2.ニラロ夜行〔前篇〕

「百万ゴーツ」


 きっと妥当な金額を、いかにもくつろいだ様子で女は言った。


「夜ごとのお代とは別に、それだけ頂戴しますわ。そうしたら、あなたの妹をお返しします」


 大きなクッションに身を沈めた、娼館〈一夜郷〉の女主人。

 自分も売ってたっておかしくない見た目だ。と言うか実際、名乗られるまでは、遊女の一人だと思っていた。

 ゆるく編んで垂らした金髪に、長い睫毛に囲われた琥珀の瞳。たぶんユナと同じ東方人なんだろう。胸元の開いたドレスを着て、薄い笑みをずっと浮かべている。

 名前はディアドリン。本名かどうかは知らない。


 こいつが、ボクの妹の、今のだ。


「……それでいい。けど、今すぐは無理だ。金が作れるまで、他の奴には渡さずに待ってほしい」

「構いませんよ。あなたが、お客様である限りは」


 やはり、そういうことになる。

 遊女の身請けには大金が必要だ。いきなり払えるお大尽はそういない。けれどそんなことを考える客は女に惚れているわけなので、他の男にはやりたくない。

 そこで、自分以外には身請けさせないよう店に頼む。店側は毎晩その女を買うなら、と条件付きで了承する。それで客は安心できるし、店はその客を囲い込める。

 誰が作ったんだかも知れない夜の世界の仕組みが、とりあえずボクの役にも立つということだ。もっとも、取り決めが実際に守られるかは、客の甲斐性や店の良識によるが。


「一晩の値段は?」

「千」

「高いだろ。足元見るなよ」

「いいえ。何しろ、初物ですから。ああ、勿論あなたがそうでなくするなら――」

「分かった。いい」


 ディアドリンの表情は元のままだ。そういう顔に作られた人形みたいに、その微笑を消しも深めもしない。

 いけ好かない。こっちが何を考えてどう言葉にするか、お見通しにされてるような気分になる。


 もちろん、ボクにはもっと爽快な選択肢だってある。

 この女との会話をさっさと切り上げ、ユナを連れ出して都の外へ逃げる。追ってくる奴はみんなぶちのめす。

 そうすれば一番手っ取り早い。良心が痛むこともない。どうせ相手は人攫いと取引する悪党なんだから。


 ――だが、それを、この女だって分かっているはずなのだ。

 人の商いなんて後ろ暗い真似、売り手も買い手も他言は無用。なのに妹がここに売られたと、ボクがどうやって知ったのか。野盗たちがどうなったのか。

 その上で、百万ゴーツなんて大金を吹っかけてきている。ボクが実力行使に出たとしても、対処するだけの自信がある。


 本当に、いけ好かない。


「どうかなさいまして?」

「別に」


 そんな風に思っていたものだから、たぶんボクの目付きはどんどん悪くなっていたことだろう。

 構うことはない。せいぜい睨みつけるだけ睨んでやる。


「それじゃ、とりあえず十日分払っとく」

「確かに。……それにしても」


 ボクが押し付けるように渡した革袋の中身を、慣れた手付きで検めて、女主人はこっちを見た。


「あの子が羨ましいですわね。こんなに妹想いで、危地にすぐ駆けつけてくれる騎士様がいるだなんて」


 値踏みするような目だった。

 笑顔の裏にちらりと垣間見えただけの、ほんの僅かな雰囲気の変化。けれど今まで少しも変わらなかっただけに、その様子の差は分かりやすい。


「そんな柄じゃない。……何が言いたいわけ?」

「言葉の通りですわ。羨ましい。このわたくしにも、そのように助けてくださる方がいれば良いのですけれど」


 ああ、なるほど。

 溜息が出た。あくまでボクの方から話を持ち掛けさせようとする根性の悪さに。そして、そんな相手にも調子を合わせざるを得ない自分の立場の弱さにも。

 野盗から奪った金は確かにそれなりだ。だけどユナを買い戻すためには、必要な額の尻尾程度にも満たないのだから。


「内容と、報酬次第だよ」


 渋々ながらにそう言うと、ディアドリンはくすくすと声を漏らした。

 小さく肩を震わせながら、片手で口元を覆い隠して。悪戯がうまくいった子供みたいに、あどけなく見える仕草だった。


「実は、ちょっとした縁から、この宿の子たちをとある劇団に貸し出していまして。そこで少々、問題が起きていますの」


 ……それが、この土地での骨折りの発端。

