いや、まさか。縁者の報復なんか怖がってたら人を買うなんてできないはずだ。
「……ふんだ。姉もそうなら、妹も生意気だなんてね」
なお、考え事に気を取られたボクは延々と続く抗議をまるっきり聞き流したので、プーカはすっかり拗ねてしまった。
彼女は唇を尖らせてそっぽを向いている。ごめんな。でもその発言はちょっと違和感があるぞ。
「……待つんだ。誰が妹だって?」
「え? あんたが」
「誰の?」
「ユナの」
「あのな」
ボクは屈み込み、ずいと顔を寄せた。
少し気圧された風な少女に対し、親が子にするように言って聞かせる。
「ボクが、姉。ユナが、妹」
「うそ」
黄金色の目がぱちぱち瞬いた。
可愛らしい仕草だけど、今もその眦は持ち上がったままだ。別に怒っているわけでもなく、吊り目がちなのは元かららしい。
「だ……だってあんた、ユナよりちっちゃいじゃない」
「余計なお世話だ」
ボクの成長は十代の真ん中くらいで止まっちゃったんだよ。
プーカはなおも言い募る。
「それに、ユナがいっつも『チオチェはちょっと間の抜けたところもあるけど、そこがかわいいんです』って言ってたから、わたいてっきり」
「あいつ人にそんなこと言ってるわけ……? 事実無根だよ。忘れろ」
「……でも、昨日だって、ユナにおんぶされて帰ってきてたし……」
「忘れろ。今すぐ」
がし、と肩を掴んで言うと、プーカはこくこく頷いた。
顔がじんわり熱くなる。あれはやっぱりとんだ失態だった。
「まあ、いいけど……でも、ヘンな姉妹なのね。お姉ちゃんのほうがちっちゃいし。しかもこうして見ると、あんたたち、ぜんぜん似てないわ」
「……家庭の事情ってやつだよ」
咳払いをする。
ボクとユナは母親が違う。そしてボクは母親似だ。
……だから、そう。仕方がないと言えば仕方がない。
なかなか姉妹に見えないのも、ボクの方が年下に見えるのも。
とは言え、ねえ。
散々苦労させられてる身としては、アレの妹扱いはちょっと勘弁してほしい。
実際やってることを考えたら、ボクが姉らしく面倒を見てやってる側なのは明らかなんだからな。……そうだろ?
プーカはまだ納得しきれないのか、じろじろと訝しげにこちらを見ている。
が、その表情がまたも唐突に変わった。ぽん、と一つ手を打つと、とっておきの思いつきを披露するみたいに、今度は向こうから顔を寄せてくる。
「――ねえ。あんた、本当にユナのお姉ちゃんなら」
「姉だっての。なにさ」
「だったら、あんたから言ってやってよ。ユナったら、ひとの話をちゃんと聞かないのよ」
「ふうん?」
曰く――遊女の“授業”をしていても、どこか上の空で手応えがない。
試しに教えたことをやらせようとしても、やっぱり全然覚えていない。
かと思えば、ちょっとした数字の計算を間違えたりすると、それはすぐに指摘してくる。
そのまま算数を教えられる流れになって、その日は本来予定していた教育ができず、おかげでディアドリンに叱られた。
「ええとつまり、ユナはちっとも自分の立場をまわき……わまき? わまきえてない……」
「……弁えてない?」
「そう、それ! わたいがバカだからってバカにしてるんだわ!」
バカだって自覚はあるんだな……。
「……あー、それはさ」
ボクは視線を宙に泳がせた。
きっとプーカの言い分が正しいからだ。目に浮かぶ。ずっと静かに話を聞いて、話が終わってもそのまま静かにしているユナの姿が。
もっともボクとしては、妹に遊女の手管を熱心に学ばれても嫌だ。その意味では、熱心に訴え続ける目の前の女の子とは利害が真逆なんだけど。
「ごめん。あいつはそういうとこがあるんだよ。注意しておく」
「うんうん。よろしく頼んだからね!」
この場は適当に、無難な答えを返しておくことにする。
ボクがユナをずっと買う以上、どうせもう授業の機会もないんだ。別に構わないだろう。
