第43話 真田丸の攻防 前編

 大坂城の西北そして南西、東北において関東方の攻撃が続き、大坂城を取り巻く砦は奪い取られてしまった。しかし、南方は真田丸はあったものの、未だ大きな東軍の攻撃はなく、どちらかといえば、静寂であり、散発的に鉄砲の音がこだまするぐらいであった。

 しかし、秀忠と家康がじっと我慢して居座っているわけではなかった。もうそうそろ南からの攻撃の必要性を感じていた。特に家康は前線への視察から真田丸の存在が気になっていた。真田丸が大坂城攻略の鍵となると感覚的に思った。そして、何よりもそこを守るのが真田昌幸はいなくても、其の子信繁改め幸村が居座っていたことだ。


 ここで、今一度南方の両軍の布陣を見てみよう。


寄手東軍は、真田丸の南方に前田筑前守利常の一万二千、松屋町口は仙台の伊達陸奥守政宗の一万二千、谷町口には津城主藤堂和泉守高虎の四千、大和五条の領主松倉豊後守重政、肥前唐津城主寺沢志摩守広高、上州館林城主榊原遠江守康勝、大和布施領主桑山左衛門佐一直、松坂城主古田大膳亮重治、大洲城主脇坂中務少輔安治名代淡路守安元らの三千百人、八町目口には越前福井城主松平三河守忠直の一万、彦根城主井伊兵部少輔直勝名代掃部頭直孝の四千、平野口には盛岡城主南部信濃守利直の三千という陣容であった。


 対する西軍大坂方は、真田丸の真田幸村、伊木遠雄ら五千、松屋町口は、大野修理大夫治長の部隊、南條中務少輔忠成、其の叔父隠岐、根来智徳院ら一千三百、谷町口は井上小左衛門時利、織田左衛門尉長頼、北川次郎兵衛宣勝ら三千三百、八町目口には長宗我部宮内少輔盛親、内藤宮内少輔忠豊、中島式部少輔氏種、郡主馬首良列及評定組ら五千、平野口には明石掃部助全登、湯浅右近正寿壽、仙石秀範入道道宗ら四千、八町目口から平野口の間に、山川帯刀賢信と石川肥後守康勝、さらに木村長門守重成遊軍の四千、平野口の東端に戸田民部少輔為重が鉄壁の守をとっていた。

 

 幸村は家康の戦い方からもうそろそろ何かを仕掛けてくるであろうと予測していた。そして、佐助に信州の透波すっぱの集団を利用して、東軍の諸将の配下に潜入させ、また地勢を丹念に調べ上げ、戦に有利になるような情報、仕掛けを行わせていた。


「内記殿、佐助から何か報せはないか」

 幸村は高梨内記に聞いた。ここ数日全く佐助からの連絡が途絶えていた。もしやとも思わずにはいられない。

「左衛門佐殿、報せがないことは、敵に何の動きもない証拠でござろうて。しかし、昨日より茶臼山の動きが慌ただしく存ずるが」

「うむ、何か動きがあるやもしれぬな」

 そこに佐助が現れた。

「左衛門佐様、ただいま帰りましてございます」

「佐助、大義であった。して何かあったか」

「はい、好機でございます」

「明二日、駿府殿住吉を出で、茶臼山に到来。此の真田丸の様子を伺う由にございます」

「ようやった。佐助」

 幸村は此の機会あわよくば家康を撃つことができれば、お味方勝利間違いなしと思った。向こうから出向いてくるのである。これほどの機会は二度とないのだ。

「内記、半左衛門に命じて、鉄砲隊を笹山や城外に伏せさせ、家康を狙い撃てと命ぜよ」

「御意に」

「佐助。そちは手下とともに家康を見張り、隙あらば殺っつけよ」

「はっ」


 家康は茶臼山の将軍秀忠を訪ねた後、側近ら数人のみで前線視察に出かけた。秀忠は危険だからと、親衛隊数百名を付けることを進言したが、家康はかえって目立ち危険であるからと断り、側近と従士の十数名のみで大坂城、特に真田丸の陣容を間近に見るために出かけたのである。


 大坂方にとってはまさに絶好の機会である。しかし、悠々として近づく家康に誰も敵の総大将だとは思わない。

 青木半左衛門はその馬上にある人物は老齢であり、まさしく家康本人だと感じた。

「あれに見ゆるは、敵の大将に間違いなし。功名手柄立てるべし。狙い撃て!」

ダ、ダーン!