 ボクが妹を追ってニラロに辿り着いた、その初日のことだった。







 影じみて黒い石の建築。先端に梅燈を据えられて、赤い光で道を照らす柱。

 街並みの全てを見下ろして聳える、地上の月のように白い王城。

 夜のニラロを描き出すものは、おおよそこの三つに集約される。


 失踪事件の手掛かりを求め、夜ごとに盛り場を渡り歩いて早数日。

 ボクは既に嫌気が差してきていた。分かってはいたことだけど、この都は余所者に優しくない。


 分かっていた――そう、分かっていた。

 まともな方法での調査なら、ディアドリンがとっくに手を尽くしているはずだ。ずっと前からこの土地にいて、人脈も豊富にあるだろう彼女が。

 それでも成果が上がらないものを、ボクの聞き込みなんかで探し当てられるはずがない。

 だからって、大人しく従ってはいられないじゃないか――回りくどい、しかも趣味の悪い、ボクが舞台に立って犯人を誘き寄せるなんていう作戦に!


 速やかに、なんとかしなければならない。

 今日の稽古での会話を思い出す。このままではボクのデビューもいよいよ現実になりかねないんだから。


「……はあ」


 本当、どうしてこんなことになっているんだろうか。

 思わず漏れた溜息すら、通りを吹き抜けた冷たい風に掻き消されてしまう。


 整理しよう。

 娼館の主人であるディアドリンは、自分の店の遊女たちの一部を、どういうわけだか劇団〈ハタオリドリ〉の舞台に出演させていた。

 ところが、これまたどういうわけだか、そうして劇に出た遊女のうち数人が、続けざまにいなくなってしまった。


 一応、ディアドリンは官憲に話を持っていった。しかし逃亡や駆け落ちも珍しくない遊女のこと、ろくに取り合ってはもらえなかったらしい。

 これが嘘でないことは、ボクもお役所まで赴いて確認している。

 ついでにユナのことも相談したけれど、予想通りと言うべきか、こちらも反応は芳しくなかった。

 ボクら姉妹は余所者で、野盗の狼藉もこの都の外で起こったことだ。ニラロの公権力にとっては対岸の火事でしかない。


 さておき、ボクも最初は駆け落ちあたりだろうと思った。

 だけど、ディアドリンが主張するところによれば、自分の宿で遊女が勝手に辞めたことはないらしい。駆け落ちするような相手についても、誰も心当たりがなかった。

 途方に暮れているところにボクが現れ、そして――


 ……そして、ディアドリンとワルレーテの協議の結果、ボクが囮として役者の真似事をする羽目になった。


「……やっぱり、なんか絶対おかしくない……?」


 ぼやいてみても、反応を返してくれる相手はいない。

 夜の街路に人通りは絶えて、自分の足音だけがやたら大きく響く。


 ニラロは陰気だ。もう春なのに外套なしでは出歩けないほど寒いし、闇を照らすはずの梅燈の灯りは、色合いのせいでむしろ鬼火めいている。

 建物の屋根越しに街の果てを眺めれば、遥かな高みまで切り立つ黒い壁。

 来る者を拒み、逃げようとする者を阻むあの崖が、ここに訳ありの人間ばかりを招き寄せるようになった。


 だから、余所者が嫌われる。

 だから、日が落ちればみんな屋内に籠る。

 自分の秘密を知られないように。あるいは、他人の秘密を知って報復されないように。


 ――おかげで、それは、すごく目立った。


 夜闇に翻る金色の光。

 視界の隅に引っかかった、鮮やかなその色彩が、この憂鬱な時間にあっては異物のようだったから。

 ボクは思わずそちらへ顔を向けた。


 光は、長く艶やかな髪だった。

 その持ち主は若い女で。寝間着の上から外套を羽織った、なんともちぐはぐな格好をしていて。


 複数の男に両腕を掴まれて、裏路地にある家の中へ連れ込まれようとしている。


 ボクは目を疑った。

 別にそういうやり方の商売女がいたっていい。問題なのはそこじゃない。

 問題なのは、その女が、絶対こんなところにいるはずがない奴だってことだ。


「……ユナ?」


 頼むから人違いであれと願いつつ、ボクは呼んだ。

 女は振り向いた。ああ、その顔。驚きに見開かれる空色の瞳。

 何かを言おうとした気配だけを残し、その姿が扉の向こうに消える。


 ――何やってるんだあいつ!