プーカは満足そうに数度頷き、そしてふと細い首を傾げた。
「……で、わたいはあんたに何の用があったんだっけ?」
「知らん」
眉間を指で押さえる。こいつ、まともに相手してると疲労感がかさむタイプか。
と言うか何か目的があって話しかけてきてたのか。だったらなんで教育係がどうとか姉妹のどっちが上かだなんてことばかり……。
……いや待て、そういう話に持ち込んだのはボクだったような気もする。
「……ボクに用事があるとしたら、遊女の失踪か、もしくは劇団絡みなんじゃないのか?」
「あっ、そうだった! 劇団!」
ちょっと罪悪感が芽生えたので、助け船を出してやる。
プーカは両手を叩いてそれに飛び乗ってきた。
「わたいも劇団! 劇団やるの! だから一緒に行きましょ! って誘おうと思ったのよ!」
「――へえ」
ぴょんぴょんと物理的にもこちらに飛びついてくる少女を、押し戻しつつ改めて見つめる。
確かに遊女よりは子役とでも言われた方が似合う見た目だ。ちょうどいい。以前からの疑問の一つをぶつけてみよう。
「まあ、一緒に行くのはいいけどさ。お前は嫌じゃないのか? いなくなってるのは劇に出た奴らなんだぞ」
「え? うーん、そんなに。きっとディアドリンがなんとかしてくれるし、あんたもそのためにいるんでしょ? それより、お芝居なんてやったことないし楽しそうだ、ってみんなで話してるわ」
「ふうん。あいつを信用してるんだな」
――この宿で働く遊女たちから、主人のディアドリンはどう見えているのか。
奴の方針の源を、ボクは明らかにしておきたい。既に複数人の損失が出ているのに、なぜ〈ハタオリドリ〉に遊女を貸し続ける。
あいつは何を考えて動いているんだ。あいつは――取引の相手として、信じてもいいのか?
「ええ。ディアドリンは優しいし、わたいたちのやりたいことができるように考えてくれるのよ」
みたび、胸を張るポーズでプーカは答えた。
まるで自分自身の功績を誇るように、淀みのない気持ちがそこにはあった。
「他の娼館じゃ……いえ、他の娼館でも、遊女をそれなりに大事にはするけれど。それって、あくまでしっかり働かせるためで、ひとりひとりに親身になってくれるわけじゃないものね」
これが嘘だとしたら、大した役者だと思う。
いや、役者。役者ではあるのか。だけどここで一時ボクを騙したところで利点は薄い。真実を話していると素直に受け取る方が現実的だ。
「あ、でも、いなくなった子たちが心配なのも本当よ。だからあんた、さっさと解決しちゃいなさいよね!」
「……ああ。分かってるさ」
“みんな”とか“わたいたち”とか言っているのは、この宿の遊女たち、という意味だろう。
プーカはディアドリンを信じ、おかげで仲間の失踪にもそれほど取り乱していない。そしてそれは、きっと個人差はあるにしろ、彼女の同僚たちも同じだという。
「んじゃ、わたい着替えてくるから! 待っててね! 置いていったりしないでよ!」
「はいはい」
ばたばたと走り去る小さな背中を見ながら、考える。
……どうなんだろうな。正直に言えば、ディアドリンの評判は悪い方が腑に落ちた。だから今も、プーカが子供らしい単純さのせいで騙されているんじゃないかとか、そんな風に思うわけだけども。
工房と化したユナの部屋が脳裏に過ぎる。
やりたいことができるように考えてくれる、か。そのために惜しみなく金を投じるとなれば、それはもはや慈善家の域だ。
だけど、だったらもっとそれらしくしていればいい。〈ハタオリドリ〉との関係なんてさっさと解消してしまえばいいし、娘を買い集めて身売りさせる必要もない。
その辺りがどうにも矛盾する。
――決めた。今夜は報告がてら、直接ディアドリンに話を聞こう。
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