駄菓子屋

 広島を離れてもう10年になる。かつての記憶の輪郭は薄れていき、思いだせる思い出の数は少なくなっている。高校時代のクラスメイトも、今では思い出せない人数のほうが多かった。

 そんな薄れゆく広島の記憶の中で、いつまで経っても色あせない記憶があった。それはある駄菓子屋だ。

 アストラムラインの西原駅の近くに、古くからの駄菓子屋、イマイがあった。その店は駅から県道へと抜ける道路沿いにあった。いつからあるのかは知らないが、昭和時代の古い家屋の一角でやっていた。ぼくが初めて駄菓子に触れたのは、このイマイだった。

 イマイは、おじいちゃんとおばあちゃんが交代で店番をやっていた。ぼくが行くときは、たいていおじいちゃんが店番をしていた。


「お前さ、駄菓子盗んでこいよ」

 小学校4年生のとき、ぼくはいじめられていた。理由は覚えてはいない。ただ、いじめられていた事実と、加害男子たちの名前だけ覚えていた。

 盗めと言ったのは、いじめグループのリーダー格の高崎だ。彼は小学校6年生で、グループ内で、圧倒的な力を持っていた。今思えば、年下にしか威張れない小学生だったのだろう。

「え? いやだよ。盗んだら捕まっちゃうし」

 ぼくが言うと、高崎はとても冷たい目を向け舌打ちをした。

「うるせえな。テメエが捕まろうが知ったことか」

 ぼくは、高崎に逆らえなかった。たかが2歳差だったが、育ちざかりの2歳差は、決して覆ることがない力を秘めていた。

「イマイで何個か盗んでこいよ。俺らは第三公園にいるからな。逃げたりしたらどうなるかわかってるよな」

 ぼくは、うなずいて、高崎とその仲間の中村と奥田と別れた。住宅街の道を北上する。県道へ出ると、多くの車が走っていた。バスも多く走っていて、ぼくは、このまま轢かれて死んでしまおうかと思った。いじめは凄惨なもので、言葉の暴力はもちろん、肉体的にもぼくに暴力を振った。その頃のぼくは悩んでいたが、親に言えなかった。不思議なもので、いじめが深刻になればなるほど、親に言えなかった。

 そして、もしこのまま万引きがバレたら、ぼくは刑務所に入ってしまう、もう二度と親に会えなくなる、と本気で思っていて、そうすれば一生親に迷惑をかけてしまう。それならいっそ死んでしまおうと、死の縁に足をかけていた。

 しかし、出来なかった。死にたくないという思いが、ぼくの心を守っていた。


「いらっしゃい海斗くん」

 イマイのおじいちゃんは、いつものように笑顔で笑った。駄菓子屋のレジは店内の奥にあって、そこから全体が見渡せる。しかし、おじいちゃんはぼくを信頼しているのか、レジ横のテレビに夢中になっていた。ぼくは、小さなカゴの中に、わたガムや、グミなどを入れていく。店にやってきて、何も買わずに出ていくのは怪しまれるから、いくつか自分で買ったほうがいいと思ったのだ。

 ぼくはレジを確認しながら、お菓子をカゴに入れたり、肩にさげていたバッグに入れたりした。

「はい、おじいちゃん」

「ん。きょうはいっぱい買うんだね」

 おじいちゃんはぼくを見て笑う。向けられる視線はいつもと同じはずなのに、ぼくはなぜか怖かった。自分が後ろめたいことをしているせいで、バレているのではないかと疑ってしまうのだ。

「う、うん。友達と、食べようと思って」

「そうなんだ。いいね」

  おじいちゃんはそう言って、レジを打っていく。ぼくは言われた値段を、財布から出して支払う。

「はい。どうぞ」

 おじいちゃんが袋に入れてくれ、ぼくはありがとうと言った。そして、店を出ようとする。ここで駆けてしまうと、バレてしまうから、ゆっくりと歩く。いつもと変わらない歩き方で、と言い聞かせれば言い聞かせるほど、いつもの歩き方が分からなくなりそうだった。