 家康の臣従する者は、その音に驚いた。そして家康の方を見た。家康は平然として何事もないかのように馬上にあった。

「矢盾を用意致せ!」

 万一のために防弾よけの矢盾を持参していたので、前面に出した。鉄砲弾が盾に当たる音がする。しかし、距離があるためか威力がないのか、盾を破ることはない。

「構わぬ。よう見えぬではないか」

 家康は銃撃には構わず、大坂城の堀や壁、そして真田丸の堀や壁の状況をじっくり眺めたのち、

「もう良い。帰るぞ」

 と言い、踵を返して、茶臼山に帰って行った。此の様子を眺めていた佐助は、狙撃で家康らが慌てふためいたなら、其の混乱に乗じて襲撃しようと考えていたが、堂々とした行動に、その機会を失ってしまった。

 幸村は自分の考えが浅慮だったことを後悔したが、それはまた家康の方が優位に立った行動をとっていることを感じざるを得なかった。


 家康は其後、諸将の陣営をめぐり、慰問を行った。特に真田丸の前面に陣する前田筑前守利常には、

「筑前殿、この地に築山を起こして大砲を据えつけ、先ずあの目ざとい出丸を打ち崩さねばなるまい。さもあらば、手痛い蒙りを生ずるであろう」

 と言い残して、前田の陣を後にした。

 

 前田利常は一万二千の兵力をもって此の地に陣を敷いたが、利常は10月14日軍令により金沢を出発していた。その陣容は「大坂出陣覚書」にはこうある。


「先手の大将には、山崎長門守、同閑斎、岡島備中、同帯刀、村井出雲守家来、小塚淡路守、安見右近、高畠甲斐、津田和泉守、安原隼人、藤田八郎兵衛、掘才之助、笹島三蔵、長田市兵衛。

二番隊、本多安房守、長如庵、奥村摂津守、同五兵衛、中村刑部少輔、丹羽織部少、富田主水、岡田助右衛門。

三番隊、篠原出羽守、富田下野守、富田越後守、神谷信濃守、奥村備後守、奥野紀伊守、奥村周防守、小幡駿河守、同播磨守、大橋外記、大河原助右衛門、同四郎兵衛、野村小右衛門、稲垣掃部。

四番隊、奥村河内守、前田美作守、同丹後、奥村玄蕃、富田下総守、神尾図書、同主殿助、中川宮内、同大隅名代、加藤石見守、後藤又助、野村左馬允、佐藤瀬兵衛、岡田隼人、今枝内記、同民部少輔、富田弥五作、松田左衛門、才伊豆。

此等右先手之組頭也

御近陣、横山山城入道、同大膳、同式部、石川茂平、水越縫殿助、堀田平右衛門、杉江兵助、安彦右馬允、平野弥次左衛門、瀧右衛門、神戸蔵人、高畠木工助、三輪主水、水原左衛門、石黒覚左衛門。

旗大将、岩田内蔵助、富永勘解由左衛門。

鑓奉行、斎藤市右衛門。

馬上弓、五十騎。

馬上鉄炮、五十騎。

侍大将、松平伯耆守、津田遠江守。

使番、黒母衣、成田助九郎、不破加兵衛、森権太夫、津田外記、西尾隼人、葛巻隼人、森伊右衛門、帰山助右衛門、脇田帯刀、北川久兵衛、前田刑部、生田四郎兵衛、青地四郎左衛門、佐藤忠兵衛、宮崎蔵人。

浮武者、前田七兵衛、浅野将監、河原兵庫、西村右馬助。

小々姓、赤母衣、百五十騎。

同番頭、斎藤中務、堀田左兵衛、生駒主水、小幡宮内、多賀大炊、生駒一正、本保木工助。中小姓、赤母衣、百余騎。

同番頭、半田大炊、宮井太郎右衛門、行山主馬助、不破忠左衛門、伴雅楽助。

大小姓、紺の小旗、金の丸名銘々。

同番頭、篠原織江、恒川監物、田丸兵庫、荒木六兵衛、熊谷勘解由、津川外記。

馬廻与頭、山下兵庫、江守半兵衛、市橋左衛門、つが大学、大塚壱岐、菊地大学。

跡備、前田修理、不破彦五郎、石野讃岐、寺西若狭 」


 二番隊に、本多安房守の名前が見えるが、本多安房守政重のことで五万石の家老である。政重は徳川の家臣本多正信の次男であるが、次男であるがゆえに数奇な運命を辿る。

 天正8年に生まれた政重は、天正19年徳川の家臣である倉橋長右衛門の養子となるが、慶長2年徳川秀忠の乳母大姥局の息子川村壮八と諍いにより壮八を斬り殺したため出奔し、大谷吉継の家臣、後宇喜多秀家の家臣となる。関ヶ原の戦いののち、隠棲後、福島正則に仕え、のち前田利長に三万石で召抱えらえた。その後前田家を辞すと、上杉の重臣直江兼続は婿養子に迎えた。兼続の幕府との融和強化を図るためでもあった。しかし、諸処の問題から上杉から離れ、前田家に家老として帰参することが認められた。此の際に上杉家から多くの家臣が政重の元に仕えることになった。上杉家としては、多くの家臣を抱え財政の逼迫を考えると、結果的に両家にとって良い策をなった。その後、藩政の功績により加増され五万石の身となり、大坂の出兵を迎えたのである。