 あんまり動揺したせいで、ボクはうっかり加減を忘れた。

 ダン、と思い切り地を蹴って、撃ち出された砲弾みたいに加速。

 閉まったばかりの扉へ瞬時に迫ると、勢いのままに蹴り開ける。これも全力。

 果たして戸板は派手に吹き飛び、


「げひょっ!?」


 中にいた男を一人下敷きにして、面白い悲鳴を上げさせた。

 この時点でボクは少し反省した。ユナに当たる可能性もあったじゃないか。

 いい加減、もっと落ち着いて行動しないといけない。


 家の中は案外広い。と言うより、物が少ないせいでそう見える。

 代わりに、人間は大勢いた。人相の悪い男ばかりが集まって、それが一様に目を丸くしている様は、ギャップが感じられてなかなかに愉快だ。


 そして。


「……チオチェ?」


 時間が止まったような沈黙を、細い声が破る。

 そいつは部屋の隅の汚いテーブルに、仰向けに押さえ付けられた格好でいた。


「どうして、こんなところにいるんですか?」


 そんな状態から、不思議そうな顔をしてこっちを見てくる。

 確信した。このバカは自分がどうなるところだったか理解していない。

 ――今回も、また。


「こっちの台詞すぎるんだよ」


 ボクはずかずかと進み出て、彼女の手を取って床に下ろした。未だ呆気に取られたままの男たちは、簡単に手を放してくれた。


「帰るぞ、ユナ」

「あ、はい。分かりました」


 まっすぐに立ったその背丈は、ボクより頭一つ分高い。

 追い抜かれたのはいつの頃だったか。見た目はすっかり大人っぽくなって、けれどまだまだ目が離せない妹。


「それじゃ、失礼しますね、皆さん」


 何しろ、こういうことをしやがるもんだから!