 そして出入り口をでたところで、背後から肩に手がかけられる。

「海斗くん」

 肩に置かれた手は、まるで死神の手のように、冷たく感情がなかった。ぼくの体が、その手から伝わる冷気で硬直していくのが分かった。



 ぼくは、おじいちゃんの家に通され、椅子に座らせられた。自分のおじいちゃんの家みたいな、古い匂いがした。

 ぼくは、体を縛られて拷問されるのかもしれないと思った。

「どういうことか、説明してくれるかい?」

 かけられた時計の針の音が、不気味なほど大きく響いていた。まるで、ぼくの人生の終わりを告げるカウントダウンのようだった。

 テーブルに置かれた、ぼくが万引きした商品は、海から引き上げられた魚のように生気を失っていた。

 ぼくは、おじいちゃんに説明した。いじめられていること、万引きして来いと言われたこと全てだ。

「お母さんたちに言った?」

 ぼくは首を横に振った。

 おじいちゃんは、ため息をついた。

「万引きはね、立派な犯罪だってことは、知ってるよね?」

 ぼくはうなずいた。おじいちゃんは、怒っているような口調ではなかったが、そこにいつもの笑顔はなかった。

「海斗くんはまだ、小学生だから分からないと思うけど、聞いて。例えばね、君が本屋でほしい漫画があって、それを万引きしたとするだろう? すると店側が利益を取り返すのに、6倍も売り上げがいるんだ。500円のマンガだったら、3000円ぶん売らなきゃならないんだ」

 ぼくは、黙って聞いていた。働くということがまだ分からなかったぼくでも、その重大さはなんとなく分かった。

「ごめんなさい」

 謝ると、おじいちゃんは笑って許してくれた。ぼくは、緊張していた体が柔らかくなっていくのを感じたと同時に、涙腺もゆるみ、涙が溢れた。

 ぼくはしばらくの間、涙が止まらず、声をだして泣いた。おじいちゃんは、ぼくの頭を軽く叩いた。その手には温かみが戻っていた。


 本来であれば、両親に連絡するのがルールなのだろうが、おじいちゃんはしなかった。ぼくにお金を渡して、そのお金で商品を買うように指示した。そしてそれを、万引きしたようにすればいいと言った。

「だけど、これはあくまでもその場しのぎでしかないからね。海斗くん自身が、しっかり彼らに立ち向かわないといけない。わかるね?」

 ぼくは、立ち向かう、という言葉に少し怯んだ。あの三人に、立ち向かって勝てる気はまるでしなかった。


 万引きしたと見せかけて公園に持っていくと、高崎たちはぼくを賞賛した。悪事を賞賛される気持ち悪さで、ぼくは吐きそうになった。

「またやってもらうわ」

「もうやだよ」

 ぼくが言うと、高崎は下品な顔で笑う。

「いや、お前には才能がある。仲間にしてやるから」

「もうやりたくない」

 ぼくは強く主張した。勇気をだして、立ち向かおうと思ったのだ。

 しかし、高崎に蹴られ、萌えた反抗の芽は、一瞬にして枯れていく。

「俺に口答えしてんじゃねえよコラ。お前、次に反抗したらぶっ殺すぞ。黙って俺のいう事を聞いてろよ。お前は奴隷なんだよ、奴隷」

 高崎が言うと、中村と奥田は、ひでえと言いながら笑う。

「ほら、わかったか?」

 ぼくは、泣くのを必死になってこらえながら、うなずくことしか出来なかった。


 それから数回、ぼくはイマイでの万引きを強要された。おじいちゃんは、そのたびにぼくにお金を渡してきて、購入させた。

「そろそろでかいとこでやらせるか。スーパーとかで」

 高崎がいつもサッカーをして遊んでいる公園で、そう言った。

 ぼくは、イマイじゃないと出来ないよと言った。実際は盗んでいないのだから、スーパーでの万引きなど、ぼくに出来るはずはなかった。

「それにスーパーには、万引きGメンとかいるし」

「大丈夫だって。お前ならできる。捕まったって子どもだからある程度許してくれるだろ。それに俺は、万引きバレたことないし。イマイで練習して慣れたろ、いまならいけるって」

 罪悪感などまるで感じない口調だった。ゲームでもしているかのような、そんな口調だ。ぼくもあのままおじいさんにバレず、嫌々やっていたら、罪悪感が薄れていったのだろうか、と思うと恐ろしかった。あそこでおじいちゃんに捕まって、良かったなと思う。