 前田軍は18日近江海津に到着し、琵琶湖を横切って19日大津に至った。22日家康が永原に到着したことを聞き、永原に赴いて謁見したのち、24日大津から嵯峨を経て天神森に到着。11月2日に天神森を発し、7日摂津口田辺にて閲兵し苅田を行う。13日阿倍野に到着し、17日住吉の家康の本営を訪ねて謁し、家康から大坂攻めの計画を詳細に聞いた。


 家康は諸将に対し、静かに仕寄を進め、静粛を保って総攻撃の命があるまで控えるよう伝達した。


 2日早朝より、諸将は密かに陣地を進め、築山を設けたり、竹束を備えたりした。


 そんな時異変が起こった。井伊掃部頭直孝が陣を進めるや、銃手800名を揃えて一斉に火蓋を切らせ、鬨の声をあげさせたのである。その音に諸将は何事やと驚愕した。将軍秀忠もその鉄砲音と鬨の声が響いてくるのを耳にした。


 井伊家は直政の死後、家督は長男直勝が引き継いだが、家臣を統率できず、次男直孝が井伊彦根藩を継承することになり、家康からも井伊家の総大将として参陣を命ぜられた。直孝25歳であったが、これが初陣でもあった。


「何事ぞ!」

「はっ、調べましたるところ井伊掃部頭の陣所からでござる」

「直孝が、何事を生じたるか!血気にはやりて血迷うたか。大御所がお聞きに達すれば、定めてご立腹されよう。切腹仰せ付けられるかもしれぬ」

「佐渡よ、住吉に足を運び伺うて参れ」

「御意に」

 本多正信は住吉の家康本陣を訪ねた。家康は正信の顔を見るなり言った。

「そちは掃部が発砲したる由にて来られたか」

「大御所様、察しがよろしいようですな」

「そうか、うんうん」

 家康は笑みを浮かべていた。怒りの様子は全くなかった。正信は拍子抜けした気分だった。

「佐渡、掃部のこと、まだ若い。が、兵部の倅であることを思えば納得がいくというもの。陣替に鉄砲を放ち、鬨の声を発して味方に勢いを付けさせたいのであろう。感心なものじゃ。若ければ無茶もしよう。許してやれ。将軍にもそう伝えよ」

「はっ、御意のままにて致しましょう」

 正信は家康が満足そうなことを見て安心した。

「そちが参ったのもどうせ将軍に住吉に行ってこいと言われたからであろう」

「何も隠せませんな」

「うんうん、それで良い」

 家康は此の日上機嫌で過ごした。


 3日家康は本多正純に命じて、天満から舟場までを巡視させた。正純は帰って報告した。

「天満長さは味方の備え東西僅かに六町にして、船場は二十町ほどございます。しかるにお味方の人数にては双方とも同様の人数に仰せ付けられますゆえ、天満は高一万に就いて虎口三間宛にあたれば、後陣の兵ども徒に見物しあるのみと見受けます。ここは池田左衛門督を船場に移しては如何かと存じますが」

「うむ、上野介、左様にするが良い」


 同じ3日、将軍秀忠は住吉まで足を運び家康と会見した。

「大御所、近日中に総攻めを行い、此の戦い早う終わらせたく存じます」

「それはならぬ。総攻めとならば、我先と一番功名を得んと城に殺到し、味方の手負い死人多く生ずるであろう。たとえ勝利疑いなしとすれど、士卒を失うは忍び難い。ここは智謀を巡らして城を落とすことかなえば、大いに安かることであろうが」

「大御所、諸将意気盛んでござれば、今が丁度潮時と思われますが」

「ならぬものは、ならぬ。じっくりと攻めるがよい。功を焦ってはならぬ」

「はっ」

 将軍秀忠の総攻めの企図は家康に依って却下された。


 しかし、秀忠は此のままじっとしていることもならなかった。本多正信を前田利常の陣営に派遣し、命を伝えた。

「明日、本営を岡山に移さんとす。依って篠山の敵を追い払い、陣を篠山に進められよ」

 さて、この命が冬の陣一番の修羅場を現出することになるとは、誰も思っていなかった。

 この命令は前田家にとって好都合なものであった。城攻めに対し、築山を築く普請をするものの、篠山からの銃撃に遭い、毎日相当な死傷者の数を出していたので、この篠山攻撃命令は好機至れりと前田軍を鼓舞したのである。

 そして、この攻撃の報せは、前田に足軽として忍ばせていた間者から佐助へ、そして幸村へと伝えられた。

「明日早暁には篠山に来るであろう。それまでに皆城内に戻るべし!」

 と命じた。そして、

「敵の姿を見れど、決して命があるまでは発砲してはならぬ。破る者はその場にて斬り捨てるから、覚悟いたすように」

 と厳命し、夜明けとともに、鉄砲隊を配置に付かせたのであった。

 いよいよ、のちに一番のヤマ場とされる時が近づきつつあった。

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