 黙って抜け出せば良かったものを、ユナはごろつきの皆さんに向けて丁寧に一礼して見せた。酷い。こいつには生存のための本能が欠けている。

 案の定、その一言が連中を我に返らせた。


「……まあ、待とうや。お二人さん」


 男たちが目配せし合い、ボクらをじわじわと囲みにかかる。

 先頭の男が低い声を発する。その手には短銃。ボクはユナを壁側に押しやり、迫る彼らの矢面に立つ。


「楽しい時間をお預けにして、家の扉もぶっ壊して、はいさようならも無えってもんだ。埋め合わせの一つ二つくらいくれたっていいんじゃねえか?」

「ふーん」


 ざっと相手方を見渡すに、銃を持っているのは目の前の一人だけ。他の奴らの得物はナイフ程度だ。

 さっさと襲いかかってこないのは、扉を吹っ飛ばしたボクを警戒しているんだろう。巻き添えになって伸びたままの男へ、ちらちらと視線を向けているのが何人かいる。


 それでも、厄介な状況だった。こっちはユナを守る必要もある。

 ……となれば、まあ、仕方ない。気はあんまり進まないけど。


「だったらさ、ボクが相手したげようか」

「あん?」


 怪訝そうにした男の前で、ボクは着ている外套を脱いだ。

 それをはらりと床に落とし、次いで襟元のボタンを外す。


 ――ジャガイモだと思え、だったか。


「楽しい時間ってやつだよ。頑張るから、ね?」

「……へえ」


 悪戯っぽく舌を出して見せながら、二つ目のボタンも続けて外す。

 鎖骨までが露わになった。その曲線に沿って指を這わせながら、焦らすような速度でさらに下へ。

 ここが開けば胸の膨らみが姿を見せ始める、その最後の砦へと。


 ボクの体つきは生憎と貧相だ。

 けれども見せ方の甲斐あってか、男たちは表情を緩めた。

 意外な展開に気を良くして、さっきまで持っていた警戒心を忘れた。


 斜めに踏み込む。

 銃を持った男はすっかりにやけて、構え直す程度の反応も見せなかった。

 手刀で武器を叩き落とし、そのまま腕を捕まえて投げる。笑いから驚愕へ表情を変えながら、宙を舞った男がお仲間の元に飛ぶ。


「――おああぁ!」

「ッ、てめえ!」

「このガキ!」


 瞬時、騒乱が沸き上がった。

 仕方ない――ユナを守りつつ、こいつらを叩きのめすためには。話を聞いてもらうにしても、こういう手合いにはまずそれが必要だ。

 ワルレーテに教えられた気構えも、少しは役に立ったかな。それでも死ぬほど恥ずかしかったけど。

 やっぱり芝居なんてロクなもんじゃない。


「おいでよ。言った通りに、ボクが相手してやる」


 手招きしながら、床に落ちた銃を後ろに蹴り転がす。

 これが怖かった。僅かな動作でボクから狙いを変え、ユナを傷付けてしまえる武器。

 逆に言えば、これさえ無ければ、ごろつきの喧嘩の相手くらいはなんとかなる。


 真っ先に襲いかかってきた男をかわし、すれ違いざまに腹に拳を入れる。苦しげに体を折ったところを投げ、背中から床に叩き付ける。

 続いてナイフを振り回してきた男を、屈んで避けて蹴り飛ばし、後続の奴らに派手にぶち当てる。

 右から刺してきた相手の腕を取り、位置を入れ替えて左の敵を怯ませ、頭を掴んでかち合わせて倒す。

 投げつけられたナイフを投げ返し、振り向きざまに腰の銃を抜いて、背後を狙ってきた奴の目に突きつける。


「…………なん……何だよ。どうしてお前みたいな奴が、俺たちのところに来るんだよ」


 再び、家の中が静まり返った。

 数十秒程度のことだったけれど、決着は自明。男たちは大半が倒れ伏し、まだ立っている者も戦意を失っている。

 かすれた声で言葉を発したのは、銃口と見つめ合う羽目になって固まっている男だ。

 ボクが銃を引っ込めると、そいつは見えない力に弾かれたように後ずさり、途中で足をもつれさせて尻餅をつく。


「ボクのことはともかくさ。こいつは一応、〈一夜郷〉の遊女なんだよ」


 これくらいやってやれば十分そうだ。

 ボクは後ろを振り返った。ユナはちゃんと無事でいる。姉が奮闘したってのに、相変わらず何を考えてるんだか分からない顔で。


 誰にも抱かせる気はないものの、こいつが現状そういう立場であることは事実だ。

 だから娼館を通さずに、店の外で手を出そうなんて考えない方がいい。

 あのディアドリンのことだ。狼藉者に対処する術を持ってないなんてことはないだろう。


 ……というわけで、ここらでお互いやめにしない?

 そういう意図での発言だったんだけど。


「あ――あそこの女将に、とうとう俺たちのことがバレたってのか!?」


 悲鳴じみた声が上がった。

 ボクは思わずその主を見た。他の男たちも同じことをした。それも目にすごく圧力を込めて、余計なことをと言わんばかりに。

 気付いた当の本人も、元々青かった顔を見る間に土気色に染める。慌てて口を押さえているけれど、一度出た言葉は当然戻りはしない。


 その物言い。そしてそれがそんなにも禁句だとするなら、思い当たることは一つしかない。

 まさか。たまたま、こんなところで?


「……馬鹿が」


 ボクがむしろ戸惑っていると、闇の中から声がした。

 家の奥の暗がり。一連の騒ぎには無視を決め込んで、静かに鎮座ましましていた奴がいたらしい。


 そいつはゆらりと立ち上がった。

 背が高い。そして痩せている。けれど貧弱な印象のない、無駄を削ぎ落としたという風情の体躯。

 灰色の髪は短く刈られ、両目はのみで彫ったみたいに深く鋭い。


 試しに、ボクは片手を上げて、気さくに話しかけてみた。


「やあ。もう帰るところだったし、どうぞお構いなく」

「《崩れ泡塊》《垂枝》」


 仲良くする気はないことが分かった。

 力ある言葉、音ならぬ音――妖々たるその詠唱。

 それは神秘の片鱗の行使だ。人の身で扱えるのはほんの一端といえども、正しき音律は力を生み出す。


 果たして。

 空気の震えが広がるのに伴い、倒れた男たちに変化が生じた。

 意識を失っていたはずの彼らが、意識を失ったままで起き上がる。糸で吊られる操り人形みたいに。

 明らかにまともな動きじゃない。その中には扉の下敷きになっていた男もいた。片手で軽く払いのけられた戸板が、小石のように飛んでテーブルを砕いた。


「部下の失言のせいで、お前たちは生かして帰せん――まあ、不運だったな。何の落ち度も無い人間でも、転倒や落石で命を落とすことはある」


 灰色の髪の男が言う。

 元々、今夜はちょっとした情報収集の予定だったはずだ。なのにこの現状はどうだろうか。

 相手は明らかに只者じゃないし、対するこっちにはが足りない。


「ちょっとした事故だと思って死ね」


 これはさすがに、少し面倒なことになってきたかもしれない。

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