「分かった。だけど、すこし下見していい?」

 ぼくは、少しでも時間を稼ごうと思った。稼いだところで、良い策なんて思いつかなかったけど、とにかく時間を稼がなくては、と思ったのだ。

「わかったよ。ただその代わり、いいもの盗めよ」

 ぼくは、頑張るよ、と言った。


 誰かに相談しよう、と思ったとき、すぐにおじいちゃんが頭に浮かんだ。ぼくは自転車でイマイまで走らせた。いつものように、自転車を止め、扉を開ける。

「え?」

 扉を開けて、目に入ったのは、店の床に倒れ込むおじいちゃんの姿だった。ちょうど店の外に出ようとして倒れた、そんな感じだった。

「おじいちゃん! ねえ、どうしたの!? おじいちゃん!」

 体をゆすっても、おじいちゃんは反応がなかった。その体は、恐ろしく冷たかった。

 ぼくは、靴も脱がず土足で家にあがって、固定電話で119にかけた。自分でも驚くほど冷静に伝えられた。

 しかし、おじいちゃんは助からなかった。後で聞いたところによると、大動脈瘤破裂という、恐ろしい響きの症状が死因だった。


「イマイのジジイ死んだのマジ?」

 次の日、高崎が昼休みに運動場の鉄棒呼び出してきて、ぼくに向かって言った。ぼくは休んだほうがいいと言われてたけど、学校に行った。もちろんショックは大きかったけど、問題はなかった。

 運動場では多くの生徒が遊んでいた。ドッジボールをしていたり、縄跳びをしていたりした。鉄棒でも、何人かが逆上がりの練習をしていた。

「うん」

「へえ。お前が万引きしたのに気付いて、ショックで死んだんじゃね?」

 高崎と中村、奥田は笑う。

 ぼくは、人の死をなんでわらえるのだろうと、得体のしれない気持ち悪さを感じた。誰とでも仲良くしましょう、と学校の先生に言われたが、世の中には付き合ってはいけない人間もいるのだと、その時初めて気づいた。

「あ、お前が万引きバレて殺したんじゃね? うまくやったな」

 3人は下卑たな笑いを浮かべた。ぼくは怒りがふつふつとこみ上げてくるのを感じた。ぼくに対する暴言ではなく、おじいちゃんの死を笑えることにだ。

 枯れた反抗の芽がふたたび萌えた。それは、みるみる成長していく。

「そんなことよりお前、スーパーの下見はしたのかよ。今日やれよ?」

「やらない」

「あ?」

「もうやらない」

「ふざけんなよ。次逆らったらぶっ殺すって言ったろ」

 高崎の左手がぼくの方にのびてきたので、それを払いのけた。そしてそれが引き金となった。ぼくは、ケンカなんてしたことはなかったし、勝てる気はしなかったけど、高崎に殴りかかった。高崎は応戦してきたけど、彼も、しょせん力が少しあるだけでケンカは素人のようだった。中村と奥田の顔には、明らかに恐怖の感情が浮かんでいた。

 ケンカは、屈強な男性教諭がやってくるまで続いた。しばらくの間、体や顔にアザや引っかき傷が残ったが、後悔はしていない。いじめはその日から無くなった。


 10年ぶりに、小説の取材のために、広島の地を踏んだ。両親はぼくが上京した年に、父親の地元の福岡に移り住んだから、広島は通過点となってしまい、来ることが無くなったのだ。

 西原駅周辺は10年前変わっていないように感じた。10年前の記憶は徐々に鮮明になっていく。

 イマイまでの道のりを、ぼくははやる気持ちを抑えつつ、ゆっくり歩いて行く。

 しかし、すぐさま、ぼくはそこにあるべきイマイがないことに気がついた。家屋すらなく、そこには新しめの一軒家が建っていた。表札には、寺本とあった。

 おじいちゃんの死後、イマイはおばあちゃんがひとりで切り盛りしていた。ぼくはあの日以来、イマイから遠のいたが、上京前に立ち寄ったときは、おばあちゃんは元気でやっていた。

 ぼくは、変わっていないように見えていた町並みの変化に気付く。あったものが消え、なかったものが存在していた。

 ぼくは、しばらくそこに立っていた。そしてふと、駄菓子屋の話を書こう、そう思いたち、来た道を引き返した。

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